「スリランカの悪魔祓い」を読んで
この本はスリランカの田舎村にある悪魔祓いの風習を追った男性の話を書いたものである。
ある平飼い養鶏場を営む男性が紹介していたのをきっかけで読んでみたらとても面白く、現代の占いや霊感商法に通ずるものがあるなぁと思い、noteに書こう書こうと思いはや数ヶ月。
少し時間ができたのでここに感想を書こうと思う。
【スリランカの悪魔祓いとは?】
スリランカの田舎村ではある日突然、調子を悪くしてしまったり、塞ぎ込んで閉じこもってしまったり、神がかり状態になってしまう村人が出る。
村ではそういった人達を「悪魔憑き」と考え、昔から悪魔祓いを生業としてきた呪術師にお金を払って悪魔祓いの儀式を依頼し、悪魔に憑かれた村人に元気になってもらうのだそうだ。
この悪魔祓いというのは、村総出でお祭り騒ぎのような儀式を行う(支払った金額にもよる)。
まるで日本神話の天の岩屋戸の、岩屋戸に身を隠してしまった天照大神をお祭り騒ぎを起こして引き摺り出したワンシーンのようである。
ある悪魔憑きの女性は旦那の収入が不安定な事により過度なストレスを抱え自室へと引きこもってしまい、またある少年は最愛の父を亡くしてからというものの不運が続き、追い詰められてゆく中突然倒れて悪魔祓いをする事になった。
作者は呪術師や村人達に「どんな人に悪魔が憑くのだろう」と訪ねて回ると、皆が揃って「それは孤独な人だ」と答えたそうだ。
それは1人で作業をするだとか、一人暮らしだとかの物理的な孤独もあり、寂しさや疎外感などによる心理的な孤独もあると言う。
村の人々はそんな孤独な人たちのもとに悪魔はやって来るのだと言うのだそうだ。
信心深いスリランカの村人達は、孤独によって心を病んでしまった患者が病院でも治せないとなると呪術師に悪魔祓いをお願いする。
そして村総出で賑やかに行われる悪魔祓いの儀式は、孤独な人に人の繋がりや暖かさを思い出させ、物理的な孤独感も心理的な孤独感も忘れさせる。
そうして悪魔祓いは何世代にも渡って続いてきているのだそうだ。
わたしはこの一連の流れに、占いに来る相談者達や占い師としての自分の立ち位置に強い共通点を覚える。
現代の占いはカウンセリングや悩み相談などの需要も大きく占めている。
孤独な相談者は占い師に友人や恋人、家族に相談できない悩みや苦しみを、お金を払う事で聞いてもらい、行動の指針やアドバイス、気持ちの整理などの一助にして心を軽くし、孤独感や疎外感を忘れて帰っていく。
お祓いや除霊なども行う占い師なら儀式的な事を相談者に施す事もするだろう。こっちはもっと悪魔祓いに近い。
相談者は、誰かに相談する事のできないという孤独の中、自分では考えても分からない事、解決しにくい事を、お金を払い、占い師に非日常的な事や儀式的な事を行ってもらう事で悩みや不安を解消、解決し、元気になって帰ってゆく。
この流れは、占いの下りを悪魔祓いに変えても違和感はないのではないだろうか。
過去、私の元へ来た相談者の中には、追い詰められ、切羽詰まり、焦燥感のあまり、私のことを罵倒したり怒鳴ったりした相談者もいた。
その様子は悪魔に取り憑かれたようだと言っても過言ではないくらいの様相であったが、一生懸命寄り添って占ってゆくと、最後は憑き物が落ちたようにすっきりとした顔つきで帰られて行った。
一見胡散臭く、眉唾物に感じる悪魔祓いという儀式も、根っこを見れば占いのやる事となんら変わりはないと私は思う。
今まではスピリチュアルや霊感商法に関してはアンチ寄りな意見を持つ事も多かったが、最近では一番大切なことは、例えどんな過程を踏んでいたとしても、相談者が最後には笑って少しでも元気を出してくれたり、気持ちを楽にしてあげられたかどうかだともつくづく実感もしている。
相談者が「やってよかった、受けてよかった」と思っているのであれば、外野がそれに対して何かを言うのは野暮なものだろう。
人を傷つけたり巻き込んだりさえしなければ、そして本人がお金を払って得た対価に納得していれば、ぶっちゃけた話、ツボを買ってようが何してようが、それで良いのである。幸せの形は人それぞれだ。
占いの修行を始めてはや数ヶ月経ち、他の占い師と交流をしたり、今までと違った相談者を鑑定してゆく中でぼんやりとできつつあった新たな発見が、この本との出会いによって明確に形作られたように私は感じる。
占いの世界に身を置きながら、占いという形のないサービスの提供の仕方に懐疑的だった私のような占い師や占い師の卵、占いの利用者にはぜひオススメしたい一冊である。
Amazon Kindleなら数百円で購入できるのでぜひ読んでみてもらいたい。
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