今夜は1人で踊ろう
役職でしか知らなかった女が目の前に座っている。こちらをみて「ねぇ」と呼ぶ彼女も、きっと僕の名前をフルネームで覚えてるわけじゃない。
これまで出会うことのなかった人種を見るような眼差しで、彼女は僕のこれまでをこれでもかと聞いてきた。自分のことを話すことが苦手な僕にとっては酷く億劫に感じる時間で、普段の何倍にも延ばされた1時間は無限にも思えた。
店内のBGMは徹底してクラシック調で整えられていて、僕たちの話も音に乗せられて、深く深くへと沈んでいく。それが妙に甘ったるくて、心地良くて、2人揃ってグラスの乾くスピードも上がっていく。
自分より目上の人と話すということもあって、気が張っていたのかシャンパン6杯で酔いも回っている。はじめのうちこそ適当に相槌を打っていたけれど、今はもう彼女の声も遠くなってくる。異性と2人の飲み会で相手より先に潰れるなんて、大学時代の自分に言ったら怒られるに違いない。
さすがに限界だと思ったのか、おもむろに彼女は席を立ち、慣れた手つきで会計を済ませてしまった。彼女に肩を貸してもらい、なんとか店を出て駅の改札へと向かう。
「ちゃんと帰るんだよ?」
どこにも連れて行ってはくれないのかと残念に思うけれど、僕の脳内はもうそれどころではないほど出来上がっていた。
「コレね、わかった?」とスマホを見せてくる。ここから僕の最寄りまでの乗り換え案内だった。いつの間に調べたのかと思いつつ、ありがとうを口にする。こんな醜い姿を晒すくらいなら飲みにこなければよかった。意地張って6杯も飲まなければよかった。と反省ばかりが反芻して歩くスピードが上がる。
改札に入り、彼女の方も振り向かずに足早にホームへと向かう。きっと彼女は最後まで見送ってくれてるだろうけれど、これ以上惨めな姿をいつまでも晒していたくはなかった。
それからの記憶は曖昧で、21時くらいに解散したはずだったのに気づけば山手線を何周もしていて、終電ギリギリでようやく最寄駅に着いた。泥酔とまではいかずとも1人で歩くのは中々に困難で、何度も車内に座り込んだりもした。
普段は節約のために決して使わないタクシーを捕まえ、目的地を告げる。曖昧な思考は自分を嫌いにさせるのには十分で、ガラスに映る自分の姿がひどく惨めでまた吐き気が蘇る。なんとか部屋に辿り着いた頃にはもう服や靴はボロボロで何もできずにそのまま服を脱ぎ落とし、ベッドへと飛び込んだ。
その人はお世辞にも「可愛い」と言えなかった。
けれども、伸びた髪は綺麗に整えられていて、指を通せばスルッと抜けて、歩けば踊るように跳ねる彼女の髪は光沢を保っていた。
手入れの行き届いた髪はワックスで綺麗に整えられていて、ぐしゃぐしゃの髪をした僕の普段からは想像もつかないほど時間をかけて入念に手入れされていることは容易にわかった。
そんな彼女とどうやって付き合ったのか。「好きです」とか「付き合ってください」なんてありきたりな言葉を交わらせることなく、気づけば互いの連絡先がLINEにピン留めされて2日に一度だった連絡は半日に一度にまで増えていった。
誰かに伝えることもなくご飯に行くようになり、付き合うようになった僕たちにとって世界は僕と彼女だけだったし、世間はひどくどうでもよい存在に思えていた。
「今日は何食べにいく?」
「カレーかオムライス」
「またじゃん」
「甘口ならいい?」
彼女との会話は心地が良くて、僕の思ったことを全て叶えようとしてくれる彼女のためなら僕も尽くしたいと思うようになるのに時間はかからなかった。
頑張り屋の彼女は何でも「トライ」を決断する人で、会える回数は頻繁とはいかなかったけれど、その分僕もその時間をバイトや遊びに充てた。
2人で会う時は決まってご飯を食べにいくことが多くて、お酒が好きな2人にとって居酒屋は都合の良い集まりやすい場所だった。
初めて彼女と身体を重ねた夜は一際寒い日で、珍しくご飯のあと2人で泊まったホテルで寒いよねって身体を寄せ合った。いつだって彼女がよくわからないことを言って、それに僕がツッコミを入れる関係性の僕たちは普通の恋人を演じられている気がしてた。
「今夜泊まってもいい?」
彼女が初めて僕の下宿先へ来たのは付き合い始めて半年が過ぎた頃で、いつもどおり楽しく飲むだけのつもりだった僕の心拍数は軽率に跳ね上がった。
彼女が初めて僕の家へ訪れた日の夜、彼女と2人で散歩へ出掛けた。日が昇るギリギリまでのんびりと歩き続けた僕たちは特に変わった話をするわけもなく、目的のものがあったわけでもなく、歩くことだけが全てだったように思える。
彼女は何でもいい「日常」を愛する人だった。
付き合いだして互いのことがより深くわかるようになり、色んな場所や色んなお店を巡った頃には彼女のインスタグラムのストーリーには何枚かに1枚のペースで僕が映るようになり、投稿欄にも僕の写真が載る頃には周りも僕たちの関係に薄々気付いてた。
僕とは違い、免許を持っていて趣味がドライブだった彼女の運転は静かで落ち着いていて、2人で車を走らせて夜景や朝日を見にいくことも珍しくはなかった。
「すごいね、綺麗だね」
感情をそのまま言葉にしてしまえる彼女はきっと本当にそう思っていたのだろうけれど、素直に受け止めることも認めることもできないあの頃の僕にはその言葉が嘘みたいに思えて「そう?」とか「そんなことないよ」と肯定することはなかった。
本当に僕なんかといて楽しいのだろうか。と何度も疑問に思ってしまうほど彼女の周りは、僕とは違い輝いていて、いつだって彼女は1人じゃなかった。
そんな彼女が時折見せるひどく悲しそうな表情の原因が僕にあるような気がしてならなかった。
今になって思い返せば、ずっとひどい扱いだった。
どれだけ「会いたい」と言われても僕が会いたいと思わなければ会おうとしなかったし、会ったと思えば適当に食事を交わし、会話を機械的に行い、身体を重ねる。
翌朝早くには気持ちの冷め切った身体を騙すようにして彼女を抱きしめ、キスをした。Twitterやインスタグラムで見かけ、何度も話に聞いていた「素敵な日常」なんて彼女に用意してあげれた記憶なんて一つもなかった。
それでも彼女は、素敵とは程遠いその日常を愛してくれていたし、その日常を愛でる彼女の姿見るたびに僕はひどく吐き気に襲われた。もう前と同じように彼女の横で笑っていることはできないのかもしれないなと薄々感じたりもしてた。
不器用な僕らは、結局2年の時を一緒に過ごした。
どちらから別れを切り出すこともできず、ただズルズルと時間だけを繰り返してしまった僕たちの終わりは彼女が連れてきてくれた。
「もう限界」
長い沈黙のあとこぼすようにそう呟いた彼女の声を聞いて僕は全てを悟った。
ずっと僕だけが苦しいのだと勘違いしていたけれど、普通に考えれば否定ばかりされる彼女の方が苦しいに決まっていたのだった。
彼女のためならどんな困難も乗り越えられると思ってた。彼女のためなら何でもできると思ってた。
お世辞にも「可愛い」とは言えない子に恋をした。
僕にとっては、世界で一番、可愛い人だった。