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【小説】バーテンダー【短編】

 ハワイに2週間ほどの旅行に出かけた時、たまたま知り合ったマスターは、身一つ、恋人も連れずにただ気持ちの向くままにハワイへやってきた僕のことを「Lonely boy(ひとりぼっちの少年)」と呼んだ。確かに、白髪交じりの体格のいい彼に比べれば、貧弱で痩せていた不健康そうな僕は「ボーイ」と呼ばれてもしょうがなかった。半分馬鹿にしながらも、なんだかんだで僕を気に入ってくれた彼は、閉店時間になっても居座る僕を追い出そうともしなかった。宿を取るのも忘れていた僕は、その一晩を結果的にバーの固いカウンター席に突っ伏して過ごしたのだが、彼はそれに対して文句一つ言わず、それどころか朝食も用意して待っていた。
 翌日、二日酔いでトイレとカウンターを往復する僕に向かって、海の男らしい鍛え上げられた背筋をタンクトップ越しに見せつけながら自慢のスクランブルエッグを作る彼は、日本の作家についてあれこれと話し出した。その前の晩、僕は彼と話している中で、彼が僕と同じような、いわゆる文章好きの人間であり、重度の読書狂いであることを知っていた。彼は、一般的な…それこそ、年に本を10冊ほど、あるいはそれ以下しか読まないような…日本人が知らない作家すらも知っていた。最近のお気に入りは、川端康成らしく、彼に感化されて、今度日本に行く予定を立てているのだという。

「ところで、少年。君はハルキを知ってるか?」
「ハルキ…ですか? 知り合いに一人二人はいますけど…」
「違うよ。ハルキ・ムラカミのことだ」彼はそう言いながら、皿を僕の方に突き出した。
「あぁ、知ってますよ」
「彼の小説は好きか?」
「嫌いではない」
「そういう言い方はよせ。誤魔化されるのは嫌いなんだ。ジャップのそう言うところが気に入らない」
「作家としては好きだ。全部集めて本棚に綺麗に並べる程度には」
「作品は?」
「『風の歌を聴け』……英語だとなんて言うんだっけ? Gone With the Windだったか?」
「そりゃ、マーガレット・ミッチェルの本だよ。違う違う。それなら『Hear the wind sing』だ。南北戦争の話を日本人が書いてどうする?」

 確かにな、と僕は返して、彼が注いでくれたソーダをごくりと飲み干した。冷たい炭酸が喉を伝って、胃袋の方へと流れ込んでいくその感覚は、なんとも言えないくらい新鮮だった。潮風が、開かれた扉の方から店内をぐるりと駆け回り、壁にかかっているドリームキャッチャーが静かに揺れた。サーフィンボードのサメが、波音を立てる海の方をじっと見つめている。店はまだ開く時間にはなっていなかったが、海の方へ向かう観光客たちが、時折不思議そうに僕のことを窓から見つめていた。

「それならあんた、デレク・ハートフィールドって作家を知ってるか?」
「あぁ、知ってるよ。ハルキが作った偉大な作家さ。それがどうした?」
「作ったって?」
「え?」
「作家は作るもんじゃないだろう」

 僕は彼の返事を聞いて、このマスターがデレク・ハートフィールドという作家が、村上春樹の作った架空の存在であることを知らないと知った。それくらい、本の末文や解説にでも書いてあるだろう、と思ったのだが、彼は知らなかったのである。そうして、ずいぶんと深刻そうな顔をしてから、僕にこんなことを言い出した。

「まあいい。日本人のあんたにお願いだ。日本でもし「デレク・ハートフィールド」って名前の作家の本を見つけたら、俺に送ってくれ。住所はここでいい。ハワイじゃ本を手に入れるのも一苦労でな。それに、そもそもデレク・ハートフィールドなんて名前の作家が見当たらないんだ。日本で、ハルキがペンネームにしてるんじゃないかと思ってる。もしもあんたが持ってるっていうなら、それを5ドル高く買い取ろう。頼むよ、な?」

 畳みかけるようにそう口にする彼の目は、どこか宝石を求める海賊になりきった小学生のそれのようにキラキラと輝いていた。前歯が欠けている彼は、笑うと口の中がぽっかりと開いて見えた。アボリジニだったか、どこかの南国の原住民は、成人の通過儀礼に前歯を折るという話を聞いたことがあった為、彼もそういう風習に生きる人間なのかもしれないと思った。
 文明人だった僕は、少し努力すればスマホを使って英語版のwikiを開いて、彼に「デレク・ハートフィールドは存在しない」ということを伝えることもできた。だが、彼の顔を見ていると、それがどうも残酷なことのような気がしてならなかった。この親日家のマスターは、きっと真実をしれば、ひどく落胆するのだろうということが分かっていた。だからあえて、僕は彼のその質問に、わかった、約束するよ。と答えた。

「ありがとよ。あんたは俺が会ってきた中で一番の客だ。礼儀正しくて、面白くて、おまけに日本人と来た。あんたみたいなのに一目あえりゃ、俺は幸せだ」

 少々言いすぎだ、と思ったが、彼の精いっぱいの感謝の言葉に、困惑を覚えながらも、なんだか少し嬉しい気持ちになった僕は、そのまま永遠に叶わない約束を背負って、ハワイを気の向くままに楽しんだ後に、その2日後の午後の飛行機で東京へ戻った。

 彼のことをすっかり忘れていたある日のことだ。新聞で、ハワイで起きた銃の乱射事件に関する記事を見つけた。イスラム系の過激派組織に感化されたある若者が、バーで銃を乱射して5人が死傷した、というものだった。現場の写真には、僕があの陽気な親日家と会ったバーの、変わり果てた廃墟の姿があった。黄色い規制線の向こうに見える看板には「ジェイズバー」という言葉が書かれていた。マスターがジェイかどうかは分からなかった。もともと叶わぬ彼の願いが、かなえられずに終わってしまったことに、僕は罪悪感が拭えなかった。日本のデレク・ハートフィールドに会うという夢も。

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