「世紀の光」/アピチャッポン・ウィーラセタクン
ずっと見逃していたアピチャッポン監督の「世紀の光」をイメージフォーラムで観てきました。
監督の映画はほぼ観ていますが、その中でも特に心に残る映画でした。
ですが僕はいい映画を観終わった後に的確な感想を述べることができません。
そこで別の角度から余韻の話を。
僕の中で確かな感覚みたいなものの話。
一つは映画館を出た後、今まで見慣れていた風景がまるで違うこと。
もう一つはその風景を観ながら少し歩きたくなること。
そこから次第にその風景に自分が溶け込んでいく感覚があること。
そして最終的に自分の目が一つのカメラのように機能し始めること。
主観と客観の間を行き来するカメラのレンズのように、僕らの周りの当たり前の景色が当たり前でなくなる。
主観だけで眺めていた風景が少しだけ客観的になり、だんだんとかけがえのない瞬間の連続に見えてきます。
そして結果的に…この世界をちょっぴり‘許す’ことができるようになります。
この日本語が果たして的確な表現であるかどうかはわからないし、それこそがとても主観的な言葉のように聞こえてしまうかもしれないけれど…僕の中で今ふと浮かび上がってきた言葉です。
ところが、この余韻の効力は残念ながら長くは続かない。それこそ日常の波に溺れているうちに簡単に目が覚めてしまうでしょう。
しかし一本の映画が直接与えてくれる魔力?夢力?はそもそもこんなものなのかもしれない。
ただ一つ信じれるのは、こうした体験の積み重ねはふとした瞬間に世界を少しずつ少しずつ押し広げてくれて、知らず知らずのうちに、無意識のうちに‘許す’力を与えてくれていること。
消えたのではなく、ちゃんと流れ続けているもの。
きっと僕らのカメラは回り続けているんです。
そう思います。
さて…そもそも‘許す’って何でしょうかね?
自分で書いておきながらも自分の言葉ではないように浮かび上がってきた言葉。正直実態がつかめず書いている言葉。わかりません。
何を許すのでしょうか?
僕が許すのでしょうか?
はたまた僕が許されるのでしょうか?
この世界には許しが必要なのでしょうか?
これはきっとこの先の自分への問いでもありますね。
僕は少なくともこういう瞬間のこういう感覚を信じたいと思っています。
映画にはたとえばこんな力があるんだと思います。
いい映画でした。
河合龍之介