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「息が苦しくなるほどに跳ぶ」閉幕…

舞台「息が苦しくなるほどに跳ぶ」が閉幕しました。

改めまして今回ご来場下さいました皆様、どうしてもご来場が難しかった皆様、そして遠方より(韓国からわざわざお越し下さった方もおりました)お越し下さった皆様、誠にありがとうございました!

小さな穴蔵のようなギャラリーでの公演。窓もなく、空気も決して良くはない空間ではありましたが、今までにないほどに近い距離で、僕らの発する熱気、それを受け止めて下さるお客さんの緊張感もが相まって逃げ場のない、けれどもかけがえのない時間、呼吸があってそれを皆さんと共有することができました。
一本の公演が終わるたびに息が本当に苦しくて、切なくて、もう本当にシンドくて。正直体なんてボロボロでした(昨日一旦落ち着いた時、その事実を実感しましたくらいアドレナリン出まくってました。)。おそらく骨の一本や二本負傷してると思う笑。
けれどです。
地上に出て空気を吸い込むと、なんとなくそれでもまた跳ぼうという希望が湧いてくるような不思議な作品でした。

観てくれた方もそうだと思いますが、この作品はうまく表現ができません。
演じている僕らもうまく表現ができません。説明ができません。
でもそんな作品だと思っています。
瞬間瞬間を何気なく、でも楽なんかはしてなくて、精一杯というか、温存せずに跳ぶ。
飛ぶじゃなくて、跳ぶ。
flyじゃないんです。jumpなんです。跳んだら落ちるんです。でもまた跳ぶんです。
それが青春のエネルギーでもあるし、大人になった今も僕らの中にずっと燻っててウズウズしているものの正体なんだと思います。

話はそれますが、この間自閉症の東田直樹さんの特集で、彼が跳ぶことをやめられない理由を追いかけていた番組を見ていて、すごくこの作品と相通じる部分を感じました。言葉や会話で伝えられない歯がゆさや溢れる想いを全身で表現しようと思った時、彼はjumpする。
僕らも同じなんじゃないかなと思いました。
言葉や会話を尽くしても伝えられない。尽くしすぎて伝わらない。むしろ表現すればするほど遠ざかる何かもある。そんな時僕らはどうすることもできなくて、跳ぶしかできない。自分で自分を鼓舞するというか、維持するためというか、運動ってそういうことなのかもしれない。

この作品でやりたかったのは、そんな表現にならない何かを、でも1番素直で、1番伝えたくて伝わらない何かを追い求めて運動し続けることだったのかもしれません。そんな瞬間を目撃してもらいたくて僕らは跳び続けたのかもしれません。

だからこの作品を理解とか、説明とか、ある価値観でわかったふりはしたくないんです。この作品がこれからも豊かに僕らの中に生き続けてくれる為には、変わらずただただ跳び続けるしかないんです。

そして生きていればいろんなことがあります。でもこうして周りにはみんながいて、みんなも同じように跳び続けていて、一緒になって跳んでぶつかって弾け跳びあえる存在なんだなと思えば、ちょっとおかしく思えて“ふっ笑”と笑える自分がいます。
そういう単純さに気づけたような今回の公演でした。

とてもとても豊かな時間でした。
とてもとても豊かな仲間に巡り会えました。
とてもとても豊かなこれからがありそうな気がしてます。

河合龍之介


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河合龍之介
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