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神の手

 神の手と称されたクラウス・マクレイン。かつて彼は凄まじく美に長けた絵を書くことで有名だった。しかし精神を擦り減らして描かれる絵画の数々は、緩やかに彼から視力を奪っていった。やがて失明した彼は、それから一幅の作品も世に出していない。何より彼を悩ませたのは、新しく本を読むことができないということだった。着想の源泉はいつも書籍だった。そこで、彼はある窮余の一策を思いつく。
 目が見えなくなった彼には使用人がいた。使用人はかねてから彼によく尽くしてくれていたので、信任が篤かった。ある日の午餐のあと、マクレインは使用人にひとつの依頼をした。「私の代わりに本を読み、その本から得た想念を私に語り聞かせてはくれないか。そうすればこの見えない目でもまた絵が描けるように思うのだ」使用人は絵が描けなくなり半ば抜け殻のような日々を過ごしている主人を痛ましく思っていたので、これを快諾した。

 果たして効果は覿面だった。使用人から聞かされる物語や哲学の数々は彼に再び筆を執るだけの活力を与えた。やがて彼は画壇の筆頭に再び躍り出たのだ。そうして巨万の富を得たマクレインだったが、ひとつの懸念が凄まじい速度で膨れ上がっているのを直感していた。それは使用人の処遇だ。彼はすでに目を失う以前よりも優れた名声を得ている。ただし、それは使用人の助力あってのことであり、独力でなしえたものではない。マクレインはそれを相当な重みをもって体感していた。それだけに、そこに一種の恐怖を見出だしていた。当然給金は上げなければならない。待遇もよくしなければならない──そこまで思案を巡らせたとき、彼の胸裡をひとつの恐怖が占領した。いま世間から褒めそやされている私の作品は、本当に私の作品と言えるのだろうか。使用人の精神と器官を通して伝えられた知識にそのほとんどを頼って生まれている私の作品群に、私という存在はどこまで関与しているのだろうか。マクレインはこうした悩みによって、次第に妙な夢を見るようになっていった。

 使用人は主人たるマクレインが再び筆を執り、画壇の筆頭に数えられるまでに恢復したことを文字通り我がことのように喜んでいた。彼の絵画が世間から高い評価を受けていることに、無上の愉悦を感じていた。──これはのちにマクレインが知り激昂の末に果てのない失意に暮れる直接の原因となるのだが──彼が使用人として世話をしているマクレイン家には、現在ただ一冊の書籍もない。

 使用人はマクレインから受けた依頼を初めは至極真っ当にこなしていた。彼はたしかに書籍を伝えることを職務として愛していた。しかし、この無力な画家が余りに己の話を真剣に聴くのを見て、いつしかその知識欲に嫌悪感を抱くようになってしまった。ある午餐のあと、彼はワインを片手に己の話を待つ無力な画家に対して、書籍のところどころで嘘をついた。でたらめな思いつきを話したのだ。画家も馬鹿ではない。話の辻褄が合わなくなると眉間に皺を寄せて聞き返したが、その都度使用人が毅然と突き返しているうちに疑問を差し挟むことはなくなった。使用人はいつしか書籍を手に語ることをやめた。自分のでたらめな作り話だけを画家に話した。マクレインが視力を失う前に所蔵していた書籍の数々は、無許可で売り払った。

 そして画家は、彼の作り話から得た着想をもとに絵を描くようになった。それはたちまち量産された。失明した画家の復帰作として取り沙汰されたそれは、異様な熱気をもって世間に迎えられた。クラウス・マクレインが画家として再び脚光を浴びるのに大した時間を要さなかったことは先に記した通りだ。

 使用人が邸宅を空けているある日、キャンバスに向かうことに軽く厭いたマクレインはかつてのひとときを気持ちだけでも味わおうと思い立ち、本棚の前に立った。果たして、彼が伸ばした手はことごとく空を切った。ただ一冊の本もそこにはなかった。彼は驚愕した。何があったのか怒りを覚える前に動揺した。事態を飲み込むのに多大なる時間を浪費した。見えない目で苦労して入れたコーヒーを片手に、彼は放心していた。

 邸宅に戻った使用人は、いきなり罷免を言い渡された。その後クラウス・マクレインの新作が発表されることは、一度もなかった。

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