情動の受動喫煙
小説、作家にもよるが特に歴史小説やSFやファンタジーを読んでいると、やはり登場人物が悲惨な目に遭う場合がある。暴力や陵辱というのがその最たる例で、往時にはそのような苛烈な描写に触れた際に部屋で読んでいる本をその文庫本が傷むぐらいの全力で投げ捨てたこともある。
だが、これはむしろ文章表現だからこそ、投げ捨てたり途中で置いたりすることによって、瞬間的に増大した感情を冷却できているということだろう。
これに対して、映像表現というものはその鑑賞にあたってそうもいかない部分がある。自分一人で見ている場合はともかく、家族や恋人と一緒に観ているような場合は尚のこと事態が難しい。作品によって惹起された自分の情動に、空間を同じくしている他者を巻き込むわけにはいかない。ましてや隣の他者というものは、往々にしてそうした情動の揺らぎや乱高下を愉しむために映像作品に触れている。
私一人の感受性の問題で、彼らの趣味や愉悦を妨げる道理はないはずだ。
だが、映像という視覚的な表現に対して、私の感情は強烈かつ加速度的に増大する。たしかに文章でも似たようなことは起きているのだが、その距離や体感が違うらしい。
本は投げ捨てれば済む。よほど気に入らなければ破り捨てても構わない。だが、もし話をTVやモニターに移し替えるなら、最終的な部分において言うならば、破壊する羽目になる。その破壊衝動は、当然ながら規模として桁違いだろう。
電源を消さない限りそれは映像として音声として流れつづけてしまう。本と違って、そこには中断がない。また、どこまでも孤独な営為である読書とは異なり、私一人の判断によって電源を消せるという代物ではない。電源を消すということは、他者の機会を強奪することにも等しい。それは私の価値観において、充分なまでに蹂躙と呼べる。
このような強烈な感受性が、他者との間柄を長きにわたって撹乱し、束縛してきた。私がこれまで音楽とヘッドフォンが手放せなかったのは、上記のような原因による。
タイトルを情動の受動喫煙としたが、似たような比喩のもとに批判されているところでは、SNSも似たようなものだろう。そこには常に他者の感情や判断が渦巻いている。普通に考えれば自分一人がログアウトすればいい話だが、構造として考えてみればタイムラインというのもFF(相互フォロワー)と一緒に観測している一種の共同空間であり、それは私にとって断絶するに忍びない。
ゆえに、私の解釈の範疇においてSNSは映像表現と同様の作用を示していると言える。共に在るという感覚も、度を越えれば私のように自らを苦しめる鎖にしかならない。
魚座に生まれつくというのは、要するにこういうことだと思う。
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