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お気持ち裁判の被害者「僕」

どうも、しんたろーたりーと申します!営業マン歴13年、ナンパ歴14年の経験を活かし、voicyのパーソナリティをさせて頂いております。本日も「ろりラジ」で話したことを文章にしていきたいと思います。

さて、今日は「司法とお気持ち裁判」について、私自身の体験をもとにお話ししたいと思います。

最近、「滋賀医大・性的暴行事件で逆転無罪」のニュースが世間を騒がせています。
そのニュースを見て、こんなに怪しいのに。こんなに女性が被害にあっているのに、こんなに有罪っぽいのに。
とニュースに関するコメントが溢れています。

「裁判官に女性の家族はいないのか。自分の娘が同じ目にあっても同じことがいえるのか」というコメントも目にしました。

これまでの人生で、私は何度か会社での聞き取り調査やトラブル対応に直面したことがあります。そういった場面において、自分自身が「何も悪いことをしていない」と心から思っていても、結果的に不本意な形で責任を取らされるような状況に追い込まれることがありました。

私は常に真面目に働いてきました。自分の能力を活かして、会社の利益になるよう努力をしてきたつもりです。もちろん、できないこともありますし、完璧ではないこともある。でも、それでも「会社にとってプラスになる存在でありたい」と思い、一生懸命働いてきました。それが「お金をもらうプロとしての責任」だと考えていたからです。

ところが、パワハラなどのトラブルが発生し、聞き取り調査等行われた後、結果的にいつも言われていたことは

「あなたにも悪いところがあったんじゃないの?」

というセリフです。

これ、何回も言われたことがあります。そして、そのたびに心の中で「いやいや、それは違うでしょう」と思いながらも、なぜか責任を押し付けられるような状況に追い込まれていきました。

なぜこんなことが起こるのか。それは、「会社」は司法の場ではないからです。

司法の場では、事実を基に公平な判断が下されるべきですが、会社ではそうではありません。会社という組織の中では、「誰が正しいか」よりも「どちらが会社にとって都合がいいか」が優先されることが多々あります。そして、その決定を下す権力を持っているのは上司や上司の上司、つまり会社内での権力構造の中にいる人たちです。

この構造の中では、「正しいかどうか」ではなく、「会社にとって都合がいいかどうか」が重視されるため、個人がいくら正論を述べても、それが受け入れられないことがあるのです。

もちろん、会社としての合理的な判断が必要な場面もあるのは理解しています。でも、その判断が「個人の努力」や「正しさ」を軽視してしまうのは、やはり納得がいかない部分があります。

結果僕は、心療内科に通いながら薬を飲みながら仕事を続け、
自分をすり減らし働いて行ったなれの果てが、会社を辞めさせられる方向に持っていかれるという事象です。

だからこそ、私はこういった経験を通じて学びました。
せめて、この国が。日本が。感情やお気持ちが一切入らない司法という確定されたラインを持って人を裁いていくれる世の中で良かった。


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