お湯灌
昨年夏、高齢だった身内が亡くなり、葬式に行った。私にとって、11歳以来の身内の死であり、13年ぶりの葬式の場だった。
身内ということもあり、お葬式の前準備にも参加させてもらった。その中で、お湯灌という儀式があった。これは、故人の体を水で洗い、棺に入る格好に着替える儀式だ。
これを見た5分が、初めて「死」を五感で感じた時間だった。
冷たくなった体に、葬儀屋の人がシャワーをかけていく。ご遺体だから、細心の注意を払う訳だが、その恭しい所作が、より生命の欠如を感じさせる。
そして、何か漂う独特な匂い。生命を全うしたことを示す、力無い毛が生えた頭が綺麗になっていき、あの棺に入る出立ちになっていく。
そこには、言葉などはないが、亡くなったんだ、と自分の体で理解できた。
それまで、私は、日頃、耐え難いことが起こると、「ここで自分で死を選んだらどうなるんだろう」と頭の片隅に湧き上がることがあった。しかし、この日を境に、「それだけは、やっちゃいけないことだ」と体で理解した。
この死をありありと感じさせるお湯灌を、自分より先に生まれた家族に体験させてはいけない。
高齢故の死で、身内の中で最も歳上だったこともあり、その場には、「死への納得感」があったように感じられた。その人のお湯灌でさえ、心に来るものがある。
そしたら、「死への納得感」が微塵も感じられない場合は、どうなんだろうか。自分で死を選んだ人のお湯灌は、どういう雰囲気なんだろうか。
そういう想像が、LINEニュースで見るタレントの自殺を見るたびに、頭の中を駆け巡る。