【スポーツと芸能 大衆と眠りと覚醒 巨大さとささやかさ】
やはり新庄剛志という人は、既存のスポーツ業界というものを、自覚しているかどうかは分かりませんが解体しにかかっていると感じます。
しかし、その解体の仕方が新しい。ここが重要だと思うのです。既存のものを暴力的に破壊する革命ではなく、既存のものへのリスペクトは決して忘れず、なるべく誰も傷付けず、それでも老朽、腐敗からは目をそらさず、新しいものに移行していく。そんなイメージ。
スポーツや芸能の社会的な意味はものすごく大きいと感じます。
日本においては戦後の傷跡を癒やし、人々が夢を見るための「優しいゆりかご」としての機能が十二分に発揮されたと思います。王選手、長嶋選手による熱狂はその最たるものでしょう。
しかし、光あるところ闇あり。
「優しいゆりかご」は人を癒やすが、同時に溺れさす。その中で人は少しずつ思考力を奪われもしたのではなかろうか?夢を見過ぎるということは、眠るということ。
高度経済成長は一見、覚醒と突進に見えますが、思考能力を置き去りに、夢現のまま、フラフラと突進していったという1側面もあるのでは?
その顕現事象として、公害、薬害、バブルなどは挙げられはしまいか?
とは言え、それらの闇を差っ引いても、あの時代、癒やしは必要だったとも言えるとも思うのです。故に、あの時代に対するリスペクトは揺るがない。
しかし、もうそこから脱するべきタイミングはすでに1980年代頃にはあった。なのにゆりかごの仲で眠り続けてしまったから、バブル崩壊とそこからの終わらぬ低迷が現在に至って、破滅的な所に来ている。
これもまた事実。
そいう意味で日本ハムの新庄剛志監督の在り方は、現代の1つの指標になると、大真面目に感じるのです。
「革新的」というのは分かりやすい彼のイメージですが、もっと重要なのは彼の持つ、リスペクトの精神だと思うのです。それには当然「前時代に対するリスペクト」も含まれる。
そう、「前時代を否定し、スピーディーに破壊し、新時代を築く」というのは今までの歴史で何度も繰り返されてきたこと。一言で言えば易姓革命。
そのあり方はそういう意味では、極めて「前時代的」だと思うのです。
新庄監督のやり方は、彼のパット見のイメージとは違い、迂遠、つまりスロー。
「即結果を出してこそ!」
「勝ってこそ!」
という、現代の価値観からはずれているのです。
故に当然、アンチはたくさんいる。
しかし、アンチと戦わない。でも、媚びない。そういう闘い方をする。
トランプ前アメリカ大統領は「口は悪い」が戦争をしなかった。(戦争より酷いと揶揄される1/6事件のことはよく調べてみてください)
そんな彼は既存の芸能界の解体を目論んだ。
スポーツと芸能
これらは本当に素晴らしいものです。
が、大衆を眠らせる機能という側面も、確かに持つ。
批判を承知で思ったことを述べますが、
「スポーツ観戦だけが生き甲斐」
「推しだけが生き甲斐」
それはもちろん悪いことではないのですが、それに偏りすぎるのは、やはりちょっと「危なさ」「脆弱」さを感じざるを得ない。例えば、そのエネルギーを少しでも分けて欲しいと切望する困窮の淵に立たされている人々の存在を考えたとき、やはり歪みを感じざるを得ないのです。
故にスポーツ、芸能の「催眠装置としての機能」が巨大すぎる現代のあり方には、やはり歪みを感じるのです。
新庄監督の以下の発言は、まさにこのスポーツ、芸能の「過剰な部分」に対する、スポーツ、芸能の「ささやかな部分」に焦点を合わせたものだと感じるのです。
以下引用。
「プロ野球、スポーツ界の存在意義は そこの街に住む人たちの暮らしが少しだけ彩られたり、単調な生活を少しだけ豊かにする事に他なりません その裏側に誰を笑顔にするのかを常に心に秘めて この動画を観ての通り、審判の方達に注目が集まることの喜び。勝ち負けよりも全員でこの試合を盛り上げ、良いゲームを作っていくためです。 こんなことせずに試合に勝てや!というファンはあなた誰ですか?てな感じです もちろん選手を信じて毎試合勝つぜ!!」
彼は「少しだけ」ということを、明らかに強調している。
今後、夢から醒めなければならない世界において、夢から醒めなければならない人々のために、スポーツ界がどうあるべきか?そういう視座からの発言、行動であると感じます。
混乱を巻き起こしながらも、時代は進んでいると感じる次第です。