2020-05-31

【書評3冊? 私は『ファクトフルネス』という本の提唱する「データから世界を正確に見よう」という考えには1ミリも賛同しない】

なぜなら。

「正確なデータ」「客観的なデータ」というもの、

それ以前に客観というものがそもそも虚構だと思うからです。

(この文章は、昨今のインターネット情報、SNSに付随していつの間にか現れた短文至高主義とも言える風潮に流され、思考する力が悲しい程に低下してしまった自分のためのトレーニングですwww  しかし、何かの刺激、参考になればと思いウプしました)

さて、データですが。

そのデータを出したのは誰か?

そもそも

「データ(自然界にあるもの)を出す(人が探し出す)」

という表現がそもそも虚構だと私は考えます。

結局の所、データは「どこぞの誰かが作るもの」だと私は考えます。

(これは最近、自分が発達障害というマイノリティであることに気付いたからこそ、なおいっそう強くそう感じるのかもしれませんが。。)

あらゆるデータ、統計は、

「何のデータ、統計を取るか?」

と選択している時点でその人の主観が必ず入り込み、

そして、データをや統計を作る人も、利用する人も、

必ずそれぞれの目的、そして仮説が存在する。

「その人の」という要素が介在する時点でそれは既に客観とは言えない。

「客観的」

というのは、「便宜上、客観と見立てた主観」

でしかないと思うのです。

だから客観ではなく、

あくまで

「客観的」

というものであり。

「客観的」とは「便宜上、客観的と見立てた主観」であるなら。

つまり「客観的」とは主観なのだと思うのです。

私は客観や客観的という言葉にこういう主観を持っています。

さて、今の世の中でデータが強い力を持ち、正当性を持つとされているのは、何故か?

それは「データは客観的なモノ」であると、されているからでしょう。

どこかに客観>主観という価値観があり、客観的>主観的という価値観もある。

そして、

データ=客観的

という「信仰」ゆえにデータが物凄い正当性、しいては力を持つように語られることが増えているような気がしますが。

上記に書いたように私は、

そもそも客観というものは存在のない虚構でしかなく、「客観的」と呼ばれるものの正体は「便宜上、客観と見立てた主観」であり。つまりは主観。

データという概念の受け取り方が違うのです。

データって、私にとってはオマジナイのような、ちょっと楽しくてワクワクするけど、フワフワしててあやふやなものなのです。

データは信じたり指針にする対象ではなく、せいぜい参考にする程度で、基本的には味わうもの。

酒やタバコと同列のものですね。

楽しめるけど、基本的には栄養にはならない。血や肉にはならない。

それが悪いとか、程度が低いとかそういうことを言いたいのではなく。

私が「そういうものだということ」と感じているということです。

さて、表題に挙げた『ファクトフルネス』という本ですが、かなり有名な本らしく、「現代人必携の書」くらいの勢いで言われてます。

確かに本能の分類等は非常に興味深く、面白かったのですが、

この本の主張はザックリと書くと、

「人間は本能から導き出される主観を判断基準にしている。だからこそ認知の歪みが生じる。だから、正しいデータという客観的なものを元に世界を正しく認知しよう」

ということ、と私には見えました。

つまり、この本を書いた人と私とでは完全に住んでいる世界も見えているものも使う言語もその意味も異なるので、

まるで会話が噛み合わないのです。

意味が分からないのです。

もしこの本の言うように私達が10個の本能の奴隷だとしても、データを盲信することは奴隷が主人を取り替えることに過ぎない。

「自分の奴隷から他人の奴隷になろう!!」と言う話でしかない。

それに対して私が拒絶反応を催すのは、

「自分の奴隷である」というのは、そのまま逆に「自分が主人となって自分を奴隷にする(つまり、自分自身をコントロールする)」ことも可能になるが。「他人の奴隷」になった場合はそのままの状態では、その逆転現象は基本的には起きないから。他人の奴隷から自分を解放するにはその他人を「殺す」か逃避(覚醒)するしかない。

と考えるからです。

そんな私にとっては

「人は自分の本能からくる主観の奴隷となっていて、それに洗脳されているから認知に歪みが生じている。それは危険なことだ!データを見て目を覚まそう!世界はこんなに素晴らしい!」

というこの本の主張は、

「奴隷商人の罠」にしか見えないのです。

あと、もう一つ。

論理的に違和感を感じるのが。

データデータ、とやたらデータという1つのものを持ち上げ、まるで至高の判断材料と扱うのは、

この本が批判する分断本能そのものではないのか?

という違和感ですね。

ま、へそ曲がりな私がこの本を読んで真っ先に感じたのは、

「この本に感化され、『この本のおかげで洗脳から目覚めることができた』という人が増えたら、データを作る人たちはウハウハだわな。大儲け。どころではなくもっと全知全能の存在になりうるな。自分の手を汚して読み手を洗脳することなく、勝手に相手が自分から洗脳される為に列をなしてやってきてくれるのだから」

ということです。

ビル・ゲイツ氏が絶賛し、当時の希望する大学生に無償で本書を提供したという逸話を持ってこの本は話題となって、さらに箔がついている形にないっていますが。

私からすればそんなのは当たり前だろうとしか思わない。
ビル・ゲイツ氏はデータを生業とした商人なのだから、自身の商業活動の一環として邁進しているに過ぎない。
「勤勉だな、行動力があるな」と感心するのみです。

権威という考え方がそもそもないので。

正直のところ、よくわからないのです。
 
つくづく持って、私という人間は組織に属するのは不向きだと感じますwww

多分、人の下で出世というのは不可能なのかと。

「権威を否定」ではなくて、権威というのがそもそもピンとこないのです。

「空気を読めない」とか「空気を読まない」とかではなく、そもそも「空気って?」からなのです。

ADHDよりもアスペルガーの方の要素が強いと言われるのもそこかと。

ちなみに、発達障害とかいうのも、私にとっては正直、自分というものを理解しやすくする便利な物差しでしかなく。
しかし、それでいて物凄く便利だから自分は物凄くいま調子がいい。
しかし、信じてはいないのです。
そもそも、人はそれぞれ全員バラバラ。

でもそれではなんとなく寂しいから、

枠のようなモノを作る

寂しさがまぎらうからそれはそれではとても素晴らしいけど、

それ以上に神格化するほどのものでもないから、

それの奴隷になる気もない。

「恩知らず」のような人間なのかもしれませんね。

でも、自分を冷血な人間とは感じないですが。

たんに、枠の中と外をたやすく行き来してしまうお調子者なのでしょう。

そして本質は、自分の心と体で触れたものしか信用出来ない、狭い人間ともいえます。

本質的には自分のことしか信じない。

でも、自分というものは、自分が大切にする人やモノ、概念も含めて「自分」なので、割と広く。その中に「自分が信じるデータ」というのも含まれるからややこしいのですが。

ま、主観論者ということです。

客観なんてものは、そもそも存在しないという立場です。

さて、

私がこの『ファクトフルネス』と全く同時期に並行して読んでいたものに『ホモサピエンス全史』という人類史についての本があります。

同時期に並行で読んでいたのはただの偶然ですが、

偶然にも密接に関連していて面白かったので、

読んだことない人、ある人問わず、

一度、

全く同時に並行してこの2冊を読んでみる事をオススメします。

『ホモサピエンス全史』によると、

同時期に併存していた、数種類の人類のうち、決して「強く」なかった我らがホモサピエンスの先祖がなぜ、他を圧倒し、滅ぼして生き残ったのか?

それは「虚構を信じる」つまり「ウソをついたり、ウソを信じることができる」という機能をを唯一、ホモサピエンスだけが得たから。

つまり、

「自分の目で実際に見たモノ以外のこと(虚構)をすんなりと信じ、付いていく」

という、カリスマの下に一致団結して巨大な軍団を作る能力を得たからだと書かれていて、

非常に納得いきました。

極端に言えば

「ウソをインストールして、洗脳を甘んじて受けて、一致団結という究極の数の暴力、究極の兵器を得た」

だから今も地球上で種として圧倒的に繁栄している。
他の生物と共栄、共存、相互利用、そして必要であれば殺戮しながら。

そう考えると、私のような自分の身体空間しか信じられないようなあり方は、滅ぼされたネアンデルタール人的なものかもしれませんね。

いや、ちがうか。。

虚構を信じることができる能力は消えず、ただ自分の実際に触れたもの、自分の信じたいデータ(虚構)、つまり主観は信じる

が、

他人の主観は自分の主観と調和しないのであれば不用意に信用しない。というか基本信用しない。

だから何事も自分の身体を実験材料にして試す。

のでしょうか。

これは退化なのか進化なのか?

というよりも結局はそういうタイプの存在ということでしょう。

私が特別なのではなく、人間一人一人がそもそも特別。

あえて分断本能とやらに乗っかってカオスと秩序に2分するなら。

私はカオス信者となるが。

しかし実際のところは

「カオスに大きく傾いているだけでだからこそ秩序は求める。しかし、全ては自覚的でありたい」

といったところでしょうか。

分断と言う発想はどちらかといえば秩序の領域に親和性がある。
カオスは本質的にはあらゆる存在の同時併存という発想でしょうから。

しかし、そう考えると、論理というものがそもそも私という人間には合わないのかもしれません。

文章を書く力が弱まったとか、論理的思考力が低下したと言うような感じがするのですが。

それもまた洗脳なのかもしれませんね。

「論理的であることが善い」

これもまた1つの信仰で、思えば私も今の今までこの信仰の、信者であり奴隷であったのでしょう。

ああ、気持ち悪い。

いつからか、と考えると受験の頃からだな。

特に致命的だったのは「小論文で高得点を出そう」とする行為にハマっていたことでしょう。

短い問題文から出題者の人格と好みを類推し、それに媚び、奉仕する事で点数を得て承認欲求を得る。

そう、小論文の勉強だけは合格のための手段ではなくて、

それそのものが目的となってしまっていた。

自分を枠組みの中に閉じ込め、嬉々として奴隷を演じていたと思うとゾッとする。

やはり、孤独が怖かったのでしょうか。

「空気」というものがわからない。
「あいつは違うと」と言われ、自分も「あいつらとは違う」と思いながら幼少期を過ごした典型的グレーゾーン発達障害者ですが。

だからこそ承認欲求も異常に強く。

奴隷になれないからこそ、奴隷になることをより強く求める。
 
でも、すぐに飽きる。

なぜなら、よくわからないから。

人類の過去を分析した『ホモサピエンス全史』の作者は続編ともいうべき『ホモ・デウス』という本において今度は人類の未来を推測していますが。

極少数のデータを作る神



データを神の如く崇める大多数の家畜

この2種類に人間は分類される

と書いていますが。

特に真新しいモノでもありません。

当然の帰結。

科学も1つの宗教とみなせばそれは当然の帰結で、
 
「『科学は万能』という考え方はそもそも科学的ではない」

という言葉を脳裏に思い浮かべることが出来さえすれば、

人はデータの奴隷にはならないでしょう。

そんなこんなで、自分の心身こそが私にとっての判断基準で、

肉体に戻って来てますね。 

釈迦の教えや

ヨーガやバレエ、解剖学といった肉体の論理体系に傾倒しています。

どれもこれも理論を即、自分の身体でためして、自分にとっての真偽判断ができる。

これが傾倒する大きな理由かと感じます。

私に合っている。

また、

私は仮想世界に君臨するデータではなくて、

物質世界に実在する人同士の、対面における口コミが、

媒体情報として機能するような経済体系に今後シフトして行くと。

予想しています。

その過程で、人は「神」ではなく、同じ「人」をより真摯に見つめるようになり、人同士をより労り合う、そんな時代と世の中が来ると確信しています。

コロナ禍で、いま人心はまさに「神」に属する情報に迷わされ、幻想の中を踊らされ、肝心の人に対して攻撃的になっているようにも見えますが、

これがキッカケで、「神」を疑い「人」を見るようになるのでは?

と、感じます。

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