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令和六年三月二日 走水神社(はしりみずじんじゃ) 神奈川県横須賀市


創建は不詳。御祭神は、日本武尊(やまとたけるのみこと)と御后の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)二柱を祀る。

景行天皇即位四十年、東国の騒動を静める勅命を受けた日本武尊は、上総国へ軍船でいっきに渡ろうと船出したが、突然強い風が吹き海は荒れ狂い軍船は波にもまれ進むことも戻ることもできず転覆するかの危機に。その際、弟橘媛命が「このように海が荒れ狂うのは、海の神の荒ぶる心のなせること、尊様のお命にかえて海に入らせて下さい。」と告げ、「さねさし さがむのおぬにもゆるひの ほなかにたちて とひしきみはも」と御歌を残し、海中に身を投じた。たちどころに海は凪ぎ風は静まり日本武尊一行の軍船は水の上を走るように上総国に渡ることが出来た。以来、水走る走水と言われていると公式サイトにある。


一の鳥居の石段下より本殿が真っ直ぐに目に入ってくる。
そして鳥居をくぐると何ともfunnyなお顔の狛犬が鎮座する。


参道を進む。


富士山からの名水が湧き出る手水舎の隣にある「御砂倉」。厄除けのご利益のある、由緒あるお砂とのこと。

弟橘媛命「舵の碑」(弟橘媛命の顕彰と海の安全と平和を祈る/昭和五十八年建立)


石段を上り本殿へ。


本殿を前に振り返ると二柱の悲しい物語の舞台、東京湾・浦賀水道が見える。


本殿右に鎮座する稲荷神社。豊受姫命(とようけひめのかみ)と宇迦之御魂神 (うかのみたまのかみ)が祀られる。

その先には別宮。弟橘媛命に殉じた侍女をお祀りする。


さらに奥には水神社。走水の地は特に水との縁が深く、昔から水をお祀りしている。また、水の化身・水神として河童の伝説も残る。


本殿左には新しい「別宮」。


裏山の境内社に向かう。その途中に弟橘媛命の御歌を刻んだ石碑がある。
東郷平八郎、伊東祐亨、井上良馨、乃木希典、高崎正風、上村彦之丞、藤井茂太の7名が発起人となり明治四十三年六月五日に建立された。


稲荷社の遺構


さらに進むと「神明社」の神額が掲げられた鳥居。

その先には、神明社(天照大御神)、須賀神社(須佐之男命と)、諏訪神社(建御名方神)の祠。


立て札にあるお話。悲しくもいい話なので記しておこうと思う。

 走水神社の裏山にあった清流は、どんな日照りが続いても涸れることはなく、そこにはたくさんの河童が暮らしておったそうな。
 ところが、多くの河童の中には、いたずら者もおって、時々里に下りてきては悪さをしたそうじゃ。
 心優しい村人たちも、度重なる河童のいたずらに困り果てて、いつか折りがあったら懲らしめてやろうと思うようになったそうじゃ。
 ところが、そんなある日、突然ゴーっと地鳴りがしたかと思うと、村中がユッサユッサと大きく揺れだし、村は大騒ぎになりよった。
 目の前の海や、神社の裏の水がポチャポチャと音をたてたそうな。
 その時、村の長が大声で叫んだと。「津波がくるぞー。船を上げて神社の裏山に逃げろー」。村はまたまた大騒ぎになりよった。
 この騒ぎを聞いた河童たちは集まって、いつも村人たちに迷惑をかけていたんだから「村人が困っている今、みんなで恩返しをしよう」と相談したそうな。
 河童たちは、山の上から大きな岩をゴロゴロと押して浜まで運び、村の海岸に沿って大きな堤防を作ったそうじゃ。
 そして、河童たちは一匹残らず水に入り、岩を押さえて村を守ろうとしたんじゃと。
 ところが、その日の津波は今までにない大きなものじゃった。それでも、河童たちが、岩を必死に押さえてくれたお陰で、走水の村は大きな被害にあわずにすんだそうな。
 しかし、必死に村を守った河童は一匹残らず、津波の犠牲になってしまったそうじゃ。
 村人たちは、命をかけて村を守ってくれた「いたずら河童」を思って涙を流し、感謝の心を忘れんように「村の守り神」になってもらおうと、神社の樟の木の根元に「河童の神禄」を祀ったそうじゃ。

「走水古老のはなし」より


追記:
昨日(3/5)の国会中継、新型コロナウイルス予防接種健康被害給付費負担金の予算が、令和五年度当初の3.6億円から補正予算により394.1億円に。およそ110倍。
何が起こっているかは想像に難くない。それでも武見厚生労働大臣の見解は「重大な懸念は認められない」。超過死亡改竄の件といい、狂っている。


龍神ボニーとともに、龍神様の神社を巡る 75


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