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令和三年十月十六日 世田谷八幡宮(せたがやはちまんぐう)・再訪/東京都世田谷区

最初の記事で述べたように、十年程前に「龍神様が祀られているから行ってこい」と教えられ、訪れた神社が世田谷八幡宮である。正確にはその後子供の七五三で参拝したらしい(らしいとは情けないが、記憶が定かでない)ので再訪ではなく三度目となる。初回もきちんと参拝したのか、自信がない・・。

御祭神は、応神天皇(おうじんてんのう)、その父であり日本武尊命の子である仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)、応神天皇の母であり仲哀天皇の皇后である神功皇后(じんぐうこうごう)の三柱。

御鎮座は、今から約九百数十年前、第七十三代堀河天皇の寛治五年(1091)。源義家公が世田谷の「宮の坂」の地で豪雨に会い天気回復を待つため、滞在することとなる。その時、今度の戦勝は日頃氏神としている八幡大神の御加護に依るものと思い、豊前国の宇佐八幡宮の御分霊をこの地に勧請しお祀りしたとされる。

日本各地に八幡宮、八幡神社、八幡さまと呼ばれる神社があることは知っていたが、なぜ「八幡」なのかを知ろうとしたことはなかった。答えは明快で、これらの神社は「八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)」が祭神であり、応神天皇(日本書紀では誉田別尊〈ほんだわけのみこと〉と記される)の御霊を神様としてお祀りする時の名前が「八幡神」ということである。そして八幡神は、元々は「大漁旗」を意味する海神といわれ、「八」は「数多」、「幡」は神の依り代としての「旗」を意味するとのこと。


さて、こちらの神社は先ず「朱塗り」の大鳥居を構え、くぐるとすぐに注連縄が施された弐の鳥居がある。鳥居の注連縄は外界と神社の境界を示すらしい。

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石段を登ると左手に手水舎。水を湛える日は近いか?

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立派な拝殿である。無人に見えるが、この日は七五三の参拝に訪れた家族で賑わっていた。

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双方とも「子取り」の狛犬。微笑んでいるように見える。今更ではあるが、表情は神社により様々である。

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境内には「世田谷招魂社(せたがやしょうこんしゃ)」もある。御祭神は、日露戦争、太平洋戦争の戦没者とある。

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その他の境内社として「高良神社(こうらじんじゃ)」。大正元年に高良神社を含む八社が合祀された。御祭神は、高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)。

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三つ目の境内社は、「厳島神社」。厳島神社は広島の世界文化遺産をはじめ、全国各地にあるらしい。御祭神は、「市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)。弁財天と同神と考えられていることから弁天様とも呼ばれている。

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世田谷八幡宮は相撲と縁深く、土俵もあり、鍛錬や力試しに用いられたとされる「力石」は四十八貫(180kg)もある。

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ところで、である。龍神様はどこに祀られているのか?神社のHPにも龍神様の記述は見当たらない。あの男性は「祀られている」ではなく、「いらっしゃる」と言ったのかも知れない。前回の龍口神明社のように龍が御祭神となっている場合もあるが、御祭神でなくとも龍は神社にいることが多いらしい。十年前は、「弁天様が祀られているのだから関係の深い龍神様もいらっしゃるのだろう」などと考えた気がする。そして、今回もそう思った。

だが、今回は、調べてみた。

なんと御祭神である「応神天皇は龍であった」との記載がネット上に散見される。正確には、龍(神)の「子孫」と言った方が良いのかも知れないが、神武天皇から応神天皇までは龍の鱗があったり、尻尾があったり、角があったりとそういう風に記されている文献も残っているらしい。「龍神様が祀られている」と言った男性は、この事を知っていたということなのか?あるいは神社にお参りする人は皆知っているものなのだろうか?

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追記/違う話をひとつ。先日、東京都現代美術館で開催中の「GENKYO 横尾忠則」展に行った。個々の作品の感想は人それぞれだと思うが、その作品の多さには誰もが圧倒されるのではないだろうか。八十五歳まで活動し続けるというのは凄まじいエネルギーなのだろうと数々の作品を観て思った。先に厳島神社の滝の写真を掲載したが、この展覧会の中にも世界各国から収集した一万枚以上の滝の絵はがきによるインスタレーションがある。天井・壁面を覆い尽くす滝の絵はがきは圧巻であった。


龍神ボニーとともに、龍神様の神社を巡る 03

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