在りし日のアリス
亡くなったおばあちゃんの遺品を整理していたら、収納の奥にあった小さな段ボール箱の中に、黒い無地のケースに入ったDVDがあるのを見つけた。お父さんが物置きから埃をかぶった古いプレイヤーを引っ張り出してきてくれて再生してみると、それはどこかの小さな劇場で撮影されたらしい演劇の映像だった。
音声も映像も随分と劣化していたが、不思議の国のアリスのパロディのような下品なコメディだった。女子高校生がうさぎを追い掛けて不思議な世界に迷い込む。そこで出会う不思議な住人たちとのやり取り、何故か同じように不思議の国に迷い込んだらしいクラスメイトとの恋。誰でも思い付きそうなくだらない話で、お世辞にも面白いとは思えなかった。ナントカ細胞はありますとか、日大タックルとか言うくだりがやたらウケていたのは、おそらく当時の時事ネタだったのだろう。何でおばあちゃんはこんなものを取っておいたのだろう?何か関係者だったのだろうか?何となく途中で止めるタイミングを逃して最後まで流して、エンディングで舞台上に投影されたキャスト紹介の名前を観て驚いた。主人公の女子高校生を演じていたのは湊あかり、おばあちゃんだったのだ。
おばあちゃんが演劇をやっていただなんて、おばあちゃんからもおじいちゃんからも一度も聞いたことがなかった。お父さんも全く知らなかったらしい。お父さんが物心ついた時にはおばあちゃんはコールセンターの契約社員として働いていたという話は聞いたことがある。女優をやっていたのはそれより前の話なのだろう。おばあちゃんが、女優湊あかりのことが気になった私は、おばあちゃんのことについて調べてみることにした。
インターネットで検索してみても、ほとんど何もヒットしなかった。唯一見つけたのは『阿佐ヶ谷ヒルズ』という劇団のホームページ。60年以上前から何も更新されず放置されていて、テキスト情報は壊れて文字化けしている所もあったが、2013年の旗揚げ公演のキャスト一覧の中におばあちゃんの名前があった。DVDに残っていたアリスの映像は2019年。おばあちゃんは少なくとも2013年から2019年まで、つまりは21歳から27歳までは女優をやっていたことになる。お父さんが産まれたのが2026年、おじいちゃんと結婚したのはその3年前で2023年。31歳で結婚して34歳で出産している。結婚、或いは出産を機に女優は辞めたのかもしれない。売れない舞台女優が結婚を機に引退する、まあよくあることだ。
八方手を尽くしてはみたが、女優湊あかりについてはそれ以上は何も分からなかった。当時を知る誰かに話を聞けないかと思って、『阿佐ヶ谷ヒルズ』に名前があった人やDVDに出演していた人にもコンタクトを取ろうとしてみたが、皆連絡の取りようがないか亡くなっているかのどちらかだった。在りし日の、女優だったおばあちゃんの姿が唯一残ったDVDを、私は擦り切れるくらい何度も観た。画面の中の27歳のおばあちゃんは、私が知っているおばあちゃんとはまるで違って、でもパワフルで素敵なコメディエンヌだった。私が高校で演劇部に入ったことを話した時、おばあちゃんはどう思ったのだろう?私も昔演劇をやっていたんだよと、どうしてあの時教えてくれなかったのだろう。おばあちゃんと演劇の話が出来たら良かったのに。もうすぐ文化祭でやる舞台の稽古が始まる。コメディは苦手だけれど、私もおばあちゃんみたいに皆を笑わせてやるんだ。
……2023年頃に舞台女優を引退する大きな理由が忘れられるくらいの、ちょっとだけ未来のお話。