【たべもののこと】カンガルーのロースト(その2)
前回はこちら。カンガルーというお肉は、衛生や栄養価の点で非常に優れている、というお話でした。
https://note.com/ryuji_takeya/n/n990db215be9b
では、味の方はどうでしょうか。
美味しいというイメージはない
実は当店には、カンガルー肉を食べたことがあるというお客様が何度もご来店されています。オーストラリアに留学のご経験、ご旅行のご経験がある方などです。そうしたお客様は、たいてい、現地ではカンガルーのジャーキー、煮込み料理、よく焼いたローストのいずれかを召し上がっていました。そしてその感想は、いずれもとてもよいお肉とは言えないというものでした。
つまり、少なくとも当店にいらっしゃるような舌の肥えた日本人にとっては、「どんな調理法でもある程度美味しくなるような食材ではない」、ということが言えます。鶏肉や豚肉、牛肉との違いはそこでしょう。
では、どんなふうになら美味しく食べられるでしょうか。
美味しい方法
誤解のないように先に言っておきますが、私のお店ではカンガルーのお肉を、なんと黒毛和牛と並べて提供し食べ比べるというメニューがあります。そして決して少なくない数のお客様が、黒毛和牛より美味しいという感想を伝えてくれます。ですから、カンガルーのお肉は調理法によってはとても美味しいのです。
では、どんな方法だと美味しいのか。まず一つに、カンガルー肉は赤身肉であるという性質上、火を通しすぎると硬くなってしまいます。そして二つ目に、火を通しすぎると瑞々しさが失われ、代わりにお肉独特の香りが強くなります。これは、牛や豚といったほかの食肉でも同様でしょう。そしてこの香りは、馴染みがある食肉であれば許容できるでしょうが、初めて口に入れる食材の場合は、忌避的な反応をしてしまう可能性を高めてしまいます。例えば安い外国産の豚肉を加熱した際、かなり強烈な脂の香りがすることがあります。それを許容して食べられるのは、ある意味で私たちがその個性に慣れているからです。同様の強い香りが初めての食材から発していたら、食べられないほどの拒否反応を示す可能性も否定できません。
しかし、ドリップ(お肉を焼く際に、お肉から出てくる肉汁のこと)を一切出さないとよいかというと、そうでもないようです。適度に自然にドリップを出させ、しかし硬くなるほどには出させない。わりとシビアな調整が必要です。
さて、整理するとカンガルーを美味しく食べる条件は二つ。一つは加熱しすぎないこと。二つ目は水分を(ある程度)含ませて調理すること。この2つを同時に実現する調理法は、近年目覚ましい速度で進化している低温調理法のほかにないと断言できます。
低温調理法の神髄
一般的な低温調理法は、加熱・循環させた水を貯めた装置に、真空バックなどに入れられた食材を投入するものです。当店では専用の真空袋を使い、一人前ごとにお肉を脱気・パッキングし、その状態のまま低温調理しています。食材に水が直接触れることはなく、また装置内の水は常に加熱・循環しているため一定です。そのため狙った温度と寸分の狂い無く食材を加熱することができます。空気を温めるオーブンと違い、熱容量の大きい水を使うので加熱がスムーズです。つまり茹でる場合とそれほど違わない速さで加熱できますが、低温調理法の場合は食材を真空パックに入れているので、水分が流出することもありません。
一般的に、食材の加熱は早ければ早いほどよいということはなく、蒸し器などを使ってゆっくりと温度を上昇させたほうがよい場合もあります。しかし、お肉などの硬くなりやすい素材であり、かつ主要なたんぱく質の変性が温度と時間によってある程度知られている場合、低温調理のように、早く適切な温度にできるほうがよいわけです。また、蒸し器などは一定の温度に(それこそ1℃レベルで)操作できるかというと難しく、そこにもメリットがあります。
しかし、デメリットもあります。一般的にはお肉をフライパンで焼く際に、いわゆるメイラード反応という現象がお肉の香りをよくします。お肉の表面を高温で焼き上げる際に、香りがよい数十種類の化合物が生じるという現象です。低温調理ではこの現象は生じません。しかし、低温調理が終わったお肉に、フライパンで表面を焼き上げるというひと手間を加えることで、加熱は完璧、食感も味も素晴らしく、表面からは焼けたお肉の香ばしい香りがするロースト肉が完成します。
レアケースなので、たぶん他のお店ではムリ
このように、ちょっと変わった素材を使ったメニューを一つ考え、しっかり美味しく調理する(しかも日々の営業で使用する)ためには、たくさんの思考と検討が必要です。なかなか一般的な飲食店では実行不可能かもしれません。当店は運よく、腕の良いシェフを雇い入れることができたのと、コロナ禍で十分な研究時間があったので、現在のクオリティでの店舗運営を実現できています。