【大学のこと】大学院入試で「勉強」はNG
大学院とは、簡単に言えば大学4年間のあと通常2年間(修士)、行きたければさらに通常3年間(博士)、大学に居座り研究活動ができる教育機関です。大学生活では研究一筋とはいかなかったので、もっと研究したいという意欲のあるものが行くところ、という捉え方でよいでしょう。
さて、大学院に入るには、大学院入試を突破する必要がありますが、実はこれ、大学入試に比べれば本当に簡単です。5教科、場合によってはもっとたくさんの教科を勉強しなければならない大学入試に比べれば、何もしないのと同じくらいの勉強量で通ります。
ただし、それは「勉強」の量の話。大学院入試には、勉強とは全く違う「研究」を十分に行う、またはその準備がどれだけできているかをアピールする必要があります。
私のケース:専門外の外部入学
私の場合は少し特殊な受験だったかもしれません。北海道の札幌は豊平区にある私立大学で経営学を学んでいたところ、非常に面白い神経科学の講義があり、それをきっかけに心理学に興味を持ちました。大学院に進みたい旨をその教員に相談したところ、「この大学には心理学ゴリゴリの研究室はない。どうせ行くなら私の出身のゼミを紹介するから、そこにしてみては」とご紹介いただいたのが、進学する北大教育学院のゼミでした。
つまり、内部進学ではなかったのです。大学院進学の最も主流な道は、大学のゼミで行った研究の続きを大学院で行う、というものです。ですからそういう道を進まなかった私は、私を指導することになる教員にとっては、しっかりとその実力や人柄を見極めなくてはならない存在でした。
別の言い方をするなら、大学からの内部進学でなくとも大学院に進学することはできます。少しイヤな言い方ですが、私の出身大学はそれほど学力が高くなくても入れるところでしたので、そういうところもあまり関係がないと言えます。もちろん、最も重要な点についてはかなり厳しく見られるわけですが。
勉強と研究の違い
さて、もっとも重要な点とは何か。それは「研究をするのか/できるのか」ということです。これ以外のことは些末な事柄だと言っても過言ではありません。極端な話、お金がなくても、学力が低くても、勉強が嫌いでも、大学院には入れます。ただし、研究ができること、研究ができるだろうと期待されること、これは必須項目になります。
では、研究とは何か。最もわかりやすいのが勉強との違いでしょうから、ここでは2つを比較して研究について述べていきましょう。
最も大きい違いは、既知の事柄を相手にするのか、そうでないかということです。
世の中にはたくさんの知識があります。歴史的文化的芸術的な事柄、物理法則や数学などの法則的な事柄、薬学、医学、脳科学。何々学と名のつくものは、知識の集合体です。私たちはそれを利用し、覚え、習得し、日々を生きています。
こうした既存の知識を得ることです。すでに調べられ、明らかになったこと(たまに教科書の内容が変わるようなどんでん返しがあったりしますが、非常にレアケースです)を覚える、これが勉強です。先達の研究者が発見し、証明された法則。多くの地質学者が議論し、学術的な論考を重ねることでそれが正しいと推定されている歴史的事象。実験と証明を繰り返して得られた薬学的知見。これらは、すでに人類全体で共有されている「確かな情報」であり、勉強とはそれを手にすることに他なりません。
では研究とは何でしょうか。
それは勉強とはまったく異なる活動です。真逆と言っていいかもしれません。
研究とは、「未知」を「既知」にする作業です。
この違いをしっかり説明するには、この2つを分けなければなりません。
まず、この世界が存在します。そこには様々な歴史がかつてあり、さまざまな法則や出来事が存在します。しかし当然ながら私たちはそのほとんどを知りません。光が届くのに何万年とかかるほど遠くの天体の、その表面、畳1枚分の面積に、何個の石ころが落ちているのか、私たちは知りません。その天体ではどういう法則で季節が廻り、風が吹いているのかを知りません。
どころか、地球の深海生物についてもそのほとんどを私たちは知りません。このことから少なくとも生物学という学問は、実はこの地球上の生物をまったく網羅できていないことがわかります。
私たちは、実は知らないことばかりなのです。まさしく無限にある「未知」の事柄のうち、ほんの一部が「既知」であると言わざるを得ません。
そして、その「既知」を作ることこそが、研究だといえます。
言い換えるならばこうです。私たちは何もない暗闇(未知)に生きています。ここには未知しかありません。しかし小さな知識の集積、知識を体制化した学問という足場があり、またそれを成長させる研究者が、日々その構造体を大きくしています。当然、暗闇は無限です。組んだ足場が、世界的な発見により覆される心配もあります。しかし構造体は日々成長を続けています。まるで水の中に小さな結晶を大きく育てていく理科の実験のように。まるで宇宙空間にスペースコロニーを建設するように。
こうして日々進歩している知識体系のうち、比較的丈夫で、かつ基本的な構造に関わる柱と呼ばれるような重要な部分(ながらく更新がなく、他の構造体が依存するような部分)を、できたあとに知る行為が「勉強」であり、すでにある(まだ不安定な)構造に継ぎ足して次の一石を置く行為を「研究」と呼びます。ですから、「未知」と「既知」の境界に身を置き、少しずつ既知を増やしていくという、冒険心あふれるものが研究者となるわけです。当然、誰かがすでに研究し尽くしたことを覚える「勉強」とは全く違うものと言えます。
最前列で未知と既知の境界線という景色を見るという、最高に面倒で虚しい作業を楽しむことができる、それが大学院生になるための資質と言えるでしょう。
入試は一発試験ではない
少なくとも大学院入試において、入試の成績だけで合否が決まることはありえません。入学試験は「ああそういえば何月の何日が試験だったな」という状態であるべきですし、それが普通です。
なぜなら、試験官(多くの場合、指導教員と、別研究室の大学教員が試験官となる)が注目する入試にもっとも大切な入試者の提出物は、試験の答案ではないからです。もっとも大切なのは「研究計画書」。そして研究計画書の提出は試験の1ヵ月以上前に設定されているのが普通なので、入試時にはどんな内容の計画書を出したか思い出す、くらいの日程です。ちなみに入試は、大きく試験と面接に分けられていて、研究計画書は面接に使われます。
では、研究計画書とはどんな内容なのか。それは読んで字のごとく、自身がこれから行う研究の内容を記したものです。一般的には、
・ これまで先達の研究者がどれほどのことを明らかにしているのか。
・ しかしもっと多くのことを明らかにするためには、先達の研究ではなくこうした事柄を研究しなければならないのではないか。
・ 私にはそれを実行する計画がある。このような実験をして、こういう結果であったならば、このような事実が明らかになるだろう。一方でこうであったなら、こういうことが言えそうだから、さらにこういう実験をすべきであろう。
・ これらの私の研究によって、先達の研究と合わせ、こういう事実を明らかにすることができるだろう・・・。
つまり、先立って例示した宇宙コロニーのある一部分の建設計画が研究計画書にあたります。さて、この計画書の要点は2つ。一つは、先達の研究を知らなければならないということ。教科書には最先端の研究は載っていません。その領域における常識的な知見だけが書かれています。だから、自分が関わるような、末端の小さな石の積み上げがどこまで達しているのか、相当に調べなければいけません。2つ目は、自分の研究の独自性を出さなければならないところです。人と同じ研究を自分も行っても意味がありません。誰もやっていないことをやらなければなりませんし、そうでなければ研究と言えません。以上の2つの制約、①先達の研究を知らなければならない、②先達と違うことをしなければならないという制約から、研究計画書についてある重要な真実が導き出されます。すなわちその真実とは、
研究計画書は一人では絶対に書けないということです。
研究計画書を一人で書くのは無理です(重要な事なので2回書きました)。
理由は簡単です。①自分の興味関心を「これ」と定め、②それを学術領域に落とし込み、③先達の研究の歴史や流れをすべて調べ、④そこに自分の興味と付き合わせたうえでの「穴」を見つけ、⑤その穴を埋めるためのアプローチを考案し、⑥現実的な形で研究計画を定め、⑦その穴を埋めたことによる学術領域へのインパクトを想定し、⑧以上一切を一般的には5000字程度の研究計画書にまとめる。
これが自分一人の手でできるなら、修士に入学どころか博士学位がとれてしまいます。
研究計画書の作成は、一人ではできません。あなたを指導する教員との綿密な打ち合わせ、論議、ゼミへの参加などにより、ゆっくりと研究内容、方向性、実験計画などをまとめていき、添削を含めた指導をしてもらいながら研究計画書をなんとか仕上げ、入試当日までの期間もさらに調べごとや研究計画を練り続ける(この時点で研究計画書は通過点になっている)。これが研究計画書の理想的な書き方(とその後)です。
私の場合は、指導教員の勧めで大学院入試の半年ほど前から、大学のゼミに参加させていただいていました。当然私が進もうとしている大学院のゼミもありましたが、最初からそこに参加するのは難しいだろうとの配慮です。大学のゼミは明るい雰囲気で、そのゼミの卒業生が、続く大学院に入学するということがよくありました(先述した内部進学の例です)。そこで研究論、研究に関する議論の仕方そのものを学び、また指導教員との1対1の文献報告などの時間もいただきました(今思えば非常に贅沢な時間の使い方をさせていただいていました)。外部の大学の、分野外、しかもこれまでの研究業績も何もない大学生に大変よくしていただきました。ちなみに当時の私の出身大学には卒論というものが無かったので、本当に研究というものをしたことがありませんでした。
さて、入試は一発試験ではない、というのをわかっていただけたでしょうか。入試の面接で使われる研究計画書の出来には、それまでの研究活動(のための下調べ)がそのまま出てきます。まさか一夜漬けで書けるはずもありません。指導教員にしてみれば、これから入試を受けるある学生(人柄や研究の方向性をもちろん知っている)に、研究文章の書き方や、参考文献の引用の仕方などを教えるのに都合のよい、行事的なものが研究計画書の作成になります。受け入れ先の教員が、入試で初めて研究計画の内容を知るというのは100%ありえないと言っていいでしょう。
逆に身も蓋もない言い方をしますが、入試など行事でしかないというスタンスでいなければ、大学院には受かりません。半年以上前から研究活動を行っている、綿密な関係を指導教員(予定)と結んでいる、これが大前提になります。
面白くない=絶対無理
さて、冒頭で私は大学院入試など大学入試に比べれば簡単であると述べました。それは、大学院入試など、何も努力する必要が無いからです。それもそのはず、入試の前から研究室に入りびたり、ゼミや指導教員との論議をするという話をしましたが、そうしているうちに自然に研究計画はできてきますし、研究のノウハウは自分の中に蓄積されます。
「いや、その事前研究活動にけっこうなコストがかかっているのでは」と思った貴方。それが正解です。まったくその通りですが、研究をすること自体がコストだと感じるならば、絶対に大学院への進学は勧めません。
高校や大学と異なり、大学院では単位という概念が希薄で、義務も特にありません(一応、取得すべき単位数などは設定されていますが、ほとんどないのと同じです)。研究したいというなら、その環境を与えましょう、というスタンスが大学院であり、あれとこれとこれを履修して単位をとれば卒業、というシステムはありません。自分自身の研究欲がそのまま生活のモチベーションになり、研究をしたいから研究を遂行するということが前提となっていると言えます。
だから、研究を面白くないと思っている、あるいは少ししか面白さを感じない、という方は入学してはいけません。進路が定まらないからとりあえず大学院生に…というタイプの院生が鬱になる可能性は、他とは比べ物にならないくらい高いのです。誰に頼まれるわけでもなく、利益を得られないどころか学費まで払ってでも研究がしたい。成功するかどうかもわからない。どこを歩いているかもときどきわからなくなる。それでも、未知を踏破し既知としたい、研究という静謐で潔癖な世界を歩きたい、そういうある意味での変態が大学院生という生き物です。
異常者になろう
だから、大学院生になると今までの常識は通用しません。少なくとも、進むべき道もわかりませんし、誰かが知っている王道を歩くというやりかたは通用しません。研究には過度に論理的であることが求められます。感情や印象や良好な人間関係は時として研究の邪魔になります。純粋に論理的であることだけが求められる瞬間が、自分にも周りにもあります。従って、研究について論理的に批判されることがままあります。そして根本的に間違っているロジックは、人間力ではまず助かりません。
人間関係を器用にわたり歩いて、賢くテンプレを工夫して、というある意味社会で最も求められるスキルはまるで役に立ちません。どんなことがあっても、どう思われてもぶれない研究熱、オタク気質、論理的な気高さと潔癖さ、そういう資質が求められます。これは一般的な社会では異常とされる性癖です。
異常者であること。少なくとも健常者であろうとしないこと。異常者であることを何とも思わないことが求められます。かなり極端な言い方をしていますが、研究という世界の独特の価値観や論理的な正しさへの傾倒は、大学院生以上の方ならばある程度の共感をしてしまうのではないでしょうか。
簡単に、誤解を恐れず誤謬を厭わず言うならば、「知りたいもののために狂えるか」ということです。
受験対策・英語編「力技」
さて、最後になりましたが、一応How toのようなことも述べておきましょう。
私は中学生のころから英語が苦手で苦手で仕方がありませんでした。中学1年の1学期にいきなりつまずき、つまずいたまま起き上がることもせず、大学3年まで匍匐前進もせずその場でゴロゴロしていました。さて、いよいよ研究のために大学院入試のために、英語の勉強をしなければと10年ぶりにむっくりと起き上がった私がしたことは、一般的な英語の学習法から逃げることでした。昔から教科書とか参考書というものが嫌いで、何か自分流の勉強方法はないものかと探し回り、得た答えがこちらでした。
「内容が同じ日本語版と英語版の心理学の本を図書館で借りて、両方暗記する」
かなり過激な学習法でしたが、これがわりとうまくいきました。大好きな心理学なら、その英語を覚えるのは苦ではありませんでしたし、英語の言い回しのようなものもだんだんと習得できてきました。特に心理学には独特の表現が多く、英語論文を読むための礎にもなりました。
入試は簡単と申しましたが、大学院入試には英語があり、かなり不安でしたがこの勉強法でなんとかなったというのが実際です。研究領域の英語は、どうせ論文を読む必要があるので習得必須でしたから、効率よく学習する方法と言えるかと思います。すでに英語がある程度できる方は、ひたすら英語のレビュー論文や英語の原著論文を読むのがよいでしょう(当然、わからない部分は指導教員や先輩に聞くべきです。英語自体が流暢でも、絶対に読めない部分が出てくるのが論文です)。
入試は通過点(本当)
入社は通過点、結婚は通過点、などの格言がありますが、大学院入試はまさにそれです。入試に受かったからといって大学院生活が豊かになる保証は誰にもありません。どれほど優秀と呼ばれていても失敗することもあります。研究というものに興味はあったが全然面白くない・・・とモチベーションが下がるかもしれません。大学院生にとって、未来などというものは須らく暗雲が立ち込めているものです。
しかし。
それでも、研究とは、大学院生の生活とは、楽しいものだと言っておきましょう。
正規分布の意味を正しく理解したとき。
分散分析(ANOVA)の根幹を後輩に正しく説明できたとき。
p<.001で望ましい結果が得られたとき。
論理的な躓きなく、学会誌のAbstractを書き上げた時(たとえそのあと指導教員により真っ赤になったとしても)。
はじめてのポスター発表で、恙なく質問に回答できたとき。
先輩院生のロジックの穴について、改善点も含めて議論したとき。
引用したことのある著名な研究者が、面白い論文を公開したとき。
その研究者と海外の学会で議論したとき。
新しい道具の設営を任され、運用までこぎつけたとき。
後輩がその道具を使い、データをとり、論文を出したとき。その著者名に名を連ねた時。
いくつもの苦労と怠惰と、焦燥と疲労と、無念と諦観と、しかし情熱と歓喜が、何度も何度も繰り返し、寝不足の脳を焼き焦がす。それが大学院生活です。この文章をご覧の、大学院生さん、あるいはかつてそうであった方。楽しかった思い出、たくさんありますよね。
そんな天国と地獄のふたつがないまぜになった特殊な領域の入り口が、大学院入試です。
さあ、白と黒の境目を駆け抜けるときです。
次回は大学院生の生活について。お金を得ようとするとすぐに詰みます。