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【究極思考00011・00012】
【究極思考00011】
話し言葉(=パロール)だとしても、書き言葉(=エクリチュール)だとしても言葉を使わなければ何も伝わらないというのは理解してはいるが、しかし、言葉では伝えきれないし、言葉で表現したと同時に何かニュアンスはすれ違い、ズレが生じるのもまた確固たる事実なのだ。
「不立文字」(=ふりゅうもんじ、文字では伝わらないとする禅の考え方)とは、よく言ったものだと実感も痛感もする。
言葉ではない。強いて表現するなら、直観であり、究極を志向する思考の姿勢である。それは、こうと名指すことはできても、具体的に説明を尽くせば尽くすだけ伝えたいことから離れていく。それが言葉の有する問題であり、言葉を信じるが言葉を信じられないということの内実であると言って過言ではないように思う。
究極の場に存在しつづけ、そこの境地から現代アート作品を制作する。それこそ現在の自分が制作している究極の現代アート作品「ART=・」をコンセプトとした作品群だ。そこでは、0.8mmもしくは0.8mm程度の・がひとつふたつみっつあるだけの究極の作品。また同時に進められているのが、平面を塗り潰すだけのnotitleのシリーズ。それらはすべて究極の作品なのである。やはりそれらの究極の作品は見ているときに、その真髄をはっきするだろう。そこでは、言葉は契機でしかなく、作品自体にこそすべてがある。たとえほとんど何もない作品だったとしても。
【究極思考00012】
しかし、言葉を信じられないとか、言葉では伝わらないとか、主張しても、それはあくまでも究極の現代アート作品に関してではないだろうか。しかも批評家とは異なり、一般的にアーティストの書く文章は得てして直観的で伝わりにくいものが多い。多分、自分の文章もそうかもしれないとは思う。自分では論理的に書いているつもりでも、結論に至るまでのプロセスを論理的に立論しているかと言えば、心もとないのが事実。
究極を求める自分には文章さえも究極を追求したいだけに、一気にスピーディに結論を述べたいのだ。
だけれど、それは自分の現代アート作品をめぐる立論においての限定した直観的文章であり自分独自の文体であるのだけれど、読書を通じて何かを学ぶ際には、その限りではない。わがままと言われればそれまでだけれど、心理学でも現代アートでも禅や仏教でも哲学・現代思想でも(主に自分の興味の範囲)、読み学ぶには、やはりプロセスを論理的に立論していることが自分には望ましい。いや、詩や小説、アーティストの言説以外に求められるのは、そういうことではないか。できれば平易で理解しやすい文章が知識を知恵を深めるには最重要だろう。それを守った文章=書籍は、じっくりゆっくり読み進めることで理解が深まる。