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【究極思考00004・00005】

【究極思考00004】

 椹木野衣の美術批評、美術月刊誌「美術手帖」(現在は季刊)の刺激的な特集、スーパーフラットをテーマにしてアメリカで企画・キュレーションした展覧会を開き、特に自分の存在を欧米に認識させた村上隆、そしてインターネット環境の充実と相俟って、現代アートの情報が膨大に共有されて行く。単なる欧米の現代アートの動向紹介にとどまることなどなく、現在の欧米の世界標準の現代アートの動向や展開、そして、批評家やコレクターたちによって紡ぎ出されるアート・ワールド、オークションを代表するアート・マーケットなど、1980年前後には見えていなかった多種多様な情報が一気に流れ込んで来たのだと言える。
 その間を通して、デュシャンの評価も変わって来たように自分には感じられもした。デュシャンと言えば日本では、「階段を降りる裸体No.2」や通称大ガラス「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」および制作メモをまとめたグリーンボックス、遺作「(1)落下する水、(2)照明用ガス、が与えられたとせよ」への評価が多かったが、1990年代以降には、それよりも1917年に展示拒否された便器にサインした「泉」という作品の、その革命性こそが現代アートの始源として多大な評価を確実なものとした。はじめは単なる嫌がらせだったかのような、工業製品である便器を作品として選んだことで、それは革新的な選択作品として独り歩きを始めたのだ。それは、その後のコンセプチュアル・アートにも結び付く。
 しかし、デュシャンその人は、あくまでもエロティシズムだけに拘泥したように思える。誰もが依存しているのに無視している、それがエロティシズムだと、そういうニュアンスの言葉をデュシャンは残してもいる。
 デュシャンが「泉」で示したもの、いや、そこから演繹される更なる究極思考。それは、商品にならないような、非意味的で非表現的な営為が、それこそ現代アートとして評価されるという逆説にほかならない。
 何も表現しないような、余計な要素をすべて削ぎ落したような表現こそが、究極の現代アート作品であると主張できる道筋を現前したことだ。それこそ、ほかの芸術表現とは大きく異なる、欧米起源の世界標準の現代アートの実際であり究極の実態だ。そして、そこにこそ、現代アートの面白さも大きな価値も存していると自分は信じる。

【究極思考00005】

 この日本という美術のガラパゴス国においては、現代アートは嫌われている、そして、そこで愛されるのは精密な表現、時間と手間を意識させる緻密さ、手数の多さ、人を驚かせるスペクタクルや錯視や錯覚を扱ったトリックアートだ。それ以外のもの、醜かったり歪んでいたり政治的主張が込められていたりなどもってのほかだ。きれいなものしか彼らには存在を許されはしないだろう。それが露骨に明らかとなったのは、「あいちトリエンナーレ2019」だ。そこで企画・展示された「表現の不自由展・その後」への多大な脅迫テロ。確かに、表現の不自由をテーマにした「表現の不自由展・その後」が「あいちトリエンナーレ2019」に必要だったのか、また、その企画・展示自体に批判や非難が予想されたにも関わらず芸術総監督の津田大介が「表現の不自由展・その後」を推したのは何故なのか釈然としない。本来なら「表現の不自由」をテーマに、津田大介と「あいちトリエンナーレ2019」の学芸員が共同して企画し、作品をテーマに沿って選択し、展示する筈なのを、どうして、「表現の不自由展・その後」をその実行委員会とともにそのまま持ち込んだのか、それはどう贔屓目に見ても納得できるものではない。慰安婦を象徴する「平和の少女像」をめぐっては、相当な誹謗中傷が予想されていたからだ。それを予想しながら、どうして、津田大介は、そういう選択をしたのか。それによって「あいちトリエンナーレ2019」を実際に訪問さえしていない、
 多数の部外者から誹謗中傷、抗議の電話が繰り返され、テロを仕掛ける脅迫さえ行われ、結局は、政治家も巻き込み、「表現の不自由展・その後」は中止されてしまう。そこから第三者委員会、アーティストの不参加、会期末での「表現の不自由展・その後」再開など、さまざまな混乱を招いて終了した。その結果、明らかになったのは、繰り返しになるが、<この日本という美術のガラパゴス国においては、現代アートは嫌われている、そして、そこで愛されるのは精密な表現、時間と手間を意識させる緻密さ、手数の多さ、
人を驚かせるスペクタクルや錯視や錯覚を扱ったトリックアートだ。それ以外のもの、醜かったり歪んでいたり政治的主張が込められていたりなどもってのほかだ。きれいなものしか彼らには存在を許されはしないだろう。>という事態にほかならない。
 現代アートとは、その作品を通じて、それが現代アートかどうか思考する、また、それを語り合う、対話し合う、そういう性質も含んだものであるが、日本の世の風潮としては、そういう対話は存在することは許されていないようだ。そう、その是非を問う、対話して是非を再認識・再確認する、
そういう視点は存在さえしないかのようだ。政治的な主張があった時点で、すべて受け付けない。「平和の少女像」や昭和天皇を扱った作品が展示されたというだけで拒否されるのだ。それが日本の美術の現状だと言って過言ではないだろう。
 ただ、自分は「表現の不自由展・その後」に展示されていた作品を、現代アートとして評価するかと問われれば、否と答えるしかない。そこにあったのは、表現以前の作品でしかないからである。(表現以前と、表現しない=表現を限りなく削ぎ落とすという究極とはまったく別ものだ。)政治的主張を含んでいるのではなく、政治的主張しか存在していない作品ばかりであるからである。そして日本のアートの現状を露見したのが「あいちトリエンナーレ2019」だったと言うに過ぎない。

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