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9.なぜ、どのようにして大学教授になったのか?

大学院を修了してからやっていたこと(初めての査読論文)

博覧会の仕事など多忙な中で2003年3月に大学院を修了した。当時の勤務地は静岡県浜松市だったが、行政経営フォーラムのメーリングリスト上で自治体改革についての活発な議論に参加していた。メディアでもコンサルでもない純然たる民間企業社員と言う立場は、参加者の中でも変わり種?だった。
一方でヤマハの立場で関わっていた一般社団法人日本クラシック音楽事業協会及び財団法人地域創造のつてで文化経済学会<日本>の研究大会に顔を出し、会員になった。日本行政学会、日本地方自治学会は会員になっていたが、文化に関連する学会は初めてだった。この時初めて、仕事で得た知見を基に文化経済学の論文を書き、学会誌に投稿しようと思った。学会発表を聞いても学会誌を読んでも民間企業の観点から文化経済学を論じるものが(実際には深く関わっているにも関わらず)少ないと感じたからだ。
そこで書き上げたのが「芸術仲介産業の事業構造と付加価値分析」という論文で、芸術と社会をつなぐ役割を民間企業が果たし、そこに付加価値が発生しているということを証明したものだった。初めての投稿だったが査読に合格し学会誌に掲載された。文化経済学会の学会誌には翌年も論文を投稿し、やはり査読を通り掲載された。忙しい仕事の合間に論文を書くのは大変だが、文化政策の分野に民間企業の立場からの新たな知見を加えたい、という使命感のようなものがあった。

そして、初めての共著を書く

2000年、浜松市に静岡文化芸術大学(以下文芸大、文化政策学部、デザイン学部)が開学した。何人かの先生とは静岡国体などの仕事を通して知り合いになっていた。2004年3月静岡文化芸術大学で「公立文化施設の民営化~指定管理者制度を中心に」というシンポジウムが開かれたので興味を惹かれて行ってみた。主催は文化政策提言ネットワークで中心になっていたのが当時助教授の小林真理先生(現東大大学院教授)だった。登壇者からは「民間企業には文化施設の運営はできない」とする意見が多かったため、私は質疑の時間に会場から手を挙げて反論した。なぜなら登壇者の中に私が音楽企画制作室時代に企画を制作した施設の担当者がいたからだ。現に民間企業(ヤマハ)は公立文化施設の企画を制作しているのに、なぜできないと言うのか。シンポジウム終了後の懇親会で旧知の小林先生から「桧森さん、あれだけ言ったんだから書きなさい」と言われて書いたのが文化政策提言ネットワーク編『指定管理者制度で何が変わるのか』の「指定管理者制度のビジネスモデルー民間企業による公立文化ホール経営の可能性」と題する論考だった。指定管理者となった民間企業はどのようにして準公共財(つまりそれ自体は儲からない)である公立文化ホールを経営するのかを示したもので、詳細は専門的なので省くが日本で初めての論考となった。この本は2004年10月に刊行された。大学教授や公立文化施設館長などが名を連ねる執筆者の中で私の肩書はヤマハ(株)静岡企画推進室次長ゼネラルプロデューサーだった。
これと並行して行政経営フォーラム会員の時事通信社記者枡谷さんに薦められて同社の専門情報誌『地方行政』に「指定管理者制度のマネジメント」と題する論考を3回にわたり連載した。
これらをきっかけとして、指定管理者に関するシンポジウムや講演に呼ばれるようになった。

まだまだ続く活動、忙しい会社の仕事の合間に

行政経営フォーラム会員で当時名古屋大学大学院教授だった後房雄(現愛知大学教授)さんから呼ばれて当時後さんが主宰していた(特活)市民フォーラム21・NPOセンターで指定管理者としてのNPOの可能性について講演したことをきっかけに会員になり、常務理事に就任した。これがNPOや中間支援組織、社会的企業にウィングを伸ばすきっかけとなった(実際にNPOの経営アドバイスも経験した)。
2005年文芸大で開かれた文化政策研究大会in浜松に主催者の一員として参加し、その延長線上で2007年5月に発足した日本文化政策学会の発起人として名を連ねた。大学教員や自治体職員の中で唯一の民間企業からの参加だった。学会にとってはそのような賑わかし人材も必要だったのだろう。2006年には中川幾郎、松本茂章編著『指定管理者は今どうなっているのか』に「指定管理者制度の光と影―“民が担う公共”の可能性」と題する論考を執筆した(刊行は2007年)。この外にも執筆や研修講師、講演は続いた。これらの活動については会社の地域文化貢献の立場から、会社の仕事にするものと個人的な活動にするものを自分の判断で仕分けした。2007年には上山信一さんとの共著で『行政の解体と再生―ニッポンの公共を再構築する』を執筆した(2008年に東洋経済から刊行)。このころには文化政策や地方行政について民間企業の立場からユニークな意見を発信する論客?と一部で認知されていた。それでも大学教員になることは考えもしなかったが。ただ、この時期に培った問題意識は今も変わっていない。

2008年、いよいよ大学教員に

2007年秋、市民フォーラム21・NPOセンターの縁で2008年度から愛知県岡崎市のある大学でNPO論の授業を非常勤講師として持つことになった(フレックスで調整すれば勤務しながらなんとかなったので)。58歳になったこの時初めて、定年後はいくつかの大学で非常勤講師を務めるのもいいかもしれない、と思うようになった。
2008年1月のある日、行政経営フォーラムの会員で当時慶應義塾大学の若手講師(現在は教授)玉村さんから電話があった。「桧森さんを大学教授にどうか、という話が出ているんですが興味ありますか?」という内容だ。「ああ、興味あるよ。再来年定年なのでその時になったらぜひ」といったら「いや今すぐなんですが。とにかく加藤寛先生に会ってもらえませんか」。よくわからないまま2月初旬に帝国ホテルで加藤先生にお会いしたら「いい人が来てくれてありがとう」と言われた。私はすっかり来ることになっていたのだ。この時考えた。定年までは1年半あるが会社の仕事はもう十分やった。後は若い人を育てて社会に貢献する仕事をしよう。ということで「よろしくお願いします」と返事をした。
慶応SFC創設者で名誉教授、さらに千葉商科大学学長を務めた加藤先生は4月から嘉悦大学の学長に赴任することになっていたのだ。
とはいえ、私は世間にもまれたサラリーマンである。大学教職員の雇用者は学校法人である。学校法人からの正式なオファーが欲しい、と伝えると2月中旬に学校法人の常務理事がヤマハを訪ねてきて正式なオファーと条件を示された(大学教員に口約束を信じるのは禁物だ。いくら学長や学部長が君にはぜひ来てもらいたい、と言っても雇用する権限は彼らではなく学校法人にある。口約束を信じて2階に上がってはしごを外される例はいくらでもある)。そこで私は初めて会社に3月いっぱいで退職する旨を告げた(定年前の早期退職には割増退職金が出るがそれには半年前に辞めると言わなければならないので今回は無し。かなり損した。)あわただしく引継ぎや退職手続きをし、3月31日まで目いっぱいハママツジャズウィークのスポンサー回りの仕事をし、4月1日に東京に引っ越し、4月5日に教授会がある、ということで初出勤した。

初出勤

当日の教授会では人事承認後途中から呼び込まれて席に着いた。見ると机の上に組織図が置いてあってそこに社会連携委員会委員長桧森隆一と書いてある。え、これは何するの?聞いてないよ、と思っていたら終了後何人かの先生が寄ってきて「先生は社会連携委員長ということですが、実は今大変な問題が起こっていまして」という。社会連携委員会には国際連携も含まれているとのことだが「実は教員交換で来ている武漢大学の先生が怒って中国に帰ると息巻いているのです」何で怒っているかわからず皆さんどうしようどうしようとうろうろしていたのだ。私は民間企業でトラブルがあった時はまず渦中に飛び込めと教えられている。現場現物現実の三現主義の実践だ。私はとりあえず会ってみましょう、と言ってその先生を呼んでもらい話を聞いた。じっくり聞くと怒っている原因は以前に交換教授できた時とは異なる住まいや備品の処遇に文句を言ったらある教員(理事長の息子)がけんもほろろの対応をし、なおかつ中国人は文句ばかり言うとかげ口をたたいたのが本人に伝わってしまったのだ(ばかとしか言いようがない)。私は(自分に権限があるかどうかわからないが)とにかく謝罪して、できるだけ希望通りにすること、理事長の息子の言うことは大学としての本意ではないことを一生懸命説明した。武漢大学の先生は「あなたには来たばかりだから責任はない。あなたを信じてとどまりましょう」と矛を収めてくれた。周りの先生方は安どの表情を浮かべた。
こうして私の大学教員生活は始まったのである。

次回の記事ではなぜ私が呼ばれたのかとその背景としての大学改革について書く。

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