【僕の心のヤバいやつ】に殺される話
皆さんどうも…シラヌイです。
本記事はチャンピオンにて連載中で、現在アニメシーズン2絶賛放送中の漫画『僕の心のヤバいやつ』について、思ったことをしたためて行きたいと思います…。
まずこの作品を喰わず嫌いしている方は【特に男性】は、これに当たっては致死量のカプ厨萌えによって尊死する可能性が高い為に、これから見ようと思っている方は事前にWARNINGをお忘れなく…。
毎週のようにトレンド入りする
#僕ヤバ
はもう無視できない段階に増長しており、その勢いはとどまる様子を見せない。
ではなぜ…この作品が人々の琴線に触れ続けてしまうのか?というのを少し考察を交えて考えていきたいと思います。
男目線なので、バイアスの入った記事であることは承知しています。
① 恋愛は叶う前が一番楽しい
これはもはやラブコメ漫画における定石中の定石テンプレートですが、恋は成就する前のやり取りが最も美しく儚く、夢見心地になれる摩天楼なのです。
この作品では、両者はおそらく『初恋』で『両想い』なのですが、中学生故の未成熟さからか場馴れしてないこととは裏腹に猛烈なアタックに余念がありません。
大人がやったらその瞬間に恋愛成就達成とも取れる行為でも、彼らのようなお子ちゃま同士の恋愛においてはまだどこまでの発展性があるのかそこまで理解しないまま『ノリ』で行くところまで行ってしまいます。
この童貞力と処女力のマリアージュがこの作品を常に支配していて、一線を越えそうに見えるのは大人だけで当人や中学生からすればそれは友人と恋人の違いについて充分な解像度が無いから起こりうる現象なのです。
② 信頼できない語り手と勘違いを生む外見
ヒロインの山田杏奈は、身長172cmでスタイル抜群な美女として描かれ
主人公の市川京太郎は背の低い陰キャの典型的な隻眼ヘアという姿で描かれていますが
両者のギャップがこの作品をより引き込ませるのです。
ヒロイン山田は、まるで大人顔負けの美貌とスタイルをあわせ持つ完璧美少女ではあるものの、知的レベルは低めでほわほわ系を自称しないタイプのリアル清純派。精神的には未熟さが残り、外見とは違い言動は幼稚な女子中学生。
しかし身長のせいもあってか子供っぽい言動はどこか治安の悪いヤンキー女に移ることもあります。
一方の主人公市川は知的レベルはかなり高くEQ値が高いタイプのキャラで、自己嫌悪やトラウマ、少し問題が見え隠れする童貞of童貞。精神的にはかなり成熟していて、良好な人間関係を構築できるのにそれをやりたがらないタイプのこじらせ童貞。
相反する2人のキャラが混じり会う瞬間、恋慕という繋がりが二人に交錯するのですが
一方の市川は山田に性的な欲求を抱きますが【当然と言えば当然なのですが】、山田の方もなぜか市川が好きになります。
これはある種のなろう系に通ずるご都合主義的展開にも見えるのですが、一応山田が市川を好きになる理由には筋が通っている所もあります。
しかし、中学生には刺激が強すぎるイベントの連続にうちひしがれる市川を見ていると、かつて恐らくほぼほぼ陰キャを経験している日本男子達の心にいる理想的な女の子である山田が、市川のことを気にかけてどんどんちょっかいが増えていくのをみると
あの当時に抱いていた未成熟な達観が、意図も容易く壊され理想的な結末を迎えなかった我々の中学時代の恋慕を、まるであの当時に持ち得なかった精神的な成熟度を持っている市川が全て引き受けてくれて、美女と2人乗りしたり相合傘をしていたりしてくれるのを見るのが脳が痒くなってしようが無いのです。
これは明文化してしまうと現実味を失いそうですが、昔甲子園に出場することを夢見ていた父親世代が自分よりもひ弱な高校生が甲子園で優勝するまでの過程を見させてもらうことに夢を見るような上から目線の自己投影なんだと思います。
要するに男は自分がモテていると思ってしまう生き物で、それが勘違いであると気付くのが学校【平均】という構造式になっています。
それを踏まえた上で、どう足掻いてもモテる筈が無い市川が学校一の美人に完全に脈ありサインをだされているのを見続けていられるのが嬉しくて堪らない。
本能的な達成感に包まれるような感覚を持ってしまうのです。
③アニメの出来が良すぎる
私はこの作品の1期が一番好きなのですが
1期ではまだお互いが認識していない状況から始まって…距離が近づいていく様子をモテない男市川目線でお送りするのですが。
1期のop『斜陽』byヨルシカ
が、この状況の市川の感情を的確に音楽に落とし込めていて
『斜陽』とはまさに傾きかけた夕日、太宰治の有名な小説のタイトルですが
太陽が最も美しい瞬間は太陽が顔を出す瞬間と沈み込む瞬間、そらが茜色に染まって情景が醸し出される。
これはまさに、恋愛は始まりと終わりが最も美しいもので、『恋人未満友達以上』という白黒付かない灰色の関係性でしか生まれない挙動が存在するのです。
恋が産まれる瞬間と恋が叶う瞬間、それまでのモラトリアムが恋愛というゲームの全盛期であることは歴史が証明しています。
そのモラトリアムを美しく表現した『斜陽』は聞けば聞くほど味わいが増していく素晴らしい曲です。
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結論 『我々はいつの間にか平均になってしまっている。』
人間というのは、社会を知り平均を知り自身の歪みを正そうと意識的に行動する。
それは人間が集団行動の中で生き残る為に必要な相互扶助を受ける上で絶対に必要な常識力であり、歪みを持ったまま生活することは厳しい。
モラトリアムというぬるま湯に浸かり、恋愛の本能的な側面を覗くことができる『僕ヤバ』は歪みを正してしまった我々に何か大切なことを思い出させてくれるような気がする。
『人を好きになる』というのは本能的な欲求で、それが叶うことは実社会においては到底出会えるものではない。
そしてこの全人類相互監視社会において、人目も憚らずに何かを好きだと言うことはとても怖いことなのです。
誰かの好きは誰かの嫌いであるように、この世界は誰しもが傷つかない社会作りを求められます。
大勢の前【学校】で誰かを好きでいることは、とても勇気がいることなのです。
そもそも恋愛の女神様は早い者勝ちに微笑むように、陰キャは陽の者とは足並みが違う為にどこか『恋愛』というものに負い目を感じている。
恋愛という娯楽要素は人間に必要不可欠なものではない。だがそういった余分を引き受けて、困難に立ち向かう彼らを見るのは勇気を貰えるのだ。
そういった歪みを否定してきたあの頃の我々の成し遂げられなかったこと、それを引き受けてくれて『歪んだままでも良い』と勇気を持って自分を正当化しようと努力するのはどこか危なげで、羨望混じりのカプ厨萌えが入る。
人を好きになるのは、理屈じゃない。
だが相手も自分を好きになってくれるとは限らない。
そんな常識を、非常識にせんと踠き、足掻く彼らのつたない足取りをこれからも見守っていきたい。
『いざ省みよ擦りきれた大人達よ!涙を流すほど人を好きになったことはあるか!? 』
かくして、人は変化を恐れる。なぜなら痛みを伴う平均から逸脱する行いだから。しかし、変化を恐れていては成長は無い。それは受けるべき成長痛である。
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