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【推しの子】カミキヒカルを深掘りしてみます。

かんらからから!シラヌイです。

前回の記事にてカミキヒカルの感情のラインが掴みにくいと言ってしまったので、それでは考察を放り投げていると感じ、再度カミキヒカルとは一体なんだったのか?について、現状の推しの子に心がついていってないそこの君!達と共に彼の行動と心情の裏付けについて解説していきたい。
軽めに…。

① 人の心は二元的である。

カミキヒカルという人間には、普段の自分という側面と周囲に期待される自分という二つの側面が備わっている。
人は誰しもが親しい友人や仕事、プライベートでそれぞれの顔をあわせ持つように、ユングのペルソナと呼ばれる社交性仮面を被っている。

カミキヒカルは幼少期のネグレクトによる愛情不足、から承認欲求が強く求められれば強く答えてしまう返報性の原理を地でゆく少年へと変貌していきます。

そこでは若い美を求める女性からの行為に対しても、どこまでも答えてしまい結果犯罪行為に巻き込まれ知らず知らずのうちに子供ながらに普段の自己という側面が薄弱して、他者からの求めに応じることに没入していくのです。

これは演技に没入するという意味では、天才役者としての側面を併せ持っているのも事実であり、才能のみを欲する業界においてこういった問題を抱えている人物が表に出ないまま、使い潰されるという問題に繋がります。

② 恋愛による自己の開花

只、美を欲望にまみれた大人に消費され演技力をコンテンツとして消費され残った少年は自己意識の火の消えかかった蝋燭のような欲望の奴隷でしかありませんでした。

しかし、自分と同じように才能を使い潰されて尚自分を持っている人間に出会い少年は思いもよらず好きになってしまうのです。

初恋、という知り得ない感情の濁流は乾ききった土に水が差し込むが如く死んでいた脳を生き返らせ、求められる事に対する奴隷だったカミキヒカルは自我が芽生えるようになるのです。

ここで初めてカミキヒカルに人格が灯り、愛を知り止まった歯車がアイ【愛】という潤滑油と共に軋みを上げ動き出すのです。しかし…運命は常に幸運を運ぶとも限らない。

③ 人間はそう単純ではない。

カミキ少年との行為の結果、アイは妊娠を経験しますが彼女には彼女の生き方というものがあります。

カミキから見た、星野アイはなんでもしてくれる好きな人。
星野アイから見たカミキヒカルは同じようになんでもしてくれる好きな人、でも可哀想な人。

お互いに承認欲求に飢え、親切な人間性を発揮していると関係性としては最良である。
返報性の原理とは、されたことに対してそれ以上の親切を返すという側面もある。
お互いがお互いに返し返され、そうする内に仲が深くなり親密を越える存在になってしまう。

しかし返報性の原理に従う彼等には歯止めが無い。
永久機関のように愛に利子をつけてたらい回しを行えば、若くして妊娠という結果も当然のように発生する。
一歩引いて、距離感を仕切り直すというのも必要なコミュニケーションの一つである。

彼らの妊娠が早すぎることは、結果として行動の亀裂を産んだ要因ではあるが、星野アイはカミキヒカルに負担をしいたくなかったが故に別れを切り出してしまう。

愛を返されれば愛で答える。
しかし裏切りを返されれば、憎悪で答える。


永久機関にノイズが混入してしまうと、その術式は破綻するのだ。

④ 狂うことに狂わされる


アイに裏切られ、自分を使い潰した大人達からもさらに求められた少年は、かつての自分に戻りたくないと動き始めた歯車が止まるように悲鳴を上げ、止まるくらいならばいっそ壊れてしまおう。
と思い立つのだ。

狂うことは正常を知らなければ起こらない。
もとから狂っている人間は正常を知ることが無いからだ。
恋を覚え、人間性を取り戻した少年は狂う事で現実の無情さから逃避する。

一度でも狂った人間は、常に狂っている訳ではない。
狂った後、ふと我に返り自分のした行いに苛まれる。
狂うことは我々の生きる行為の輪の一つに過ぎないからだ。

たまに散見される、殺人などを犯す犯罪者は刑務所の中で悔い改め自分の行いを償おうとするという。
それは人間にとって狂いとはペルソナの一部に過ぎない事を表している。

取り返しのつかない行為をしてしまったカミキ少年は時を経て、自己を見つめ直しながら自分のやった行いを後悔しながらも狂っている自分に取り憑かれ、狂わされる。

普通から逸脱する行為を狂うと言い表すならば、
他者に恋をする事もある種の狂いなのかもしれません。

人は常に自分の平均を導き出そうと計算している。
自己とは何か?
それを知る為に、ペルソナ【仮面】同士が対話し擦り合わせ、自意識という平均値を叩き出す。
そうやって人格の統治を行い、生活における混乱を避けるという。

だからこそ、【狂気】というペルソナを持ってしまったのであればそれを越える善行でなければあがなえない。
ドストエフスキーの罪と罰をご存知だろうか?
たった一度の殺人は、たとえ幾千の善行でも洗い流せない。
水槽に一滴の狂気を垂らせば、それを完全に水にするのには何千倍もの水量が必要なのだ。

故にカミキヒカルは自己に秘めた狂気に狂わされ、奇しくも手に入れた自己がそれを洗い流そうとするも殺人を越える善行は法治国家において刑罰という側面でしか存在しない。

それに抵触しない彼には何も償えないまま、狂うことに狂わされるのだった。

 結論 赤坂アカ先生、恐るべし

やはりこのレベルの作家となると、キャラクターの感情ひとつとっても複雑怪奇そのもの。
それを繊細なレベルで微調整して造形を作り上げる。
こんなの何の気なしに見てるだけでは理解し難いキャラですよ。
ですがどうでしょう?
キャラクターを分解し、理解すれば推しの子はもっとおもしろくなります。

以上です。失礼!

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