問いの連鎖で壁を溶かし膜に変える価値創造型学習
霞ヶ浦は社会の有り様(縦割り型社会の限界)を映し出す鏡
はじめに私達の取り組みの拠点となっている霞ヶ浦についてお話しします。霞ヶ浦は琵琶湖に次いで、日本で2番目に大きな湖です。東日本最大の湖です。霞ヶ浦は、西浦、北浦、外浪逆浦、常陸利根川などによって構成され、利根川水系の最下流部に位置しています。
流域面積は約2200平方キロメートルと広大です。関東平野の東側に位置しほとんどが平地で、水田が約20%を占めています。水源となる森林は約20%と多くありません。流域の南部が東京都心から50キロ圏内に入っています。
流域人口は約100万人、農業が盛んで北海道に次いで2番目の農業生産を誇っています。また養豚を初めとして畜産も盛んで、湖の漁業はワカサギ、シラウオを初め、内水面漁業で日本一の漁獲高を誇ってきました。
流域には国内有数の工業地帯である鹿島コンビナートもあります。それから筑波研究学園都市もあります。流域南部では首都圏のベッドタウンとして急速に開発が進み人口が急増しています。霞ヶ浦流域には、実に様々な社会的要素が含まれているわけです。
このような流域内での様々な人間活動のトータルな影響の結果として顕在化してきたのが、霞ヶ浦の水質汚濁問題です。広大な流域に降った雨水は、最終的に霞ヶ浦に集まります。霞ヶ浦はまさに、現代社会の有り様を映し出す鏡のような存在です。
私達の活動範囲はこの湖と流域全体です。先ほどお話ししたように、私達の活動範囲には様々な社会的要素が含まれ、多くの課題や問題があります。その意味では、私達の活動フィールドは、流域という地域生態系の単位と重なる実物大社会モデルとして有効な規模と内容を備えているといえます。
世界には、霞ヶ浦と同じように流域人口が急増し、工業化や都市化や農業の近代化が進むのに伴い水質汚濁や生態系の悪化や利害対立等の問題を抱えている湖沼が、とくに、急速な経済発展を遂げている新興国や途上国などに多くあります。また、そのような湖沼の多くは、霞ヶ浦と同様に水系の最下流部の平野部や海の近くにあります。
そういう意味では、霞ヶ浦は現在新興国や途上国で起きている様々な環境問題を先駆けて経験してきたような場所で、これから新興国が取り組まなければならない問題や課題ともう何十年も前から向き合ってきた場所でもあります。
湖を変えた大規模開発と社会の変化
霞ヶ浦では、湖を水瓶にする水資源開発「霞ヶ浦開発事業」が1960年代に行われて以降水質が悪化し1970年代には汚濁が激化、1980年代には水質汚濁防止法や霞ヶ浦富栄養化防止条例に伴う工業排水や有リン洗剤等の規制によって、湖沼の水質はある程度改善されましたが、1990年代には再び悪化し横ばい状態が続いています。改善の見込みが示せない中で従来からの取り組みの限界が見え、発想を大きく変えなければ対応できない状況が明らかになったのです。そこで、これらの限界を踏まえ、新たな発想で湖や社会と向き合い働きかけていこうと、1995年に市民型公共事業アサザプロジェクトを始めました。
霞ヶ浦の流域には24の市町村、茨城千葉栃木の3県が含まれています。先ほどお話ししたように、流域には多様な社会的要素が含まれていますから、それらに対応する多くの省庁や官庁、県、市町村等が流域各所に関わり管轄しています。広大な湖と流域は一まとまりの水系や生態系の単位でありながら、縦割りの社会システムに覆い尽くされています。そのため、霞ヶ浦と流域全体を視野に入れた対策や総合的な取り組みは、今まで国や県も実施できていません。これまでの対策は、各省庁ばらばらに、個別に行われきたのが現状です。しかし、個別の事業をいくら積み重ねても、湖の環境改善は進みませんでした。それ(部分最適化した取り組みの限界)は、専門分化した研究分野についても言えることです。これまで霞ヶ浦の水質改善のために投じられた国費は、1兆円を超えています。それでも水質は横ばい状況です(図 )。こうして明らかになった限界をどのように越えていけばいいのか、そのような課題意識を持って、私たちの取り組みは始まりました。
広大な流域を動的ネットワーク「付加価値の連鎖」で覆う
縦割り化専門分化した社会システムが流域を覆い尽くし、自然の繋がりを分断化していることが流域をカバーする広域的かつ総合的な取り組みを実現させる上での大きな壁になってきました。そのような状況をどのようにして乗り越えていけばいいのか。私達は、これまで個別に行われてきた様々な事業や取り組みを、自己完結しない、縦割りの壁を越えて、付加価値の連鎖の起きる事業に変えていこうと考えました。
これは、私どものプロジェクトの代表的な取り組みを図に表したものです。この図にある農林水産業や公共事業、教育、福祉などの事業、学校や企業、学校、漁協、農協、行政機関等さまざまな組織は、縦割りの壁の中で自己完結する形で存在し、人、モノ、カネが個別の枠組みの中で完結する形で動いています。これに国からの補助金が加わり自己完結をさらに促し、社会の分断化や縦割り構造を強化しています。縦割り化よって、柔軟性の乏しい非効率で高コストの社会システムが出来ているわけです。
アサザプロジェクトは縦割り分断化した社会に、自然や人の繋がりを取り戻していこうと、今は自己完結している事業に付加価値を与え、既存の枠組み(分野)を越えた広がり(付加価値の連鎖)を作り、良き出会いの連鎖(今まで繋がりの無かったもの同士が協働で価値を生み出しながら次々と繋がり合っていく動き)を引き起こす新しいビジネスモデルを立ち上げてきました。私達は、このようにして環境保全と地域活性化の一体化を目指して活動しています。
縦割りの壁を越える。
既得権益や利権によって固定化された縦割り構造によって、金の流れ、物の動き、人の動きが硬直化し、社会全体で様々な停滞や機能不全を引き起こしています。このような社会を再活性化する(全体的な効果を引き出す)ために、自然や環境といった広がりや繋がりや循環を持つ文脈に合わせて、社会に新しい「人・物・金」の動きを作り続けていく取り組みがアサザプロジェクトです。私達の取り組みについてはソーシャルイノベーションとして紹介されることもあります。
これがアサザプロジェクトのネットワークです。事業を進めていく上で、ネットワークが必要になりますが、私達は初めから組織のネットワークを考えませんでした。事業によるネットワークを、つまり付加価値の連鎖によって、縦割りを越えて展開する動的なネットワークを構想しました。これは、私達が作成した図ではなくて、国民生活白書でアサザプロジェクトを紹介した図に一部加筆したものですが、ポイントは中心に組織が無いことです。中心には多様な主体が自由に出会い恊働が生まれる場があります。この場は、後で詳しく述べるように「問いの共有」によって生まれる場です。
従来の縦割り専門分化した組織が中心になって事業を起こせば、総合的で広域的な事業には当然ならない。これまでと同じ個別的限定的な効果しか期待できません。しかし、NPOのような非営利組織が生活者の視点を持ち、縦割りの枠組みに拘束されないコーディネータになって、様々な新しい組み合わせが生まれる場の創出を実現していけば、社会を変える大きな動きを作れるのではないか。先ほどお話しした自然のネットワークや循環と重なり合う、新しい「人・物・金」の動きを社会の中に生み出していけるのではないかと考えました。これが私たちのアサザプロジェクトが生成する場です。
この図のように、行政や大学や農林水産業等の縦割り専門分化した組織を中心には置かず、中心の無いネットワークの一員として配置して様々な主体と自由に組み合わせ機能させる方が、各組織の付加価値を引き出しやすく、柔軟な発想で、効率よく、現実に即した事業展開が可能になります。このような発想を政府の白書でも紹介するような時代になったということです。
私達がこれまで作り上げてきた社会はピラミッド型ですね。その中で市民参加や情報公開は非常に重要な機能を果たします。でも、それだけでは社会の硬直化を廻避できません。社会を活性化しより民主化していくためには、このように行政参加を促すネットワーク型社会への転換が必要です。そして、それは動的なネットワークでなければなりません。
行政参加を促す政治〜動的ネットワークを市民がデザインする
動的ネットワークをどうデザインし展開させていくのか。この課題は、これから社会を創っていく上で重要な鍵になると思います。ただ、そのようなネットワークは、特に大きな力やお金がなくても、誰もが展開できる可能性が今の社会には潜在しています。インターネット空間に限らず、みんなの足元にも独自のアイデアを持って発信することで、多くの人たちの共感を得て動き出すかもしれないネットワークの起点が眠っているかもしれません。至る所に、何処にでも当たり前に在るものにさえ、新しい価値を実現し、社会を変える力の源泉が眠っているはずです。私は、ひとりひとりが出来事の起きる場として機能するネットワーク型社会を構想しています。そして、動的ネットワークの駆動力となる付加価値の連鎖は、後で詳しく述べることになる「問いに応える学習」や「問いの連鎖」と一体となって展開していくものと考えます。
そのような動的なネットワークが展開すれば、今まで行政が実現できなかった公的な機能の総合化を、ネットワークが生み出す全体的な効果として実現できるようになります。このように動的なネットワーク全体から生じる効果が理解されるようになれば、ネットワークの一員として行政が参加する機会が生まれます。求められる公的な機能を、行政単独ではなく社会の多様な主体と協働で生み出していくことができると分かれば、行政にネットワークへの積極的な参加を促すことができます。
これを私は行政参加と呼んでいます。行政対市民といった力関係や二項対立的な発想ではなく、多様な主体同士の協働から生まれる効果を生かす合理的な発想(場の発想)によって、動的ネットワークを機能させていくものです。では、そのネットワークを誰がつくり上げていくのか、もちろん縦割りの行政には難しい。これは生活者である市民が自由な発想で、アート的な感覚でクリエーティブに楽しくやっていくのかなと思います。そして、このように機能するネットワークのデザインはある意味で政治です。なぜなら、このネットワークでは政治が本来担うべき「新しい現実の生産」が行なわれるからです。
人間は考える葦原である〜混沌から生まれる美としての多様性
これからのネットワーク社会は、強力な中心を持ったネットワークではなくて、多様で分散した個によって生み出される中心の無いネットワークによって作られていくものだと思います。現代社会は多様化複雑化し実態がつかみにくくなっています。世論調査の結果と、現実の動きが食い違ったりもしますね。中心の無いネットワークは確かに混沌を含みますが、私は多様性とは混沌から生まれる美ではないかと考えます。社会から混沌を排除するのではなく、混沌を多様性という美へと昇華させることができる成熟した社会を目指すべきです。混沌から美を生み出すことができなければ、混沌は混乱に変わります。
このようなネットワークを社会に発展させて社会を成熟させていくためには、個々の人格が様々な出会いに向けて開かれた場として機能することが不可欠です。個々の人格が出会いの場として機能するネットワーク。一人一人が開かれた感性と知的好奇心を持って多様なものを積極的に受け入れる。自分を場として開き、自らを多様なものが出会う場として機能させる。自分の方法で多様なものを結び付けて総合化し、そこから新たな意味や価値を生み出してく。パスカルは「人間は一本の葦である」と言いましたが、私は「ひとりの人間は葦原である」と言いたいです。(そのような個によるネットワークの形成は、技術のあり方も変えていくことでしょう。私は個々の人格が機能として生かされる「人格を持つ技術」が生まれて来ることを期待しています。)
そのようにして自分を場として開くには、まず多様な人々と問いを共有することが必要です。そして場として開き続けていくためには、答えを得ても立ち止まらず、答えによって開かれる知の地平に向けて問いを連鎖させていくことです。そのようにして、自らの知性を開花させていく営みは、総合化というひとつのアートなのかもしれません。そのような総合化の起きる場となる豊かな知性と感性を持つ人をより多く育てていくことが、これからの教育の課題、とくにESDの課題であり目標だと考えます。
アサザプロジェクトは、このようなネットワーク社会を目指し、組織のネットワークではなく、動的なネットワークによる取り組みで、この広大な流域全体を覆い尽くしていこうとしています。これは2004年に作成したもので12年ぐらい前の動的ネットワーク図です。すでに、流域の大半の地域を様々な取り組みで覆いつつあります。
組織(立場)のネットワークは機能しない。
私は、組織(立場)のネットワークはこれからますます機能しなくなると考えています。動的なネットワークの中で、自らが動くものに成り、動きの中で思考し何かを生み出していく、そのようにして作られる「人・物・金」の動きを新しい現実の生産へと結び付けていかないと、そのネットワークは意味を持ちません。
しかし、人はどうしても組織のネットワークや組織化という理念に依存し勝ちですね。大きな組織に所属してれば安心。大きな組織のネットワークを構築すれば、数の力で政治や社会を動かせるんじゃないか、あるいは大きな事業を展開できるんじゃないかと思い込んでいますが、実際そうはいかない。組織のネットワークを維持するには大変なコストと労力が要るし、強力な中心(答えの共有)に依拠した集団ですから、多様な人々の対話による独創的創造的な動きが生まれにくい。だから、たいてい事業は発展せず組織を維持するだけで終わってしまう。停滞した組織を維持するために既得権益に縛られていく。
組織の維持が目的化し優先されるようになると柔軟性が失われ硬直化していく。自己完結した閉じた組織が増えていきます。そんな負の連鎖が組織や社会に広がり、変革の動きを阻んでいるのではないでしょうか。このような負の連鎖を断ち切りたい。
そもそも組織は目的ではなく、事業が現れるための場でなければならないと思います。だから、はじめに人々や社会が求める事業があって、そこに、人や組織の結び付きが生まれてくるはずです。組織への帰属意識より以前に、事業への共感を通して多様な個が繋がり合い、魅力ある事業の生まれ続ける場として組織が形成されていくのだと思います。事業への共感を生むためには、まず問いの共有が必要です。組織が問いを共有する場でなければ、多様な個が共感によって結び付くことはありません。
選択をしないで浮上させる〜ビジョンとは何か
そのような動的ネットワークの展開をベースにして、100年先の社会を展望したビジョンを作りました。いま霞ヶ浦は水質が悪化し自然環境も大きく損なわれています。このような状況がもう何十年も続き、霞ヶ浦は人々の諦めや無関心で覆われていました。私は、状況を変えるために、湖が持っている潜在的な可能性、潜在力をどのようにしたら引き出せるのかを考えました。
選択肢に縛られていて、潜在的な可能性を見出せない状況が、つまり行き詰まり状態です。行き詰まりを見せている社会や組織に必要なのは、選択肢の中には含まれていない、まだ誰も気がついていない、既存の枠組みからは見えてこない可能性を浮上させることです。既存の枠組みの外に潜在する可能性を見えるようにするためには、まず自分の在り方を変えること。私は、ここからイノベーションが始まると考えます。
しかし、今の社会は本当に選択肢に縛られていませんか。とくに、政治の世界では「今はこれを選ぶしかないです」という言葉をよく聞かされます。これしか無い。現実的な答えはこれだけ。この道しか無いと決断を迫る、このような政治は本来の政治とは言えません。それは、要するに諦め(仕方がない)による合意形成を人々に求めているだけです。これでは、全くビジョンというものが無い。本来ビジョンというのは、潜在的な可能性への気付きを人々に促すものであり、人々や社会が有する潜在力を引き出す場を創出する方法やアイデアを具体的に示すものです。ただバラ色の未来を描いて見せるのは、絵に描いた餅であって、ビジョンではありません。
私は、潜在力は多様性をベースにして、つまり、先ほどから述べているような多様で分散した個が場として開き機能する中心の無い動的ネットワークから生まれて来るものだと考えています。なぜなら、そこには多様性を生む混沌と共に想定外の出会いや出来事が満ち溢れているからです。一人一人の市民がネットワークの中で、場として開き機能しなければ民主主義は機能しません。一人一人が、自分は潜在力を浮上させ機能させる場(掛け替えの無いひとつの可能性)であると自覚すること。そのための学習や教育の実現もESDの課題ではないでしょうか。
危機を乗り越えるには潜在的な可能性を浮上させ発想が必要
霞ヶ浦の再生には、湖が持っている潜在的可能性や潜在力を浮上させるための、新たな思考や取り組みが不可欠です。先ほどからお話しているような動的ネットワークを生み出し人や組織を機能させていけば、社会に新しい意味や価値を次々と浮上させていくことができます。それらの価値を共有する輪を自然のネットワークや循環に重なるように流域全体に広げていくことができれば、この100年図のように湖の自然は再生していくと考えました。社会に動的ネットワークが広がるのと同時に、自然のネットワークや循環が再生され、湖が再生される。つまり、社会的課題や社会要素と引き離して、生態学などの専門知識や個別科学の発想で自然のネットワークや循環を再生することは不可能です。それでは野生生物の生息地を守り続けることもできないと思います。社会のあり方を変えずに、自然環境だけを改善したり再生したりすることはできません。社会的な課題と自然環境の課題を切り離さず一体のものとして捉え、総合化し思考する力を育むことが必要です。これもこれからの教育、ESDの課題だと思います。
社会に繋がりやネットワークを広げていくことと同時並行で、自然の繋がりやネットワークが広がっていくような方法を考える、そのような分野の違いを超えた双方向的思考を実践することが、持続可能な社会や自然と共存する社会を実現していくためには不可欠です。
環境ニヒリズムを超えるために
環境教育や環境学習ではよく、このままでは破滅します、このまま行ったら何年後かにこのような深刻な状況になりますといった形で、子ども達や若者に未来予測を示します。このような予測を示し意識啓発することは必要かもしれませんが、それだけでは、極端な言い方をするとニヒリズムに陥ってしまう恐れがあります。人間が生きる目標は破滅しないことや悲惨な状況をただ回避することでは無いからです。恐らく、環境運動への共感がなかなか広がらない理由のひとつもそこにあります。
人間が生きる目標は、自らの潜在的な可能性を引き出し、自らが生きる世界を生み出していくことではないかと思います。それは、人間が危機的状況を乗り越えていく上でも不可欠な力です。教育においても、自分はどのような人間に成るべきかという問いをベースに、自分が関わる組織や社会をどのようなものにするのか、どうあるべきかという問いへと発展していくのではないでしょうか。(そこには、技術への問いも含まれます。)潜在的可能性、潜在力に目を向けず、これ以上悪くならないようにという発想に止まっていては、結局は現状維持さえできないでしょう。
これは1997年に描いた図ですが、霞ヶ浦と人や社会の潜在力を引き出すことで、100年後にはトキが普通に見られるようにしようというものです。付加価値の連鎖、動的ネットワークが機能し、人や社会の潜在力が次々と浮上し、湖と流域に広がっていったら、どうなるんだろう。あんなに大きな湖が再生したら、これはえらいことになるんじゃないかということです。このようなビジョンを示したところ、これまで環境保護に縁のなかった人達や組織にも共感の輪が広がっていきました。多くの人たちが、湖を地域の潜在的可能性が浮上する場として捉え直したからだと思います。
流域に分散する社会資源を読み替えネットワークとして機能させる〜子どもと大人の協働
アサザプロジェクトの全ての取り組みには子ども達が関わっています。子どもと大人の協働で進んでいくのが、このプロジェクトの特色です。地域づくりには、子ども達の感性と創造力が不可欠です。大人は立場で小さくまとまりますが、子どもは共感によって大きくまとまっていくことができるからです。子どもを抜きで大人達だけで、地域づくりをやろうとするから、なかなか上手くいかないのです。
アサザプロジェクトでは流域全体を結び付けていくときに、流域の小学校のネットワークを生かしました。霞ヶ浦流域の地図上に赤い点が満遍なくありますが、これらの赤い点は私たちのプロジェクトに参加した小学校です。これまで170以上の小学校で霞ヶ浦再生をテーマにした学習プログラムを実施してきました。
最初に小学校との協働を考えた大きな理由は、広大な霞ヶ浦流域に満遍なく配置されている社会資源を生かそうと探していて、小学校の空間配置に気付いたからです。小学校区は子ども達が歩いて通学することを前提に設定されています。つまり、子ども達の日常的な空間です。また、小学校区は地域コミュニティの単位とほぼ重なります。霞ヶ浦流域は平坦で山地が少ないため、小学校は流域全体に満遍なく分布しているという特色があります。この小学校の空間配置という既存の社会資源を新たな文脈で読み替え機能させていけば、大きな労力や資金を投じなくても一気に流域全体を覆うネットワークが構築できると考えました。しかも、そのネットワークは、行政の縦割り区割りとは異なる、地域コミュニティ(生活空間・子どもの感性が息づく空間)が連続したひと繋がりの面として、水系や生態系の面と重なり合う人的社会的面として機能させることが期待できます。そして、このような面展開を実現する潜在力が教育にあると考えました。
アサザプロジェクトはこのような面展開を目指して、学習を通したネットワークづくりを行い、霞ヶ浦と流域で様々な取り組みを展開してきました。湖の自然再生事業では、このネットワークを機能させて延べ1万人以上の小中学生が湖に行って再生活動をし、流域では延べ15万人以上の小中学生が再生活動を行いました。その他の様々な事業を展開していく中でも、小中学生の活動と連携した形で多くの大人達や多様な組織が参画しました。これまでに、アサザプロジェクトには延べ30万人の人々が参加をしています。
霞ヶ浦が部分最適化や問題解決型による取組みの限界を明らかにした。
先に述べたように、霞ヶ浦は1970年代から環境が急激に悪化しました。その第一の原因は霞ヶ浦総合開発という国家プロジェクトです。同じ時期に琵琶湖総合開発も行われ、首都圏や大都市圏の近くにある湖や川をダムとして機能させる公共事業が各地で行われました。全国の里山から多くの生物が姿を消したのも1970年代です。霞ヶ浦総合開発事業は、経済発展や人口増といった右肩上がりの成長予測に基づき、湖に水を貯められるだけ貯めて使えるようにしようという、高度経済成長期を象徴する水資源開発です。このとき環境アセスメントは行われず、湖岸の大半が護岸化されて、植生帯や浅瀬が大規模に失われました。これによって生態系の悪化と同時に水質も悪化して、アオコの大発生や魚の大量死といった深刻な出来事が起きました。その頃から霞ヶ浦のシンボルはアオコになりました。湖がマイナスイメージで覆われてしまったのです。
霞ヶ浦の水質改善には、これまで約1兆円以上の国費が投じられてきました。1980年代には霞ヶ浦富栄養化防止条例という県の条例が制定され、工業廃水や事業系廃水の規制や、有リン合成洗剤の禁止などがあって一定の改善が見られたのですが、1990年代になって再び水質が悪化。この背景には特定の汚濁源を抑えるだけでは改善できない状況が生じたこと、つまり湖の汚濁原因がより複雑化し、流域の社会システム全体からの構造的な原因に変わったことがあります。都市の拡大や生活様式の変化や農業の近代化など様々な社会的変化が同時に起きて、それらの問題の全体的な効果が霞ヶ浦に映し出されたわけです。
答えの積み重ねでは全体的な効果を引き出せず先が見えない状況
事業系廃水の規制といったピンポイントを抑える発想では対応できない状況になったわけですから、今度は社会システム全体を視野に入れて、複雑な社会構造と向き合いながら様々な対策を講じなければならなくなったわけです。しかし、縦割りの行政システムや専門分化した組織では、そのような全体観や複雑な要素を含む広い視野を持てない。だから、多様な人や組織やモノを結び付け湖や流域全体を視野に入れて、全体的な効果を引き出すような総合的な施策や取り組みが、行政や研究機関などからは出てこない。結局、個別に色々な事業や対策をやっても上手くいかない。部分最適という答えの積み重ね(寄せ集め)では全体的な効果が見られず先が見えない、このままでは霞ヶ浦は死の湖になってしまうのではという閉塞感が1990年代の湖を覆っていました。
その頃は、市民の霞ヶ浦への関心も薄れていく一方で市民活動も縮小し、シンポジウムなどをやっても人が集まらない、市民団体もメンバーが固定化していくといった状況になっていました。発想を変えなければ、何も変えられない。私達市民も変わらなければならないという意識が芽生え始めました。市民は市民、行政は行政、企業は企業、みんなばらばらにやっていても何も変わらないのではと、多様な組織や団体を集めてシンポジウムやフォーラムをやっても変化は見られませんでした。1995年には、霞ヶ浦で世界湖沼会議も開催されましたが、この会議によっても大きな動きや変化は見られませんでした。結局は、意見を寄せ集めるだけでは変化につながりませんでした。
答えの積み重ねから問いの連鎖へ〜現場に入り動きながら考える
どうしたらこの状況を変えられるのか、湖の大きさに圧倒されて全く先が見えない状況でした。そこで、もう一度原点に戻り現場の湖から出直そう考えました。湖が発している問いに耳を傾けてみようと、とりあえず湖を歩いて調べることを始めました。
実はそれまでは誰も霞ヶ浦の湖岸全域を歩いて調べていなかったんですね。霞ヶ浦の湖岸総延長は252キロメートルと、国内の湖の中では一番長いんです。1993年頃から毎週末に地図を手に、湖岸を歩きながら見つけたこと気付いたことを片端から記録する調査を始めました。調査への参加を呼びかけましたが、集って来たのは全部小中学生でした。毎回、5~6人を連れて、40〜50キロメートルを歩いて調べました。子ども達の目は小さな生き物や水草の小さな切れ端も見逃しませんでした。大人達が死の湖と呼び始めていた霞ヶ浦にも、よく見れば多くの生き物の姿があり、所々に再生の芽があることに気付きました。子ども達は、この徒歩調査を、湖のお宝探しと呼びました。
その調査の中で、私達は霞ヶ浦のマイナスのイメージを象徴していたアオコに代わるプラスのイメージを象徴する存在をいくつも見つけることができました。そのひとつがアサザという、全国的に希少になっていたミツガシワ科の水草の群落でした。万葉集などにも詠まれ昔から親しまれてきた水草ですが、全国各地で姿を消し、絶滅が心配されていたアサザの大きな群落が霞ヶ浦には何カ所も残っていたのです。しばらくして、霞ヶ浦は日本最大のアサザ生育地であることがわかりました。死の湖だなんて、とんでもない。こういうお宝もちゃんと残っているじゃないか、このようなお宝を次々と見つけて生かしていけば、湖の特色を活かし再生していく道筋が見えてくるんじゃないか。
同時に、アサザという水草は、水質汚濁や湖のダム化といった社会の構造的な影響を受けている生物であることも分かってきました。アサザとの出会いが、ただアオコ(マイナス)を減らせばいいというマイナス思考からプラス思考への発想転換を促してくれました。アサザをはじめとした湖の様々な生き物達が発する問いと向き合い応えていけば、霞ヶ浦を再生に導く道筋が見えてくるのではないか。湖が発する様々な問いに応え、それらを問いの連鎖にして社会に展開していこうと思いました。そこで、私達の市民型公共事業を「アサザプロジェクト」と呼ぶことにしました。ですから、このプロジェクトは単にアサザを保護することが目的のプロジェクトではありません。アサザは私達にとって発想の転換という出来事を象徴するものです。
「問いに答える学習」以前に「問いに応える学習」が必要
このようにしてアサザプロジェクトは、「湖が発する問いに応える学習」へと展開していきました。そこで、私達は従来の環境学習や総合学習への課題意識を持って取り組みました。
一般に、環境をテーマにした学習では、すぐに環境改善の方法(答えの選択)を考える方向に向かってしまう傾向が強いですね。大抵、ごみ拾いなどの体験学習やポスター作成等(答えの共有)で完結してしまう例が多い。あとは、環境改善の事例を本やインターネットで調べてまとめる学習とか、生徒というよりも、先生が自己完結型の学習に生徒を誘導してしまうことが多い。これは、多くの学校で総合的学習の時間を生かせず持て余してしまう理由のひとつだと思います。
それらは、生徒が問題と向き合い自分で考える学習というよりも、調べ方や体験のまとめ方を覚える学習に過ぎません。地域に起きている問題は、地域が人々に向かって発している問いとして受け止めなければなりません。始めに問いがあり、その問いを共有することから、本当の学習(教育)は始まるのではないでしょうか。なぜ、そのような問題が起きたのか、なぜ、ある生物が絶滅に瀕しているのか。なぜ、ゴミは捨てられるのか。なぜ、無関心な人が多いのか。そのような問いと真摯に向き合う姿勢や、答えのない問いと真摯に向き合い続け自分の方法で考える力を養うことが、本来の教育の目標ではないでしょうか。ところが、実際には上手に情報を集め整理して発表するだけ、あるいは体験して感想をまとめるだけの総合的学習が多く、これでは生徒に生きる力も問題解決能力も育むことはできません。これは、ESDが目指している教育や学習ではないですね。
まず当事者である湖の生き物の目になって、いったい湖で何が起きているのか、どうしてこういうことが起きているのかということを調べ深く考えるということが必要です。他者の目になって、当事者になって問いと向き合い問い直すことが必要です。これをきちっと行わないと、学習が「答えの共有」や「答えの積み重ね」へと向かってしまい安易なまとめや提案で完結してしまいます。ただ単に生き物たちのために何かしてあげようとか、自然に優しい何々といった偽善に陥ってしまう。学習を深めるということは、「答えの共有」や「答えの積み重ね」で自足しようとする生徒達を触発し、問いに留まり続けて答えの先に見える知の地平へと、問いの連鎖へと生徒達を導き入れることだからです。
湖が発する問いをアサザから学ぶ
では、霞ヶ浦が発する問いとは何か。具体的に何が起きているのか、どのような問題があるのか。まず、このグラフを見てください。これは開発前の霞ヶ浦で起きていた水位の変化です。関東地方は冬から春まで雨が少ないので、この時期に湖の水位は下がります。そして、6月の梅雨期になると水位が上がります。そのような自然のリズムに合わせて湖の生物は生きてきたわけです。川の生物も水量の季節変化に合わせて生きています。生物はこのような生活史を変えることができません。
ところが湖を管理する国土交通省(当時は建設省)は、1996年から霞ヶ浦開発事業の運用に伴い、自然の変化とは全く逆の水位変化を起こす管理を開始しました。水位が下がっていた冬から春に逆に水位を上昇させ、水位が上がっていた夏に水位を下げてしまうという、逆転した水位管理を始めたんですね。この水位管理が、アサザをはじめとする湖の動植物を翻弄し、生態系全体に大きな影響を及ぼすことになったわけです。そして、その影響が顕著に表れた生物のひとつがアサザでした。
その理由はアサザの生活史にあります。アサザは、冬から春まで湖の水位が下がった時に種子が浜辺に漂着して、そのまま春に浜辺で発芽して葉を出し、雨が多く降る梅雨に湖水位が上がると水没して地下茎を沖に伸ばして水草群落を形成する生活史を持っています(図 )。アサザはそのような水位変化に合わせた生活をしてきたのですが、国交省が湖の水位変化を逆転させた管理をするようになったため、種子が漂着して発芽するための水辺が水没してしまい発芽できなくなってしまったんです。アサザがそのような状況にあることを、学校の授業で子ども達と学習しました。アサザの生活史と同時に、昔の湖岸の様子も学習しました。浅瀬から沖に向かって、多様な水草群落によって構成された植生帯があったことや、それぞれの水草群落を使う生物がいたことを学習しました。
そして実際にアサザを種子から栽培して、アサザの湖水位の変化に合わせた生活史を理解する学習を行いました。まずポットの土の上に種子を蒔いて、水に浸かってない状態にして置いて発芽させます。ある程度葉が出てきたら、ポットごと水に沈めます。水位を少しずつ上げていくと、それに合わせて水面に次々と浮葉を出して成長していきます。このように、アサザの生活史を実際に栽培しながら理解していくわけです。
この学習を通して生徒達は、湖の生き物は自然な水位の変化に合わせて生活様式をつくり上げてきたことを知り、人間の都合で自然のリズムを無視した水管理をすると生物の生活基盤が崩されてしまうことを理解しました。
国交省の水位管理の影響はアサザだけではありません。季節風が強く吹く冬期に湖の水位をあげると、波による侵食が強まり岸辺のヨシ原が削られ衰退し、水草が根をはる浅瀬自体が波で掘り取られてしまうことや、魚類の産卵場所や稚魚の生育場所が減少していくことも学習しました。これらの問題は、まさに湖が生き物達を通して発している問いなのです。
湖や生き物が発する問いに応える学習によって公共事業を見直す
困っている生物は、なぜ困っているのか、その生物の目になって、その生物の生活文脈に沿って環境を見直してみる。どのようにして環境問題を解決していけばいいかを、当事者である生物と対話し相談しながら考えていく。どうやったら生物と共存できるのかと、抽象的に考えるだけでは学習として深まらないですよね。生物が発しいている問いかけに直に耳を傾け、生物たちと対話し相談しながら湖の改善策を考え提案することが必要です。そのために、まず生徒達は生物や生息地を観察して、生物の体のつくり、すみか、くらしを関連付けて学習します。どこの学校でも、授業はこの「生き物とお話しする方法」から始まります。
湖の生物の発する問いに応え、生物たちと相談しながら湖の再生を考えるためには、まず生物とお話しできるようにならなければなりません。だから、はじめに必ず生き物とお話しする方法の学習をするわけです。生物と環境との関わりを学び、生物の目になって環境を見直します。ただ生物について調べるだけでは、学習は展開しません。生物の発する問いに応えるために生物の観察をして生態を調べ、自分とは違う他者の視点で問題を捉え直します。それが「問いに応える」という意味です。
アサザなどの湖の生き物達が発する問いに応える学習を通して、生き物達の生活基盤となるヨシ原や浅瀬の保全と再生が非常に重要だということがわかり、それらを保全復元する方法を考える学習へと展開していきました。このような学習の展開にあわせて、私たち市民団体と漁業協同組合が協働で湖に植生帯を復元する実験を始めました。北浦の漁協は以前から独自に湖の植生復元を行っていたので、すぐに私達や子ども達の提案を受け入れてくれました。まず、大人たちが浚渫土を使って湖に浅瀬をつくって、そこに小学生がアサザやヨシ、マコモなどを植える形で行いました。そして、植えた水草がしっかりと根付くまでの間、波で流されないように流域の間伐材を使って消波施設を造りました。工事はみんなで材料や道具を持ち寄って行いました。このような動きを見ていた国交省が協力したいと言って加わり、湖での市民型公共事業が始まりました。
このようにして植えた水草の多くは根付く前に、流されてきたゴミや釣り人の針によって抜かれてしまいました。水草を植えた子ども達は、生物の身になって人間の影響の大きさを実感しました。中でも、不自然な水位管理による影響の大きさを知ることになりました。水位管理実施後に、湖内各所に分布していた34のアサザ群落が11群落にまで減少していたことが調査の結果明らかになったことから、2000年に私達は国土交通省(当時建設省)に、現在の水位管理をこのまま続けていけば、アサザをはじめ湖の生物の生息環境が悪化していくだけなので、水位管理を見直してほしいという申し入れをしました。交渉を重ねた結果、全国の湖では初めて水位管理を凍結することが決定しました。大変画期的な出来事で、全国ニュースにもなりました。
国交省がこのような決定を行った背景には、環境学習の広がりがあったと考えます。流域の大半の小学校170校以上が、先述したよう霞ヶ浦や生物の状況や水位管理の問題などについてアサザをきっかけに学んでいたことや、多くの市民が湖の再生活動に参加したことで、湖が発していた問いを共有できたからだと思います。問いの共有は立場や意見の違いを越えた対話を実現させます。湖が発する問いに応える学習を通して、公共事業の見直しを実現した事例です。
NPOと行政が協働で進めた公共事業による付加価値の連鎖
この水位管理(冬期の水位上昇)凍結をきっかけに国交省の委員会ができて、私もメンバーとして参加しました。国交省はこの委員会で水位管理が生態系に大きな影響を及ぼしたことを認めました。
水位管理の凍結と同時に、国交省は水位管理の後に衰退した植生帯の復元をするという事業を始めることになり、私達NPOは計画段階から復元場所の選定や工事の工法、事業をバックアップする体制、つまり流域の学校や地域住民との協働体制やモニタリングの方法なども含めて、この公共事業に計画段階から参画をしていきました。とくに、私達NPOのネットワークを生かすことが、国交省の枠組みを越えた分野と協働する公共事業を実現する鍵になりました。この事業がモデルになって、自然再生推進法という法律が2003年につくられました。しかし、同法に基づく事業は行政主導になってしまったため、私達は同法に基づく事業には参加していません。
ここ(石岡市石川)は11箇所の再生地区のひとつですが、延長が1キロメートル以上あるかなり大規模なものです。再生事業前はコンクリート護岸しかありませんでしたが、再生後は大きな植生帯に覆われました。それ伴い、メダカやタナゴ、トンボ、カエル、野鳥などの多くの生物も戻ってきました。
このような植生帯の復元事業にも、地元の小学生や多くの地域住民が参画しました。まず、復元事業に向けて地域に合わせた計画を立てなければならなくなりました。しかし各地区の昔の様子を記録した文献や写真などはありませんでした。それではどうやって昔の状態を調べたらいいのか?
自己完結しない福祉〜公共事業でお年寄りと子どもが出会う
そこで、私達は地元のお年寄りから地元の小学生が聞き取りをして、開発前の湖の様子を調べる出前授業を始めました。約1000組のお年寄りと小学生が一緒になって復元計画づくりを行いました。学校の授業では、それまでにも世代間交流という時間がありました。地元のお年寄りとお手玉をするとか竹とんぼを作るとか、よくありますよね。そのような交流の場を生かして、湖の自然環境を再生する公共事業のための計画づくりを一緒にやってくださいと呼びかけたのですが、これには、特にお年寄りが喜んで参加してくれました。「子ども達とじっくりと話ができた」「子ども達と共に地域づくりに参加できた」などの声を頂きました。これを私は「自己完結しない福祉」と呼んでいます。公共事業が子どもとお年寄りの出会いの場になったのです。今の子ども達は核家族化によってお年寄りの知恵や経験と触れ合う機会が減っています。私は子ども達が成長していく過程で、とくに人格形成期にお年寄りの知恵や経験と出会うことは極めて重要だと考えています。そのような出会いの機会を、公共事業の付加価値として作ることができました。
子どもとお年寄りと一緒に昔の湖の様子を絵に描いてもらいました。ものすごい情報量です。昔の湖岸の様子や動植物、湖と人の暮らしとの関わり、そういったものがお年寄りの身体の一部として、まさに身体図式といった形で描かれている。これらが自然再生事業(国の公共事業)に生かされていきました。
湖の公共事業の波及効果〜学校ビオトープで流域を被う
そして、お年寄りが教えてくれた情報をもとに、学校にミニ霞ヶ浦、つまりビオトープを生徒達と造りました。校庭に池を造り霞ヶ浦に自生している植物を植えます。そして学区内のメダカとタニシだけ入れるというルールになっています。それらのビオトープに湖内で群落ごとに採取したアサザを植えて系統保存しました。
流域各地の学校にビオトープが100以上もできました。使える予算がなくてビオトープをつくれない学校が多いのですが、これらのビオトープ造成には、学校を管轄する文科省ではなく国交省が霞ヶ浦再生事業の一環として費用を出しました。それは、このビオトープが湖の再生事業をバックアップする場として位置付けられたからです。公共事業による付加価値の連鎖です。
ビオトープは植えた水草が数年で繁茂して水面を覆い尽くしてしまいトンボなどが生息しにくくなってしまうので、生き物と相談しながら植物を適度に抜き取って水面を創出する作業を行います。この時に抜き取られた水草や系統保存されていたアサザの一部を、お年寄りから聞いた昔の様子を参考にして、湖に復元した浅瀬に植えに行きます。同時に、湖の動植物の観察や外来植物を抜き取るなどの活動も行いました。
もし、このような作業を国交省が業者などに頼んだりしたら大変な費用がかかると思います。それだけではなく、事業が終わった後も、参加した子ども達や地域住民が再生場所に愛着を持ち続け見守ってくれます。子ども達も学校にビオトープをつくってもらえる、そしてバスで霞ヶ浦に行って学習ができる、お年寄りは子ども達と交流できる、国交省は地域の理解と協力を得ることができるという、ウィンウィンの関係が、公共事業による付加価値の連鎖によってできたわけです。これは文部科学省と国交省を連携させようとしたってできないと思います。このように、ひとつひとつの公共事業から縦割りの壁を越えて付加価値の連鎖を社会に広げていくことができれば、限られた予算をより有効に活用することができ歳出を大幅に削減できるでしょう。それを可能にするには、私たちのようなNPOが離れた組織と組織を結び、いわばホルモンや情報伝達物質のような役割を果たすことが必要です。
縦割りの壁を越えた動きを作れたことで、先ほどお話ししたように延15万人を超える小中学生が湖の再生事業に関わることができました。これだけたくさんの小中学生が学習を通して主体的に関わった公共事業というのは、多分、世界でも例がないと思います。
諦めによる合意形成から新しい現実の生産へ〜生きるための政治
国土交通省は3年間(2000年〜2003年)水位管理を凍結していたのですが、その後少しずつ水位を上げ始め現在は元に戻してしまいました。やはり公共事業というのはそう簡単には変えられないということだと思いますけども、私達は、今も粘り強く国交省に見直しを求め続け、多くの人達との学習や取組みを通してこの問題の解決をめざしています。
公共事業の見直しはなかなか実現しません。結局最後は、国が決めたことだから仕方が無いという「諦めという名の合意形成」で収めようとする。あるいは、決められる政治と言いながら実際には合意を形成する力が弱く、ゴリ押しで無理やり通そうとする。これが残念ながら今の政治の流れですよね。このままでは、いつまで経っても世の中は良くならないし発展しません。諦めの合意形成を繰り返していけば、社会はニヒリズムに陥ります。この「諦めという名の合意形成」からどうやって脱却していくのか、諦めの形成に納得しない、負の連鎖から脱却しようとする意志を持った人々を育てるということが、ESDの大きなテーマになると思います。
それは、与えられた選択肢に縛られないで、諦め(マイナス思考)に足場を築かず、自分自身で物事を捉え、自分の方法で潜在する可能性を探求し問題解決法を発明して提案する力(プラス思考)を育てることです。さらに、提案を実現するために、提案への共感をどのように広げていけばいいのか、その方法を考え、それを実行する力を育む学習が重要です。つまり、地域に潜在する可能性を浮上させ、可能性を価値に転換するためのビジョンを示し、人々の共感による合意形成を実現させることで、新しい現実を生産し、問題を解決に導くこと、これが、本当の意味での政治だと思います。つまり、それは生きるための政治です。
行政の限界を共有しない〜足元からの政治を創る
縦割りの行政機関による公共事業(問題解決型・部分最適の取り組み)に依存し続けているかぎり財政はますます逼迫し、対症療法としての増税と緊縮や削減を繰り返していくだけです。しかし、市民主導で縦割りを越えたネットワーク事業を展開し、それに行政が参加する流れを作ることができれば、行政の抱える限界を越えて、問題解決型から価値創造型への転換が社会の様々な分野で起きるでしょう。政治は可能性の芸術と云われます。私は、このような動きを社会に創るのが、本来の政治の役割だと考えます。しかし、縦割り行政の枠組みの中に収まっている調整型の政治(与えられた選択肢の中で動く政治)では、このような価値創造型への転換は望めません。政治の再生には、人々が生活の場から新しい現実の生産を行なう「生きるための政治」と「議会政治」とを、問いの共有と問いの連鎖によって直結させていく取り組みが必要です。
政治の再生を実現するために必要なのは、草の根による政治、つまり、政治参加よりもさらに一方で進んで、人々が政治の作り手となり足元から始める新しい現実の生産とそのための連帯です。そのような作り手が物語を語り合う場、それが新しい公共になります。
教育において政治をどう教えるかは大きな課題です。ESDの中でも、政治をどのように捉えていくべきか、どのように機能させていくべきかを学習することは重要だと考えます。単に、政治への関心や参加意識をひき出すだけではなくて、政治の位置付けや機能に対する主体的な意識、政治の作り手としての自覚(生きるための政治)を養うことが大事だと思います。
「答えの共有」から「問いの共有」へ〜多様性を受け入れ活かす学習
選択肢(用意された答え)にとらわれず自分の方法で考えるということは、問いの生誕地に帰還するということです。今の学校教育では問いを吟味する間も無く、すぐに答えを出す方法に向かってしまう傾向が強いと思います。とくに、受験教育がその傾向を助長しています。初めから答えの出し方や方法の習得に入ってしまい、生徒ひとりひとりの問いに対する考え方や感じ方を評価(鑑賞)し合う場(問いに応える場)がありません。極端な言い方をすれば、先生がどんな答えを期待しているかを生徒たちが常に意識して考えて動く習慣、つまり忖度を身に付ける場になっていないでしょうか。今の学校では自分で問いを建てるということをほとんど学習していません。だからでしょうか、答えの用意されていない問いと向き合うと固まって動けなくなってしまう若者によく出会います。それは、複雑な背景を持った環境問題や社会問題、あるいは人生の問題についても同様です。問いに「答える」ではなく「応える」ことができなければ、答えの用意されていない問題や課題に対して、当事者として向き合うことができません。
すぐには明確な答えを見出せない問いと根気よく向き合い、問いに応え続けていくための胆力を養うことや、問いと真摯に向き合い続ける生き方を身に付けることに、人としての成熟はあるのだと思います。今の忙し過ぎる子ども達や学生達には、そのような問いとじっくりと向き合い対話する時間が何よりも必要です。
環境問題や社会問題については多様な意見や考え方があります。そのため、意見や考え方の違いによる対立が至る所に見られます。ですから、「答えの共有」ではなく「問いの共有」から始めることが重要です。はじめに人々が「問いに応える」姿勢を共有し合うことができていれば、話し合いを重ねていく過程で、たとえ大きな壁(答えの違い)に突き当たっても、再び問いに立ち返って話し合いを続けていくことができます。答えの違いで分裂せずに皆で多様性を受け入れ柔軟に変化していくことができます。
受動的にではなく能動的に学習する意欲があれば、問題から答えを得てもそれで自足せず、答えを得たことで現れる新たな知の地平を直感できるはずです。新たな知の地平とは、そこにより深い問いを見出すということです。これが問いの連鎖です。能動的に学習するということは、自らが見い出した知の地平に向けて問いの連鎖となって生きるということです。
外れた意見を大切にする〜問いは資源
一方で、「答えの共有」で自足し人々が繋がってしまうと、繋がりを重視するあまり選択した答えや方法に固執してしまい柔軟性を失い、違いを無視したり排除したりします。これは、学習においても同じで、「それは今先生が質問したことではないでしょう」「それは今関係ないでしょう」と生徒の意見を切ってしまう教師がよくいます。しかし、そのような発言をする生徒に対しても、教師が問いに応える姿勢で「なぜ、そのように考えたの?」と問い返し、その生徒に自分の感じ方や考え方を紹介する機会を与えることで、他の生徒達からも問いに応える自由さや柔軟さが引き出され、教室の空気が一気に和らぎ発言が増えて、授業が活性化することがあります。それは、そこが「先生が求めている答え」を発表する場ではなく、「問いに触発されて自分が感じたこと」や「問いに応えようと自分の方法で考えたこと」「自分の中で動き出したこと」をそのまま発表すればいい場なのだと、生徒達が理解したからです。このような問いの共有によって知性が自由な動きを取り戻し、生徒達が触発され合い共感が生まれ広がっていけば、多数決ではなく共感によって一つの答えを見出すことも可能です。教室で、個々の人格が場として機能するネットワークが実現する。このような学習の流れをつくることが、総合学習の理想だと思います。
問いは資源です。問いは至る所に潜在しているものです。人々が共有することができる問いをどのようにして浮上させるのか。それには、まず既存のものに対する読み替えが必要です。読み替えとは、既存のものの外に潜在する可能性(別の文脈もあり得ること)を求め、既存のものを別文脈の中に置いて読み直してみることです。既存の枠組みの中でだけ可能性を求めていくと、どうしても限られた選択肢の中から答えを選ぶという形で問いを解消してしまいます。
組織やコミュニティの中で共有できる答えを見出し充足してしまえば、その外にある世界を忘れてしまい、共有した答えに対して批判的な意見を排除するようになり、変化を恐れ閉鎖的になります。だから、決して既存の枠組みの外に潜在する問いに対する感性を失ってはいけません。「答えの積み重ね」から「問いの連鎖」へと一歩を踏み出すこと、潜在するもの(外部)への開かれた感性を持ち続けていかないと、組織は社会の変化に適応できず停滞し衰退していきます。当然ですが、そこからは何も新しいものは生まれないし、変化できず危機も乗り切れない。
問いとなって動く生物の目で街や都市を読み替える〜都市を里山化する
かつて里山には、人間の生活文脈と生物の生活文脈が重なり合う空間がありました。しかし、今は多くの人が自然と人間を分けて考え、自然を外部にあるものとして見ようとします。自然は、都市の枠組みの外におかれています。しかし、それでも都市や街中ではトンボやチョウなど多くの生物を見ることができます。都市の内部にはかつての里山が潜在しているからです。生き物(他者)になって、都市空間を読み直していくことで、人間と生き物の生活文脈が重なり合い空間を共にする里山的な空間を都市や街に創り出していくことができないか。生き物の文脈を都市空間に浸透させ都市の壁(人と自然を分ける壁)を溶かし、都市を変容させていく「都市の里山化」を、東京都内の街づくりで提案しています(原宿表参道2013 水と緑が協生するまちづくり 商店街振興組合原宿表参道欅会)。
都市や街中で見つけた生き物たちは、何処から来て何処に行くのか、どのようにして移動するのか。このように生き物たちはそれぞれが問いであり、場所から場所へと移動していくことで都市や街に問いの連鎖を与えています。都市は、そのような問いが際だつ空間です。都市の里山化とは、生物の住処をビオトープや保護区、自然公園などの場所を(閉じた場=答え)として捉えて完結させず、生き物たちが新たな地平を見出すための開かれた場として、そこから何処へどのように移動することができるのかという問いが発せられる場として捉え直すこと、つまり、答え(場所)の積み重ねではなく、生き物たちが発する問いの連鎖を追いながら、都市空間に潜在する里山の文脈(都市に残る里山時代の地形連鎖や環境要素)を浮上させていくことを意味します。都市緑化は量(答えの積み重ね)で評価しますが、都市の里山化は緑の文脈化(問いの連鎖)という質(対話の質)で評価します。それは、生き物達の問いの連鎖で都市を被っていく取り組みです。里山化は数値化ではなく、対話(問いに応える姿勢)によって生じる質(空間の文脈化)の変化を評価するものです。
私達の事業や学習では、まず始めに生き物とお話する方法を学び、次に生き物(他者)の目になって都市や街の空間を見直していきます。見直しとは、人間とは別の生き物の生活文脈で空間を読み直すということです。生き物の目になって、読み直しや読み替えを行うと、自分達には見えていなかった繋がりや分断が見えてきます。いままで見えていなかった多様な文脈が日常空間に潜在していることに気付くことができます。生き物達は、種類ごとにそれぞれの文脈で様々な環境要素を結び付け組み合わせ、空間を利用し移動しながら生きていることが理解できます。生き物を通した空間の読み直しや読み替えは、都市や街の空間を様々な生活文脈で読み直し読み替える力を養うことになり、その力は福祉や観光や防災などにも生かすことができます。
このような学習を通して、子ども達は日常見慣れた空間に様々な生き物の文脈が潜在していることを知り、そして様々な生き物の目になって空間を読み替えることが可能であることを理解します。そして、他者の目での読み直し読み替えによって新しい文脈を得ることによって、問題を読み替えにより得た文脈の中で捉え直し地域の様々な繋がりを活かして資源化する方法へと学習を発展させていきます。
アサザ基金では、このような学習を毎年延べ約1万人の小中学生や幼保育園児と行ってきました。これまで、北は北海道から南は沖縄まで、340校以上で実施してきました。
学校にいる生き物は何処から来たのか〜身近な空間から読み直していく
どこの地域でも、まず一番身近な学校の校庭に来ている生き物たちとお話ができるようになろうという学習から始まります。先ほどお話ししたように、霞ヶ浦流域の場合に100を超える学校にビオトープを造りましたが、それぞれのビオトープにいろんな生き物が移動して来て生息するようになりました。子ども達は学校に居ながらにして、学校の周辺にどんな環境があるかを生き物から教えてもらえるようになったんですね。例えば、森に生息するカエル、水草のある水辺に生息するトンボ、田んぼに生息する水生昆虫など。そして、学校が周辺の様々な環境と生き物たちの道によって繋がっていることに気づくことができます。
それから、学校に繋がっている生き物たちの道は、地球を覆う大きなネットワークの一部であることを学びます。地球上は様々な生き物の道で覆われていることに気付きます。国境を越えた空間の読み直し読み替えです。そして、それぞれの生き物の移動距離はどのくらいか、どのくらいの範囲から学校にやって来たのかを考えてみます。例えば、カエルが500メートルくらいの範囲とからと想定して、これは学校周辺。イトトンボが2キロメートルくらいの範囲、これは子ども達の通学圏内つまり徒歩圏。ギンヤンマは4キロメートル以上、これはみんなの町や市の範囲。アサザプロジェクトで目標にしているトキの移動範囲は霞ヶ浦流域、これは、流域の小中学校のネットワークでカバーできる。コウノトリの移動範囲は関東平野の小中学校のネットワークでカバーできる。渡り鳥だったら中継地間を結び、東アジアやオセアニア、ロシアの小学校とのネットワークができればカバーできる。自分の足元から地球レベルまで、国境などの境界線に関わらず連続して広がっていく生き物たちの道、様々な文脈による空間の読み替えで、地域に潜在していた繋がりを浮上させていく学習へと展開していきます。
授業では、学校のビオトープに来た生き物の生態(体のつくり、暮らし、すみか)を調べ、それぞれの生き物はどこから来たのかを調べるために校外に出て、実際に生き物を見つけた場所を地図にプロットしていきます。すると、次第に生き物たちの道が見えてきます。学校周辺に林や草原、池や水田などが連続した環境があることが分かり、生き物が使う道の条件が見えてくると、今度は、生息地の分断などの問題も見えてきます。地図や衛星画像を見ながら林や水田などが荒れてしまい生き物が使い難くなった場所や生き物の道が分断されている状況にも気付くようになります。
小学生による公共事業が始まる。
この小学校(牛久市)の横には細長い谷があって、かつては谷間に谷津田という水田があったのですが、耕作放棄されてセイタカアワダチソウなどが繁茂する荒地になっていることに、子ども達が気付きました。この谷は霞ヶ浦水系の一部です。今は、荒地になっていますが、学校が利用している雑木林に接していて、まだ湧き水も残っています。当時(2005年)の4年生が、授業で地元のお年寄りに聞き取りをしたら、昔田んぼだった頃には、ウナギが採れたり蛍がたくさん見られたことがわかりました。
子ども達からは今も残っている湧き水を使って田んぼや池を作れば、昔いた生き物達が戻って来て霞ヶ浦と町を結ぶ生き物の道が復活するんじゃないかという思いが湧き上がってきました。子ども達は現地の調査をして計画づくりを始め、市役所の担当者を学校に呼んで話し合いをしました。
その後も現地調査を重ね、田んぼや池や小川を復元する計画をつくって、他の学年や地域の大人を呼んで説明会を開きました。環境班と福祉班と歴史班に分かれ調査と話し合いを重ね、3学期に市長を呼んで谷津田再生計画の提案をしました。そこは、市の土地だったので、市長は、「じゃあみんなでやってみてください」と言ってくれました。子ども達は大喜びでした。
さて、5年生になって、市役所や大人達が何かやってくれるのかなと思ったら、何もやってくれない。自分たちの提案を世の中で実現するまでに必要なことを学習することになりました。市役所に提出する図面つくるために測量をしました。地域の自治会に説明をして、環境アセスメントを行い、自然班と歴史班、福祉班それぞれが意見を出し合い何度も話し合いをして計画をまとめました。そして、3学期になってようやく地域の大人にも協力してもらって工事に入り田んぼや池や小川を復元することができました。2007年の完成から後輩に引き継がれて、現在も完全無農薬の米づくりが続けています。
完成後は毎年4年生が谷津田の現状を調べて、問題があれば改善していくという学習が継続しています。これは小学生による公共事業。大人の公共事業はつくりっ放しですが、小学生はモニタリングを継続して改善していく、これが理想的な公共事業ですね。
「問いの連鎖」が学習を発展させ深化させる。
問いの連鎖とは、得られた答えから新たな知の地平が開かれることで新たな問いに出会う、その反復によって知性を深化させていく営みです。地域や社会の問題についても、問いの連鎖を通して向き合う姿勢が大切です。
小学生が再生した谷津田には、メダカやオタマジャクシなどの生き物がすごい勢いで増えたのですが、数年後に、この谷の上流側に団地ができてから都市型の洪水が起きるようになったんです。豪雨があると洪水が谷津田を襲うようになって、メダカやオタマジャクシや水草やみんなで田植えした稲もなどが流されてしまいました。
そこで、子ども達は上流の団地に行って洪水対策の学習を始めました。この学習の中で、ひとつの問いが生まれました。雨水はゴミなのか?団地や市街地では、雨水はすぐに側溝に流されゴミのように扱われていることに、子ども達が気付いたからです。昔は、土地に降った雨水はどうなっていたのかを調べ、目標にしていたホタルが森や土や地下水の繋がりによって生まれていた谷津田の湧水に支えられ生息していたことに気付きました。
「雨水は元々ゴミではなかった。」ホタルをどこかから連れて来て放すのではなく、団地の雨水を地下に浸透させ谷津田の湧水を増やしてホタルを呼び戻そうという提案に発展しました。雨水対策の方法として、雨水浸透ますという方法があることを知り、まず校内に作って実験してみることにしました。また、雨水タンクも校舎に設置しました。それらに効果があることを確認すると、団地のどこに重点的に設置したらいいかということを調べてまとめ、市長に提案をしました。
さらに、学区内にある四つの自治会の会長に学校に来てもらって話し合いを何度もしました。地域の合意を得て、三学期に団地内の公園に雨水浸透ますの設置をしました。自治会館には雨水タンクと浸透ますを設置をしました。この設置が契機になって、牛久市では、雨水浸透ますや雨水タンクの設置に補助金を出す条例が制定されました。
これは小学校の近くを流れる三面コンクリートの川を調べ、昔ウナギやナマズがいたような川に戻したいという提案を市に行い、市の職員と小学生が話し合いを重ねて、市によってコンクリートが撤去され土の川に戻された例です。後輩の小学生が、コンクリートを撤去した効果を調べる学習を行っています。ここからもさらに新たな問いが見出されていくことでしょう。
全国に広がる「地域が発する問いに応える学習」
このような取り組みや提案について、小中学生が市長や市民と話し合い共有し合う場が、年に一度あります。これ(牛久市河童大交流会)は私どもの事務所がある牛久市の教育委員会と協働で、2004年から行っている市内の全小中学校13校によるまちづくりの提案発表会です。ここでは、各学校からまちづくりの提案書が市長に手渡され、実現可能なものについては市が実施する形になっています。牛久市の小中学校では、生徒達が行うまちづくり学習にアドバイスが必要なときには、市の各担当課が対応することになっています。牛久市のまちづくりの学習をモデルに、私達は三重県の過疎地域や沖縄本島、宮古島、秋田県、北九州市、南三陸町、岡山県、東京都内など全国各地で、出前授業を行ってきました。
「地域が発する問いに応える学習」をとおして、それぞれの地域の子ども達や若者たちが自分たちの地域に広がる問いの連鎖に目覚めていくことが、地元への愛着や郷土愛に繋がると考えます。人は地域に広がる問いの連鎖の中に入ることで、地域にファンタジーを感じて生きられるようになるからです。
地域に新たな価値を創造して荒廃した水源地を再生する〜企業との協働
先程まちづくり学習で谷津田というキーワードが出たので、霞ヶ浦の流域での取り組みを詳しくお話しします。霞ヶ浦の流域には谷津田という浅く細い長い谷が樹枝状に広がっています。広大な流域にほぼ満遍なくネットワーク状に分布していて、1000本以上あると言われています。今その谷津田の大半が耕作放棄地になっています。特に水源地や生物の生息地として重要な谷津田の先端部の荒廃が特に進んでいます。それらの谷津田には周りの森から水が湧いて、谷を流れ下って河川に合流して霞ヶ浦に流れ込んでいます。霞ヶ浦には大型の流入河川が一本もありません。ですから、これら1000本以上谷津田が霞ヶ浦の重要な水源になっているわけです。今その多くが耕作放棄地になっていて、ひどい場合には産業廃棄物が投棄されたり埋め立てられています。
これは大変大きな問題ですが、国や県といった行政にも手が付けられない状況が続いています。谷津田は、流域全体に分散していて一か所に集中していませんし、それらは民有地だからです。選択と集中といった発想では対応できません。
そこで私たちは、企業や地場産業や地域住民、学校など、多様な人々とタッグを組み、一度価値が失われ荒廃してしまった水源地谷津田に、新たな価値を創造することで環境を再生させていこうという取り組みを、2004年から開始しました。今は、荒廃した水田と畑地を8つの企業と、地元の農家や地場産業、3社の酒造メーカー、醤油メーカーなどに参加してもらい広範囲に進めています。
再生プロジェクトは問いの共有から始まる。
これらのプロジェクトも、「問いの共有」から始めています。例えば、取り組みに最初に参画してくれたNECでは、まず社員ボランティアの皆さんに耕作放棄され谷津田が荒れている状況を見てもらいました。現地に連れて行くと、ほとんどの人が「農薬も撒いてないし田んぼの時より自然でいいんじゃないですか」と言っていました。でも、実際に耕作放棄された谷津田の中を歩きながら調べてもらうと、カエルやトンボ、メダカなどの生物がほとんど居ないことに気付きました。なぜ、生物があまり居なくなってしまったのか、小中学生と同じように「生き物とお話しする方法」を学習して生物の目になって、田んぼが藪化して水面が見えなくなったことや空間が単純化したことなどを理解してもらい、みんなで谷津田の再生計画づくりをしました。NECでは、霞ヶ浦の水源地である長さ1km以上ある荒れた谷津田を再生してトキを呼ぶプロジェクトを行っています。
親子連れの参加者が多いのが特徴です。これまでに、社員と家族が延1万人も参加してくれました。実際に再生できたらどんな変化があるのか、どんな生き物が戻って来るのか予測をして、再生作業に入ります。荒れ地を田んぼに戻したらどんな効果があるのか調べていきます。まず耕作放棄地の草を刈る、抜根をする。なかなか大変な作業ですが、参加者も多く、みなさん夢中になってやってくれるのでどんどん作業が進みます。このようにして、年々耕作放棄地を水田に戻していきます。これは、結構たいへんだし地味な作業なので、NECの担当者も最初は参加者が少なかったらどうしようかと心配されていたのですが、蓋を開けてみたらびっくり、毎回参加の申し込みが多くキャンセル待ちがでるほどでした。
とにかく1キロメートル以上の谷津田が荒れた状態ですから、何年かやって人力での再生にも限界が見えてきました、しかし、谷津田は泥深くて機械を入れることは困難です。どうしたものかと考え、いろいろと調べてみたら、踏み耕という大昔の農法があることを知りました。今でも沖縄やマレー半島に残っている農法で、牛や水牛に水田を踏ませて耕す農法です。牛や水牛は居ないけど、たくさんのボランティアが来てくれるので、たくさんの人の足で踏んだら相当効果があるんじゃないかと考え、それで、やってみたら、結構うまくいったんです。(笑)草を踏み倒して、その上を何度も繰り返し踏んでもらっていたら、だんだん泥で表面が覆われて田んぼらしくなっていったんです。そうやって田んぼに戻した場所に、田植えをしたら秋にはちゃんと米が実り収穫できました。この踏み耕は大人気で、参加者は自力で耕作放棄地の藪がどんどん田んぼ状になっていくのが楽しく、達成感もあるそうです。日本中の耕作放棄地も、こうやってたくさんのボランティアに参加してもらい踏み耕で再生していけば、環境再生にもなるし健康促進にもなります。運動不足やメタボっぽい人達に来てもらって、踏み耕を楽しんでもらってはどうでしょうか。(笑)
流域全体を視野に入れたビジネスモデルの展開〜価値を創造することで取り組みを広げる
NECの他にも7社の企業に、霞ヶ浦の水源地谷津田再生プロジェクトに参画をしてもらい、参加者は延べ2万人を超えています。東京方面からの参加者が多く、地元の方々との交流も進んでいます。完全無農薬でつくったお米はほとんどがお酒になります。現在、地元の三つの酒造メーカーで醸造しています。
水源地で酒用の米を栽培しようと考えた最初の理由は、酒米は肥料を多くやらないほうがいいので、富栄養化した河川や湖沼からの農業用水を使うよりも、湧水の豊富な谷津田で栽培した方が良い米が穫れると聞いていたからです。そこで、一般に栽培条件が不利な谷津田でも、逆に有利となる酒米を作ることにしました。私達の谷津田では、化学肥料は全く使いませんし、原則無肥料で栽培しますから、湖の水質改善にもつながります。
この取り組みが知られるようになり、様々な企業から一緒に取り組みたいという声をかけてもらうようになりました。これは牛久沼の水源地の大きな谷津田です。三井物産と協働で再生プロジェクトやっている場所です。この谷津田の中では、損保ジャパン日本興亜環境財団、鈴与グループ、一橋大学、パルコ、千葉大学と茨城大学の学生、地元の中学校常総生協などが、連携して再生に取り組んでいます。後で紹介する私達が今年立ち上げた株式会社「新しい風さとやま」がさらに多くの耕作放棄地を再生して無農薬栽培にすることで、ひとつの谷津田水系を丸ごと保全していく計画です。
これは牛久市内にある霞ヶ浦の流域の谷津田で、ホギメディカルという会社の工場の横にあるのですが、耕作放棄地から水田に戻して無農薬栽培で米を作り、酒造りにも取り組んでもらっています。
これは北浦(霞ヶ浦の一部)での取り組みです。UBS証券というスイスに本社のある会社と地元住民の方々に恊働してもらい、北浦の水源地である大きな谷津田の再生に取り組んでいます。この谷津田は1300年前に編纂された常陸国風土記にも記載された由緒ある場所で、鹿島神宮ゆかりの地でもあります。照葉樹林に囲まれた谷津田の風景は荘厳です。将来は、この谷津田を鹿島神宮とともに世界遺産に登録できればと願っています。
筑波山麓では日立化成(現昭和電工マテリアルズ)と恊働で谷津田の再生を行っています。
水源地再生と地場産業のネットワークと重ね合わせる
これらの企業と酒造メーカーに参画してもらい、谷津田再生と同時にたくさんの霞ヶ浦再生ブランドの地酒が生まれました。今は3社の酒造メーカーと組んでいますが、霞ヶ浦流域の各地にはまだ多くの酒造メーカーがあります、そして、それらの酒造メーカーのある地域には必ず谷津田があります。酒造メーカーのネットワークと谷津田再生のネットワークが重なり合えば、霞ヶ浦流域ブランドの地酒が生まれ、流域全体で水源地谷津田の再生が展開されて、霞ヶ浦の水質保全と生物多様性保全が大きく進展することになります。谷津田のネットワークはトキの一大生息地になるでしょう。縦割りの行政が何十億かけてもできないことを、多様な人々の協働によるビジネスモデルを展開することで実現させることができます。税金を使わないで大きな社会的課題を解決できて、おまけに税収(酒税)が上がります(笑)。私達のこの地酒作りの取り組みは、第1回生物多様性アワード(環境省・イオン)のグランプリを頂きました。
行政が行っている縦割りで個別的問題解決型の取り組みではこのような動きや効果は生み出せないでしょう。必要なのは、行政依存から脱却すること。問題解決型から価値創造型への発想の転換です。このように価値創造をとおして新しい現実を生産していかないと、今ある多くの社会的課題の解決は望めません。
地場産業との協働は、新しい発想や取り組みを地域に根ざしたものにしていく上で重要です。これは、元禄元年創業の柴沼醤油と日立化成との協働で実施したものです。流域の耕作放棄との畑を再生し無農薬で大豆を栽培し、麦の栽培には霞ヶ浦の外来魚を肥料にして栽培するといった流れで、社員も参加して「湖が喜ぶ醤油」をつくるプロジェクトです。いろいろな人達に関わってもらいました。霞ヶ浦の上流にあるJAやさと、下流の霞ヶ浦の漁協、醤油のネーミングやデザインは、地元の小学生が総合学習で行いました。
新会社「新しい風さとやま」を設立
このように水源地の再生事業を幅広くやってきましたが、霞ヶ浦の流域は広大で、まだ、流域全体には効果を波及させていくことができていません。これまで企業の社会貢献CSR活動などで再生活動を実施した谷津田は10本以上。再生面積は約10ヘクタール。10ヘクタールだと農家としては大きい方ですが。私達は、これから200ヘクタール以上にしたいと思っています。
事業対象地は水源地(谷津田)の耕作放棄地で流域に広く分散していますから、選択と集中といった従来型の発想を全く受け付けません。そもそも、谷津田がある里山は、選択と集中、部分最適化、縦割り専門分化といった発想とは、真逆な世界ですよね。その里山の自然や文化から生まれる新しいビジネスモデル、自然のネットワークと重なり合うようなビジネスモデルをつくることができれば、社会を大きく変えていくことができるのではないでしょうか。
私達は、近代化の文脈である選択と集中から外れた新しい文脈を持つことで、それまでは見出せなかった既存の枠組みの外に潜在する多様な価値や意味が社会にあることに気づくことができます。社会のイノベーションは技術革新だけではなく、分散していることで資源化価値化できなかったものから価値を浮上させる発想の中にこそ眠っています。選択と集中から有機的分散へのパラダイム転換。そのような理念を持って立ち上げたのが株式会社「新しい風さとやま」です。2016年1月に設立して、すぐに耕作放棄地の再生を開始し、田植えをして無事に収穫することもできました。これから、年々事業規模を拡大していく計画です。
問題を問題系として捉え直し資源化する。
これからは、問題を資源化するという発想が重要です。地域や社会の中では、問題や課題は単独で存在していません。問題というのは問題系問題群として存在しています。出来事は原因と結果の複雑な連鎖の中で起きるわけです。個々の問題を単体ではなく問題系として捉え直すことで、これまで見えなかった文脈が浮き上がってくるわけです。その文脈は負の連鎖がつくる文脈ではあるけど、地域や社会に潜在する繋がりを教えてくれるネガフィルムのようなものです。問題と問題の繋がりも見えてきます。
負の連鎖がつくる文脈を反転させることができれば、価値を生み出すポジティブな文脈に読みかえていくことができます。それが問題の資源化です。でも、それは、領域知や専門知による部分最適化の発想ではできません。総合知や実践知あるいは生活知によって、地域の全体最適化や全体的な効果を引き出すような発想が必要になります。ここでも、答えの積み重ねから問いの連鎖への転換が求められます。
私がまず問題の資源化の例としてあげたいのは、霞ヶ浦で問題になっている外来魚です。外来魚の増加は、湖の生物多様性や漁業に大きな影響を及ぼしています。私達は、この外来魚を霞ヶ浦のふたつの漁協に獲ってもらっています。それを買い上げて、工場で魚粉にします。その魚粉を流域のJAやエコファーマーの認定農家さんに使ってもらいます。そこで取れた野菜を流域の大手スーパーで販売してもらいます。この野菜が売れれば売れるほど外来魚は減っていくという仕組みになっています。
外来魚は食物連鎖を通して湖の中の栄養分(リンや窒素など)を体に蓄えます。その外来魚を漁獲して肥料(魚粉)として湖から取り出すことができれば水質浄化にもつながるわけです。この事業を発展させていけば、外来魚対策を通して湖のリンや窒素をどんどん取り出していく流れが生まれるわけです。これは、外来魚問題と水質汚濁や流入負荷(農業)などを結び付けることによって実現した「問題の資源化によるビジネスモデル」です。
新たな価値を創造して社会を変えるコンテキストブランドづくり
これは、この外来魚問題の資源化によって生まれた農産物「湖が喜ぶ野菜たち」を流域のスーパーで販売している様子です。このようなビジネスモデルは、社会に広く自然や生物多様性を価値として浸透させる上で、もっとも効果的な戦略だと考えています。人々が価値を共に創造し共有することで社会は変わります。多くの人たちが生物多様性や自然や里山といった価値を理解し共有できるようにするためには、それらの価値がビルトインされたモノやコトを生産して共感の輪を広げていくことが必要です。価値というのは啓蒙ではなく、いま人々が求めているもの(期待を込めた問い)に応えフィットさせていくことで浸透していくものです。
私は、だから規制や制限に基づく問題解決型の自然保護には限界があると考えています。価値創造的な営みがないと自然保護や環境保全も発展しないと思います。それらを発展させるには、専門領域には安住せずに動き、多様な問題を結び付けて資源化し、社会に新たな文脈を創る価値創造的な発想ができる人材を育成していくことが必要です。
そのような課題意識を持って、小中学校では地域ブランドづくりの学習をやっています。ここでは、コンテンツブランドではなくて、コンテキストブランド、つまり地域の文脈や物語から生まれるブランドの創出を目標に、生徒たちに問題解決型から価値創造型への発想転換を促す学習を行っています。
コンテキストブランド作りは学校の中だけではなく、地域の多様な人々と一緒にやります。小中学生も大人も、いろんな地場産業に関わっている人たちや企業の人たち、行政の人たち等が繋がることによって生まれる大きな文脈から地域に根ざした新しい価値が浮上して来ることを学びます。地域の多様な人々と価値創造の場を共有する体験を通して生まれてきたモノやコト、これは強いですよね。他にはない強い力を持つ。こういう地域ブランドづくりの学習を、学校を起点に全国各地でやっています。
社会に多面的な効果を生み出すコンテキストブランドを表現し伝えていくための学習
これは中学生の総合学習をとおしたコンテキストブランドづくりの例です。ここでも地域の多様な問題を結び付けて価値へと転換していきました。キヤノンマーケティングジャパンと協働で耕作放棄地の畑を再生して、ヒマワリや菜種を栽培して、肥料は先ほどお話しした霞ヶ浦の外来魚を使います。収穫して油を搾ります。その油で、煎餅を作りますが、原料の餅米は損保ジャパン環境財団のラーニング生(首都圏の大学生たち)が谷津田を再生して無農薬でつくった水源地の餅米を使います。そして、中には密漁しない漁師さんから買った川エビを入れます。加工作業の一部は福祉作業所に仕事として出します。煎餅を揚げ終わった油はバイオディーゼル燃料に転換して、地元のコミュニティバスの燃料に使うというプロジェクトを実施しました。
このプロジェクトを発展させるために、より多くの人達に、この煎餅はこのような繋がりや文脈、物語から生まれたものですよと伝えるにはどうしたらいいのかを、中学一年生が学年全体で考えました。なかなか難しい課題ですよね。まちづくりや環境の課題抽出から始まり、実際に現地で活動をして関係者から話を聞き、マーケティングやブランディングの学習して、デザイン等について何度もプレゼンや話し合いを重ねて、ひとつの製品に仕上げていきました。
人間に問い掛ける動く線〜霞ヶ浦は日本一の天然ウナギ産地だった
私達が目標にしている一番大きなコンテキストブランドはウナギです。霞ヶ浦のウナギの復活は、大きな目標です。霞ヶ浦はかつて日本最大の天然ウナギ産地でした。ウナギは、海と川、湖、里山を結ぶ、水を通した大きな繋がりを教えてくれる存在(動く線)です。霞ヶ浦のウナギは、太平洋から利根川、霞ヶ浦の入り口のある常陸利根川を通ってやって来ます。このウナギの復活が実現できたら、霞ヶ浦の再生は大きく前進するはずです。
さて、ウナギの復活に向けてどうするか、ここでも小中学校の総合学習から始まります。ウナギは昔の霞ヶ浦や流域のどこに生息したのか、各地域で子ども達に漁師や住民から聞き取り調査をしてもらいました。
すると、ウナギを採ったという情報は、意外にも湖より流域に多いことが分かりました。ウナギを採ったり見たという情報が最も多かったのは、谷津田の中を流れる小川やため池でした。なぜ、霞ヶ浦が日本一の天然ウナギ産地だったのか、その理由も調査結果から見えてきました。先程お話ししたように、霞ヶ浦流域全体を覆うように1000本以上の谷津田があります。谷津田は水系の末端部に、里山の中にあります。つまり、広大な流域全体に広くて分布する里山の田んぼや小川や池がウナギの棲家になっていたわけです。ウナギは里山の谷津田等で7年間から10年間過ごしてから海に下っていくと考えられます。霞ヶ浦の面積の10倍もある流域全体が、ウナギの大生息地になっていたのです。
ただ今は流域の谷津田や里山でウナギを見ることはほとんど無くなりました。ウナギが減った一番の原因は、常陸川水門(逆水門)の閉鎖であると考えられています。霞ヶ浦と海の間を魚など生物が移動する出入り口は、常陸利根川と利根川が合流する一ヶ所しかありません。1970年代にこの場所に逆水門が造られ、完全閉鎖されて以降に、ウナギが激減したのです。1960年代には、霞ヶ浦と利根川の合流する下流部では全国のシラスウナギの67%が捕獲されていました。ところが、逆水門が閉鎖された後は激減しました。
逆水門のウナギへの影響は、子ども達による聞き取りやのアンケート調査の結果にも表れています。ウナギが減ったのはいつ頃ですかという質問に、住民の6割以上が漁師のほぼ全員が逆水門の閉鎖以降と答えています。県が調査した実際のデータと見てみると、逆水門ができて閉鎖されてから、一気にウナギだけではなく他の魚種も激減しています。湖と海の繋がりを遮断された影響は非常に大きかったことが分かります。
この逆水門の問題を解決して、湖と流域をウナギの文脈できめ細かく読み直し、霞ヶ浦を再びウナギが生息できる環境に戻していくことは、日本全体でのウナギ復活にも繋がります。
動く線=ウナギの文脈で社会を読み替えて問題群を資源化するための政策
逆水門は操作規則に基づいて1970年代以降完全閉鎖(海からの逆流、上げ潮を一切入れない管理)されていますが、私達はこれを時代の変化や問題解決に合わせて見直し柔軟に運用してはどうかという提案を、1997年から行ってきました。まだ、実現はしていませんが、流域の複数の市議会が私達の提案を採択したり、国会でも議論されたりして、少しずつ前に進めています。
シラスウナギは上げ潮に乗って利根川から霞ヶ浦に入って来るのですが、今は逆水門が閉鎖され湖に入れなくなっています。けれども、この逆水門をシラスウナギが遡上する時期(水田に灌漑しない時期)に柔軟に開け閉めすれば、シラスウナギを湖に入れることができます。ところが、構造的な問題があります。逆水門のすぐ上流側(湖側)に農水省の取水施設があって、逆水門を少し開けただけでも塩分が含まれた用水が農業施設に送られ塩害を生じてしまう恐れがあるのです(図 )。
この逆水門の近くには、もうひとつの問題があります。工業用水の水余りです。霞ヶ浦から取水している工業用水が大量(日量35万トン)に余っていて、鹿島コンビナートの企業の大きな負担になっている問題です。問題の工業用水は霞ヶ浦の上流で取水して地下のパイプラインで下流の逆水門周辺にあるコンビナートの地帯に水を送っています。つまり、二つの問題が隣接しているのです。
実際に調査したら、二つの問題が現実に隣接している現場が見つかりました。問題の農業用水路と工業用水路(パイプライン)は、同じ国道に沿って敷設されていることがわかったのです。もし、この二つの用水路を国道の下で繋げば、余った工業用水を農業用水路に送ることができます。上流で取水した水を農業施設に送ることができれば、現在の逆水門のすぐ近くで行っている取水を止めて上流の方からの取水に変えることができます。農業団体は、上流の汚濁の少ない水を取水でき、ポンプを使わなくなるので電気代も削減できます。
問題の資源化によって見込まれる多面的効果
この提案が実現すると、逆水門の柔軟な運用が可能になり、シラスウナギなどが海から湖に入りやすくなります。提案が実現したらどのような効果があるかを、2004年に当時のUFJ総研が、その経済効果について試算をしてくれました。年間で最大193億円の漁業者利益増が見込めるということです。ほとんど何も造らないで、縦割りの壁を越えて問題と問題を新しい文脈で繋ぎ資源化するだけで、これだけの効果が期待できるのです。これは、かつて田中正造が言った「治水は造るものに非ず」という言葉にも通じるものと思います。
漁業が復興するということは、単に経済効果だけではなく、先に外来魚の魚粉化で説明したように富栄養化した霞ヶ浦の水質改善にも繋がります。湖にはこれまで流れ込んできた燐や窒素などの富栄養化原因物質がずっと貯まっています。だから、流入負荷を減らしても、なかなか水質改善が進まない。逆水門の柔軟運用で漁業が復興すれば、漁獲による窒素やリンの効率的な回収(系外へのアウトプット)の流れが生まれ、水質改善を効率良く効果的に進めていくことが期待できます。
逆水門の柔軟運用により増える漁獲高の予測に基づき、魚体を通して湖内から回収される窒素とリンの量を計算しますと、おおよそ窒素が310トン、燐が62トンぐらいになります。これを、同じように湖底に貯まったヘドロを通して窒素とリンを回収する国交省が行って霞ヶ浦の底泥浚渫事業(水質改善事業)と比較しますと、こちらは年に約95億円かけて窒素が43.8トン、リンが4.5トン回収されるという計算になります。
逆水門の柔軟運用ではほとんど費用がかからず、さらに国交省の事業の数倍の浄化機能が発揮された上に、193億円の経済効果があって、湖だけではなく周辺の農業や工業が抱える問題も同時に解決できます。観光などへの波及効果も期待できます。一石何鳥もの効果が生まれる取り組みになるはずです。どっちがお得かわかりますよね。(笑)
問題解決型から価値創造型への発想転換を実現させるためのネットワーク
発想を柔軟に変えることができれば、私達の地域や社会には無尽蔵と言っていいくらいの価値や可能性が潜在していることに気付くことができます。国や地方の財政問題などを見ても、私達の社会が従来の問題解決型から価値創造型への転換を必要としていることは明らかです。その時に、重要な機能を果たすことになるのが、離れた器官と器官を結び付けて新たな機能(価値や意味)を生み出し、体全体を活性化(全体最適化)するホルモンや情報伝達物質のような役割をするNPOなどの組織だと考えます。そのようなNPOは、先に述べたように、行政の補完機能(下請け)ではなく行政参加を促す価値創造のネットワーク(動的なネットワーク)を展開する主体でなければなりません。
行政主導による部分最適縦割り専門分化した従来からの方法(問題解決型=答えの共有)と、生活者の自由な発想で社会に新たな文脈をつくり問題を資源化して価値を創造し続ける方法(問いの連鎖)との、つまり問題解決型と価値創造型との違いは明らかです。社会には環境問題をはじめとして困難な問題や課題が数多くあります。それらはどれも一筋縄ではいかないし、従来の発想では歯が立ちません。発想の大胆な転換が必要です。わたしたちの未来は、問題解決型から価値創造型への転換という社会イノベーションが起きるかにかかっていると思います。そのような転換を促す機会が実は環境問題にあることに人々が気づき、問題に受動的にではなく主体的能動的に取り組むことができるでしょうか。そのために、「問いに応える」姿勢と「問いの連鎖を生きる」柔軟な思考を育む学習の役割はますます重要になっていくと思います。
考える膜が社会の壁を溶かし膜に変える〜時代は変革という概念の変革を求めている
私達は社会の変革を目指しています。しかし、時代は変革という概念にも変革を求めています。20世紀はよく破壊と創造の時代といわれます。戦争と革命の時代と言われることもあります。スクラップ&ビルド。破壊➡構築➡破壊➡構築の繰り返しだったと思います。実際に、変革と言えば打破する、打開、壊す、刷新するといったキーワードが付き物です。しかし、本当に私達の創造力が発揮できるのは既存のものを破壊し尽くした後の更地なのでしょうか。そうではないと思います。私は本当の創造力は、変化し続けるものの中にこそ宿ると考えています。破壊による変革では、否定したものがいつまでもそのまま残り続けます。それが、果たして真の変革と言えるでしょうか。否定とは否定する者自身の弱さの表れです。答えを得て固まってしまい変化をする力を失った者は、自己を正当化するために相手を全面否定せざるをえなくなるからです。私は、本当の意味の変革とは、問いの連鎖の中で変容し続けることだと考えます。つまり、壊すのではなく、溶かすということです。
私は、これまで人々や社会や組織を分断している壁について述べて来ました。私はこれらの壁についても壊すという発想を持ちません。壁となっている境界は残しつつも、その境界を壁から膜に変容させる(溶かす)ことを考えてきました。
そして、境界という概念も、より創造的に捉え直したいと考えています。膜としての境界。人間は自らが境界に立ち膜として機能することで、ほんとうに考えることができ、創造的に生きることができるのではないか。「人間は考える膜である。」膜とは仕切ることで対話を生み出す距離や隔たりであるとしたら、それは多様性が生かされる社会において、創造的に生きようとする人間の在り方そのものではないでしょうか。だから、私達は創造的になればなるほど壊すことから離れ、非暴力に近づくことができるのです。
壁の時代から膜の時代への学習〜枠組みを膜に変え混沌から美を得る生き方
生の貧困化は、人が孤立化か集団化かという答えの選択に捉われた時に生じます。生の貧困は、人に怯えや威嚇や傲慢さを与えます。最近は、問いに応える作法を知らない人達がヘイトスピーチや強権的な政治手法などを繰り返し、自らの未熟さを公然と世間に見せ付けています。しかし、これからの社会では多様で分散した個を結び付けるのはイデオロギー(求心力のある答え)ではなく、問いの共有と問いの連鎖だと思います。だから、問いに応えるための作法を身につける学習がますます重要になると思います。人間や社会の成熟とは、人間が境界として意識する距離や隔たりや仕切りが壁から膜に変容することではないでしょうか。
私は先に多様性は混沌から生まれる美ではないかと述べました。その美は、仕切ることで対話を生み出す「距離」としての膜に宿るのかもしれません。世の中の様々な枠組みも、本来は膜として機能するものかもしれません。私達は枠組みを膜として機能させることで、混沌から多様性という美を得ることが可能になります。閉じることでより深く開くことができる膜という様式。それは混沌から美を生み出す枠組みが持つ神秘であり、生の在り方(様式)そのものでもあると思います。さて、人間は壁の時代から膜の時代へと、歩み出ていくことができるのでしょうか。その鍵を握るのは、教育だと思います。
私達が行なってきたアサザプロジェクトは、これからも問いの連鎖として、世の中の全ての壁を溶かし膜に変えていく取り組みとして、在り続けたいと思います。私達はこれまで様々な事業をひとつひとつ答えとして示してきましたが、それらの答えは何処も続く問いの連鎖に連なっています。このプロジェクトは全てが学習プロセスです。私達はひとつひとつの答えから開かれていく知の地平に向けて、これからも問いの連鎖を展開し続けていきたいと思います。
問いの連鎖を止めることはできません。問いの連鎖は動く線になって、竜動的な知性となって、人々の中で生き続けていきます。
※この冊子は、2016年11月29日に、アサザ基金代表理事飯島博が立教大学で行ったESD(持続可能な発展のための教育)をテーマにした講演会をもとに作成しました。