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note、始めます。

「言語化」

この、とんでもなく漠然としたテーマと日々戦っています。

私は「言語化」が苦手です。
全くできていません。

「いいアイデアは持ってるんだけど、それを上手く表現できてないんだよね~」

ってよく言われます。
その通りだと思います。

言語化能力が低すぎるが故に、
頭の中に浮かんでいる考えを忠実に、上手く口に出すことができない。

そのせいで
自分の意図とは反することを言ってしまったり、
周りの誤解を生んでしまったり、
誰かを傷つけたり、
誰かの反感を買ったり。

そんなダメな自分に嫌気がさして、
自分の考えをきちんと言語化する習慣をつけようと思ったのと、
どうせやるなら文章の方が自分の考えを上手く伝えられるかなと思って、
今回noteを始めることにしました。



私は「言語化」が苦手です。
全くできていません。

前までは、将来サッカーの指導者になろうと思っていました。
でも、やめました。

理由は明確。
私の言語化能力が極めて低いからです。

指導者は、言わずもがな「教える側」の立場です。
これはあくまで私の考えですが、
いくら専門知識があったとしても、
人の心を掴むのが下手くそな人は教える側としては失格だと思っています。

それがまさに私でした。

もしかしたら私は今後、人より優れた戦術眼を持つことになるかもしれない。
でも、今の自分のままだとそれを上手く表現できないまま終わっちゃうんじゃないかと。
それだったら絶対に大成しないなと思って、指導者を目指すことをやめました。

昔、あれほど読み漁っていた戦術の本やネット記事も、今ではほとんど見なくなっちゃったな…(笑) 


「言語化」は他人がいて初めて成り立つものです。
自分さえ良ければ、ただの自己満で良いなら「言語化」なんてする必要ありません。

なぜ「言語化」が必要なのか。
自分なりに考えてみた結果、以下の結論にたどり着きました。

それは、
周りを巻き込むためです。
周りの賛同を得るためです。
周りの感動を生むためです。
極論、人間は周りの人間がいないと生きていけないからです。

人間は所詮、自己中心的です。
自分の考えを絶対視し、それを邪魔する意見や事実を真っ向から否定しにかかります。

でも、それじゃダメなんだと、
そんなんじゃ人間は成長できないんだと、
この1年で痛感しました。

そもそも私が「言語化」ができていないと認識できたのも、周りがそう気付かせてくれたからです。


周りの人間と意見をぶつけ合うことで、今まで自分が持ち得なかった新たな知見を得ることができる。
今までとは全く異なる、物事に対する見方ができる。側面を知ることができる。

また、周りと意見をかわすことで、今まで自分が持っていた意見や考えの正当性を客観視することもできる。

支える具体的なビジョンも全く無く、不安定だった軸(=志)が、
周りとの対話を繰り返すことによって、強く、太くなる。
今までその軸の周りを固めていた古い情報や考え、偏見などが取り払われる。
そして、強く太くなった軸の周りに新たな情報が肉付けされ、軸を固める。

そうして今まで以上に強く太くなった軸こそが、
客観的に見た正当性を再確認できた自分自身の「志」であり、
それは実現への道を一歩進んだ「志」である。

そう感じています。

現在の無知で浅はかな、一見何の価値も無さそうな私の意見や考えでも、
もしかしたらダイヤモンドの原石かもしれないし、
磨き方次第ではダイヤモンドとして相応の価値が付くかもしれない。
そんな可能性がある訳です。
そんな可能性を信じて、noteを活用していこうと思っています。


文章のボリューム的に、以前書いたア式蹴球部の部員日記の続編みたいになってしまいましたが(笑)、
今後もボチボチ自分の考えを表現していくつもりです。

どうぞよろしくお願い致します。

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