過去を振り返る

 
今日は旦那が残業かつ懇親会のため、夜遅くまで帰ってこない。なので、私は暇を持て余すので、こうしてまた筆を執った。
 この文章を書き始めるにあたって、前回の書き物を読み返した。書きっぷりや良し悪しは別にして、ほんの一ヶ月前のことだが忘れていたことが多く、書き残して良かったと思った。そして一ヶ月前の体調の悪さに驚き、現在ほとんど回復した状態に感謝した。
 前回は、まともな生活がままならない状態だったが、現在では家事が毎日できるまでに回復した。旦那も安心して会社に出社し、飲み会まで行くことができる。本当によく回復した。病院でも入院の必要がなくなったと医者から言われ、薬は飲んでいるが、今は家事をこなした上に誇張ではなく、好きなこともできるようになった。
 こうして回復したが、まだ安心はできない。前回仕事に復帰する直前はこのくらい元気だったのだ。一人日帰り旅行ができるほどだったのに仕事に復帰した途端、体調をみるみるうちに崩していったのである。だからこの回復した状態に調子に乗って、仕事辞めなくても良かったかな、とか、新しく仕事始めてみるか、などと思いはするが、それは大間違いなのである。
 入院を勧められていたのが二月初旬で、平均の入院期間が三ヶ月と聞いた。そのため家族で五月までは自宅療養期間、何も考えずにとにかく回復に努める期間にする、と話し合った。なので、後二ヶ月くらいは、おとなしく療養をしようと思う。
 ただ、生き急ぐことに定評のある私なので、次の仕事を考えてしまう。だが、その前に自分の職歴を見直した。社会人になってからだけでなく、学生時代のアルバイトも含めてだ。そうして思い出した。アルバイトは二つしたことがあるのだが、その両方ともメンタルの不良で辞めていたのだった。今回辞める仕事も含めると、計三回メンタルの不良で仕事を辞めているのだ。前回の書きもので仕事ができないわけではない、会社勤めを諦められないと書いたが、この事実に気づいて慌てて認識を改めた。これでは仕事勤めは厳しい。
 誰かから聞いたことなのだが、仕事というのは、一回百点を取るだけでは駄目で、コンスタントに八十点を取り続けなければならない、続けていくことに意味があるのだそうだ。そう考えると、続けることができない私は仕事に向いていないのである。また性懲りもなく会社に入って失敗する前に気が付けて良かった。再度誰か、どこかの会社に迷惑をかける前でよかった。
 そうはいっても収入は欲しい。大学時代、アルバイトもしたがほとんど続かず、奨学金五万と実家からの仕送り一万の計六万でひと月生活していたので(のちに気づいたのだが、これは生活保護よりも低い。他にも実家の援助は受けていたものの、よく頑張っていた)、社会人になってお金を稼いで自由に使える、というのが楽しくて仕方がなかった。そういった楽しみを覚えてしまった。
 少ないお金の中でやりくりするのも、やりがいがあり、大学の研究室にいる手伝いのおばさんに昨日の火曜市は鰊が安くて~などと話もするのも楽しかった。だが、お金はあるに越したことはない。今は大学時代よりも欲しいものがたくさんある。人生設計で必要になってくるお金もある。大学時代は日中学業で忙しく、夜しか働けずそれが無理で短期間しか続かなかったアルバイト。まあ、今回の退職で日中働くのも難しい時があると気付いてしまったのだが、日中使える時間があるので、それを会社勤め、アルバイト以外の方法でお金を稼ぐために使いたい。

 先日旦那の昇進が決まった時、旦那は「あなたを食べさせていくことができそうで安心した。」と言ってくれた。これまでの職歴から言っても私は外に出て稼ぐことに向いていないことは事実で私も旦那も認識した事なので、扶養の中で生活を豊かにするために無理のない収入を得られればと思っている。特に、旦那は何かしらの社会とのつながりは持っていてほしいと言っている。なぜなら専業主婦の鬱になる割合が多いらしいからだ。私の今の病気に鬱まで重なったらやってられないので、専業主婦はやめておいた方がいいかもしれない。

 *
 
中学生からの付き合いの友だちが半年ほど前から鬱になってしまった。そして私に、「鬱ってこんなに苦しいんだね」と言った。私は多分鬱にはなったことがないが、感情障害、希死念慮は高校生、いや中学生の頃からずっと付き合ってきたので、気持ちが分かる気がした。
 精神疾患で基本、人は死なない。精神疾患が原因で命を絶ってしまう人はいるが、例えば癌と違って、精神疾患は命を奪う病気ではない。(食事がとれなくなったり、拒食症だったりすれば話は別だが)鬱で、精神疾患で人は死なない。だが、死にたいくらい辛いのだ。
 友だちの辛いという言葉を聞いて、そうだね、私も知っているよ、ずっと前から私も戦ってるよ、中学生くらいの時から、と思った。そこでまた気づいたのだ。私は中学生くらいの時から自傷やら何やらで生きるのが辛かったのだ。かれこれ人生の半分くらいを私は生き辛いメンタルを抱えて生きてきたのだ。これはきっともう、一生ものになるだろう。親に聞いても私が普通に元気だったのは、中学生? いや小学生までだったと言った。私はきっと死ぬまでずっとこのメンタルの不調と生きていくのだ。大学生で入院した時に、薬は一生飲んでいくことになると言われ覚悟していた。薬を飲みながら、普通の生活ができると思っていた。それは少し間違っていたかもしれない。
 でも、絶対に決めていることがある。

私は精神疾患を理由に命を投げ出さない。

旦那と結婚してから決めたことだ。私は旦那に看取られながら死にたい。私が死んだときに、旦那に悔いが残るようなことはしない。

死にたくて手首を切ったことがある。
辛くて二階から飛び降りたことがある。

でも私はもう二度としない。それがどれだけ旦那を傷つけるか分かるから。どんな私でも旦那は支えてくれる。だから私は自分を傷つけることはもうしないと決めた。この決意をしてから、少し気持ちが楽になったような気がする。どんなことがあっても愛してくれる人がいる。信じられる人がいるだけで、救われたのだ。
 私の病気はどんなに身近な人でも敵に思えてしまう時がある病気だ。だが、私は幸いなことに、どんなに症状が悪化しても、その時心から信頼している人だけは敵だと思わないのだ。本当にこれは幸いなことだ。
 一、二ヶ月前に職場でみんなに嫌われて、死ねばいいと思われていると妄想しても、旦那はそう思っていない、だから絶対に死んでなんかやらない、と思っていた。道行く人が自分を殺そうと思っているかもしれないと思っても、旦那が守ってくれると思って手を握っていた。それだけでどれだけ救われたことか。大学生の時は、それは母親だった。

 母親のことはずっと信頼しているが、旦那が私の大切な人になってから、自傷願望が圧倒的に減った。旦那の存在がブレーキになるのだ。ならなかったとしても、聞いてくれる。母親には死にたいとは言えなかった。旦那にも言うべきではないのだが、死にたい時に死にたい、辛いというのを聞いてもらえるだけで違う。昔は違ったから駄目だったのかもしれないが、大人になって旦那と暮らし始めてからはそれで済むようになって助かっている。ただ、刃物を見ると自分の気持ちが怖い時期はある。傷つけたい、というよりも傷つけることができてしまう、という事実が怖いという何とも良く分からない気持ちだが、そういう時は徹底的に刃物から離れ、旦那にすべてを任せている。

 *

 今ではこんなに信頼している旦那だが、出会ったばかりはそんなことはなかった。
 高校生の頃に初めて付き合って、その後なんと三度別れている。
 小学生三年生の時から同じ学校に小中高と通っていたので顔は知って認識していたが、一度も同じクラスになったことがなく、友達ですらなかった。高校生の時に三ヶ月だけ同じ卓球部に所属し、そこで知り合った。
 初めて付き合ったのは高校一年生。ひと月で別れた。次に付き合ったのは、高校三年の夏。半年で別れた。大学は別だったのでここで縁が切れるかと思ったが、大学二年の時にまた一年半付き合って別れた。最後に大学四年の秋に結婚を前提に付き合い、私の大学卒業後一年で結婚に至った。別れを切り出したのは、いずれも全て私だ。酷いものである。
(結婚式の司会者からの二人の紹介でネタにされた。)
 出会ってからほぼずっと好きでいてくれた旦那に感謝である。旦那が一途に思ってくれなければ、今の関係はなかった。ただ、私は別れた期間に経験したことで旦那の良さ、人との付き合い方を学んだので、無駄な時間ではなかったと思っている。それでも三度振ったのは悪かったと思っている。

タイムアップだ。今回はここまで。


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