見出し画像

落語の国の論文執筆ー落語と論文執筆は似ている気がするー



1.つながらないのものが、「つながる」面白さへの気付きー東京大学の入試問題からー

すでに大学入試というものに携わらなくなって、数年経つ。
ただ、未だに、覚えている入試問題というものが存在する。その1つが、2014年の東京大学の国語の大問1の問題である。藤山直樹氏の「落語の国の精神分析」からの出題だった。問題を解く面白さもそうなのだが、どちらかというと、文章の内容がとても興味を引く内容になっていることを今でも覚えている。

大した事ない昔の話であるが、私は、当時2014年前後、落語に少し興味を持っていた時期があった。その時期は、何度か寄席にも通ったものだった。当時を振り返ると、寄席の独特な雰囲気に加え、あの空間に、テレビで見たことがある落語家さんが何人もいることに不思議さも覚えながら、楽しんでいた気がする。
ただ、当時、落語がすべて面白がれたかと言われるとそうでもない。自分がどうしても興味を持てないもの(周りの笑い声に違和感を覚えるもの。私が笑いどころが掴めないから?)もあった気がする。
そんな時期に、この問題に出会ったから、面白かったのかもしれない。
さて、この東京大学の入試問題で扱われた文章は、次のような一文からはじまる。

いざ仕事をしているときの落語家と分析家に共通するのは、まず、圧倒的な孤独である。

藤山直樹(2012)「落語の国の精神分析」

精神分析家と落語家という異なる職業の共通性を説いていることにまずは驚かされた。引用した「孤独」というキーワードだけではなく、複数の視点から共通性について語る文章は、当時も、今もすごい文章だなと感じる。
また、藤山氏の文章では、落語家には、「根多(ねた)の中の人物に瞬間瞬間に同一化する」力が落語家にはあると述べている。多くの聴衆の眼の前で、語り手である落語家は孤独なのだが、多くの人物になりきっている。「一人だけど、一人ではない(入れ替わり立ち替わり登場人物になりきる、落語家のすごさ)」が、なんとも不思議なことなのだが、それが落語の面白さだと私は思う。

2.ふと感じた共通性の延長ー論文執筆と落語ー

急に、突拍子もない事を言っているように聞こえるかもしれないが、学術論文の執筆者も、落語家と共通性を持っていると感じた。そう思ったきっかけは、阿部幸大氏の、「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書」という書籍を読んだからだろう。

この書籍では、論文の書き方、を丁寧にまとめてくれており、目から鱗のような内容であった。(個人的には、彼が、人文学という視点から、何を明らかにすることが大事かという想いを語っている部分は、なるほどと強く思う部分だった。)
それはさておき、その中で、先行研究の議論を更新する、ということについて書かれている箇所がある。

わたしたちはその先行研究のネットワーク内にみずからのアーギュメントDを位置づけなくてはならない。「わたしの主張Dは、AともBともCとも違います」と言うだけでは、たんに先行研究と「違う」主張を展開しているということを示せているにすぎない。わたしたちはDというアーギュメントには価値があると言えなくてはならないのであり、それには現行の「会話」をなんらかのかたちで更新すると宣言するしか方法がないのだ。

阿部幸大(2024)「まったく新しいアカデミック・ライティングの教科書」

私は、論文を書くにあたり、参考文献を読んで、学ぶことが重要だとは、指導されてきたし、分かっているつもりではあった。ただし、「会話」を更新するため、という視点は持っていなかった。
つまり、自分自身が、会話に「加わり、新しい視点を提供する」ということなのだと解釈した。
そう解釈したうえで、違和感が少々否めないが、次のような行為をするのが論文執筆の過程なのではないかと整理した。

①筆者は、言いたいこと(主張)が見つかる。
②論文で主張をするためには、これまでの議論を踏まえる必要がある。そのため、筆者は多くの先行研究(という諸先輩方)を自身の論文にお招きして、話をしてもらう。
②筆者は、先行研究(という諸先輩方)の話から、感じたこと、考えたことを必要に応じて整理、批判的にコメントさせていただく。
③それらをもとに、(次は私の番だ、ということで)自分の意見を述べる。自分の意見が、これまでの誰とも違うものであるので、それはなぜ言えるか、それは、どうやって立証できるのか、丁寧に話す。

何となくしっくり来て、なんとなく違和感を持った。なんとなくの違和感は、次の2つである。

・先行研究を擬人化して書く方が書きやすいものの、不自然さを感じている
・自分自身も会話に加わっている状況を、自分自身で書いているという行為について記述しているからか、不思議な感覚を得ている

しかし、この違和感を拭えない書き方は、意外と的を得た書き方をしているのではないか、と冒頭に書いた藤山氏の文章を読み直すと感じた。

演劇などのパフォーミングアートにはすべて、何かを演じようとする自分と見る観客を喜ばせようとする自分の分裂が存在する

藤山直樹(2012)「落語の国の精神分析」

自分以外の(大体複数の)何かに「なりきる」行為と、落語家の仕事として、どうしたらより眼の前の聴衆に楽しんでもらえるか、感動してもらえるか考え、実践する行為(空気を読んで内容含めて調整するような行為も含む)が両立しているということだろう。

論文執筆も、(さまざまな先行研究を進めている)研究者の言葉を借りながら、自分の言葉で展開していく行為と、執筆者の仕事として、どうしたらより読者に気づきや発見を提供してもらえるか考え、一つの論文を作っていく行為が両立している、と言える気がしている。そう思うと、落語家との共通性があるのではと私は思った。

重ねて、どんな参考文献を論文に招いているのか、どれほどの文量で、どのような視点(技法)を用いて言おうとしているのか、を明確にして執筆する論文執筆者

どんな登場人物になりきり、どれくらいの時間で、どのような技法(や根多)で落語をしようと実践している落語家

は何か共通性を感じ得なくなってきた。

3.最後にー落語を楽むために、という視点と学習者として論文を自分の糧にするためにという視点ー

こういうことを考えながら、自分自身のために、また、いろいろなプロジェクトや探究の相談をしてくれる学生・高校生のために、何か、活用できないかなと考えたとき(授業化するとか、教材化するとか)考えたときに、このような動画を見つけた。

桂宮治氏が、小学生に語っている、

(落語は)みんな一人ひとりの想像力で見てもらいます

上記動画(https://www.youtube.com/watch?v=e4YlqyGDbp8)から

という言葉。落語家が描く世界を想像せずに落語を見ては面白くないということなのだろう。これを目にしたときに、冒頭に話をした、10年前に落語を面白がれなかったものがあった原因の一つは、私自身の未熟さのため落語家が描く世界の想像ができていなかったのだと思った。面白がれるには、「経験」がいるのだと感じた。

論文執筆のために文献を読む際も似たようなことが言えると感じた。
つまり、自分自身、もっと学習したり、経験を積めば、もっと読む論文から学べることはあるし、つながることも増えていくはずである。そうしたら、もっともっと研究することや探究することが楽しくなると思う。
そういう視点も、伝える、だけではなく、実感を一緒に作れる研究者であり、教育者でいたい。そういうところまで思ったところでした。

(追記)
・落語と論文執筆、似ているかもと思ってくれた方がいたら嬉しい。
・それは似ていないだろう、こっちの考えが良いんじゃね?と思ってくれた方がいても、それはそれで嬉しい。
・全く内容と関係ないけど、〇〇と〇〇、似ているかもと何かしらの発想のきっかけができた方がいたら嬉しい。

そんなことを最後に思った次第です。





いいなと思ったら応援しよう!