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希望の風 ~ペトロ・ズニガとルイス・フロレスと平山常陳の仲間達の殉教~
「私の名前は平山常陳。堺の出である。京都でパードレ・バルタザール・デ・トルレス様から洗礼を受け、常陳(ジョーチン)の名前をいただきました。今は姓をディアスと改め、女房とマニラで暮らし貿易を営んでいる。」
17世紀のこの頃、マカオの日本貿易はポルトガル人が独占していた。平山常陳は中国船が多く来るマニラは日本貿易を行うには都合がいいと思いマニラの地に根付いていた。
「日本に向けて帰国を希望するマニラで働いていた日本人を募っていたところだ。ついに同胞キリシタン達の希望、パードレ様を我が祖国に送る今生最大の大仕事を受けた。私にこの大仕事を与えて下さった神様に感謝である。これは言葉にしなかった祈りが神様に届いたということです。聖霊の風が私の望みを運んでくれた。そう思うのである。」
空は快晴。心地の良い潮風が肌をなでる。
「副船長。風向きはどうだ。」
レオン助右衛門は額に日よけのように手を当て遠い空を向いて笑顔で応えた。
「カピタン。空は快晴。澄んだ青。なんだか良い風吹いてますよ。」
「なんだい。カピタンって。」
「さっき乗り込んだ南蛮人が船長のこと『カピタン・ヨアキム』っていってましたぜ。ヨアキムはジョウチンのことでしょう。常陳船長。」
「かぴたん、っと。」
書記の宮崎ジョアン宗右衛門が皆の作業している側で座って記入している。
「ジョアン、何書いてんだよ。」平山は笑いながら作業をしていたマストから降り、ジョアンの肩を空に音が響くほど叩いた。そして両腕を二人の首に回し、二人の耳元に向かって息を殺して話し出した。
(あの方たちはパードレ様達だ。我々の希望だ。祖国の希望だ。)
常陳の小声で話していたつもりだったが、輝く笑顔で話している常陳を見た他のクルーも集まってきて、
「これはただごとじゃねーな」
「なんかまた面白いことが始まるな、これは。」
寄せ集まって3人を囲んで一塊に賑やかになってしまった。
「やい、てめーら。遊びじゃねぇんだぞ。」
常陳は集まったクルーたちの塊から掻き分けて出てきた。
「常陳船長。我ら海の乗組員。遊びとは思っていませんぜ。」「運命は神様と共にあり。」「海と共にあり。」「我らロザリオ会員。」「この時期に日本に行くことはどういう意味かわかりますよ。」「まるちる。」「いつでも命張ってますぜ。」「フィアット。お言葉の通りに。」
ロザリオ信心会のクルー達は互いに肩を組んで口々に言い、最後には一斉にマストの帆が張ってない十字架の方を向き、おのおのロザリオを取り出して跪いて両手を合わせて礼をした。
妙な一体感に頭をガシガシと掻いていたが、自然に安心感を覚えた常陳であった。
「果報者(かほうしゃ※幸せ者の意)」
常陳は大声で叫ぶと、クルー達がニヤつくのはいつもの流れである。
クルーたちは常陳にこう言わせたいのである。
「副船長。風向きはどうだ。」
「カピタン。希望の風吹いてますよ。」
「かぴたん、希望の風っと。」
常陳率いる朱印船のクルーは常に心は一つだった。航路は一人ではできない。考えの違いがあれば目的地につかないどころか大きな事故に繋がる。声掛け合いながら、相手の動きを信用していき目的地に向かうという共通の目標に向かって持ち場の仕事を懸命に行うのである。どこまでも続く青空の下、海の先には祖国の日本。二人のパードレを乗せて。1620年元和6年の春。潮風と共に希望の風が吹く。
希望の風
~ペトロ・ズニガとルイス・フロレスと平山常陳の仲間達の殉教~
・ペトロ・デ・ズニガ
この世は過去に類を見ないほどの大禁教下。1614年慶長19年に出された禁教令から始まり、キリシタンへの迫害は日に日に増していった。各地で多くの血が流れ、その誉に勇気づけられたキリシタン達は支え合って信仰の鎖は繋がっていった。
1617年にエルナンド・アヤラ神父が殉教し、日本のアウグスチノ会士がいなくなった。アヤラ神父により開拓された臼杵の信者からマニラに手紙が届いた。
―― 迫害下の嵐、信徒達だけではどうしても限界がある。司祭を送ってほしい。―――
こういった内容であった。ペトロ・デ・ズニガはいち早く日本への旅を志願した。ペトロ・ズニガはスペイン・セビリア生まれ。1604年、彼が24歳の時にアウグスチノ会に入会した。1610年にはマニラに派遣され修道院で働いていた。彼は祖国セビリアでディエゴ・デ・ゲバラと出会い、日本の事をこの時初めて知り日本宣教が目標であった。マニラに派遣されたのも日本宣教の機会を見つける為であった。導きと感じたズニガは司祭要請の依頼に目を輝かせていた。来る翌年に同じアウグスチノ会士バルトロメオ・グチェレス神父を含めた他6名の宣教師と共に迫害下の日本に派遣が決定された。出発前に各修道院に一般市民と同じ服が支給され、しばらく修道服は着ずに生活をした。特に港周辺を通行人同様に歩き回った。スパイを警戒した行動である。日本向けの船が出るすべての港町にスパイが配置されていた。宣教師が乗り込む姿が見られるとすぐに情報が届くような仕組みになっていた。スパイの目を掻い潜り、1618年6月にマニラを出発しひどい嵐にも負けずに2か月の航路を耐え抜き日本にたどり着いた。岸までは信者の小舟が沖に迎えに来て無事に長崎の地に足を踏み入れた。ファン・ゴンザレスと偽名を使いスペイン商人として潜伏した。
ズニガ神父らは村の信徒から歓迎を受け、信者を励まし、秘跡を与えた。この喜びの時間も長くは続かなかった。密告である。新しく就任した長崎奉行長谷川権六の耳にもすぐに入った。権六は幕府から強い圧力を受けており、今まで以上にキリシタン迫害を厳しくしていた。宣教師への宿の提供や世話や匿いなどは死刑、およびキリシタンの情報を持ってきた者への報酬額を引き上げ、キリシタン関連物の所有の禁止、墓地や教会などの跡地への集会することを取り締まり禁止した。こうした徹底した捜査網にも関わらずズニガ神父は信者の協力を得て1年間は潜伏して宣教活動ができたのである。
二代将軍秀忠は日に日にキリシタンへの迫害を徹底してキリシタンが蔓延る隙が生れないよう幕府の地盤を確実に固めていた。全国的にこの徹底した処置は浸透していったが、長崎が表面上平穏を保っていた。長崎奉行権六は流血騒ぎを好まないこと、将軍の単なる手先として動く番犬ではないという思いがあったからである。しかしキリシタンの前長崎奉行の村山等安と末次平蔵が宣教師を匿ったと互いに告訴し合う出来事があった。平蔵は棄教して訴訟に勝った。この件で幕府に表面的な平穏と地下に多数のキリシタンが蔓延っていることを知られることとなった。激怒した将軍は平蔵を長崎代官に就任させキリシタンの根絶やしを命令した。平蔵は長崎の教会と関連施設を破壊し跡地に寺院を建てさせた。さらにキリシタンの墓を掘り出し遺体を放り出した。潜伏していた宣教師達が山内や離島に一時避難を行った。そして長崎の民全員に「宣教師をかくまわない」と一筆をさせ隙間なく幕府の指示を確実な形に実行していった。
密告により捕縛されたズニガ神父は長崎奉行のもとに連れて来られた。権六はズニガ神父に妙な興味を抱いた。ズニガ神父の慈愛に満ちた言動は権六にとって初めての感覚だったのだ。話せば話すほど自分の立場を忘れてしまうほどの新鮮な感情が生れた。
(この者を死なせたくない。逮捕するに忍びない。)
尋問が終わり、権六は密かにズニガ神父を呼び出した。小部屋を準備し、権六は彼を極めて丁重に礼儀正しくもてなした。
「ファン殿(ズニガ神父)。率直に言う。そなたを死なせたくない。自分でもよくわからないが、内なる自分がそう行っておる。日本を離れよ。マカオへの船を手配する。」
意外な態度と言葉にズニガ神父は眼を丸くして沈黙が続いた。
「もしこれを拒絶すれば・・・あ、いや、自分としては強制的に貴公を追放せねばならぬ。」
幕府の禁教令に準ずれば処刑、今なら追放令として生かすことができる。不思議な「死なせたくない」が頭の中を駆け巡った。
「よく考えてみます。」
といいその場を去った。ズニガ神父は上司であるグチェレス神父のもとに行き出来事を話した。
「奉行の指示に従うように」
グチェレス神父の答えだった。
ズニガ神父は複雑な思いを抱えたまま権六の指示した船場に行き、長崎を離れマカオへと去った。権六も船の者からズニガ神父がマカオに向かったことの報告を受けた。
・ルイス・フロレスと平山常陳
マカオに追放されたズニガ神父はポルトガル商人の頼りでアウグスチノ会管区があるマニラに渡った。嵐の中から生還したズニガ神父との再会に喜ぶ修道会の仲間達であったが、殉教する覚悟で渡った日本であったズニガ神父の心にぽっかりと穴が開いた。
ズニガ神父はしばらくマニラで幽霊のように生気も失い修道会で働いていた。地に足がついていないといった状態だ。そんな中、日本から手紙が届いた。
――― パードレ・ズニガの来日を願い奉り候 ――――
――― マルチル・パードレ・エルナンド・アヤラの聖遺物を送り奉り候 ―――
といった内容であった。
管区の会議に徴集されたズニガ神父は意見を求められた。
今までフラフラと生気がこもってない足腰に力が入り、管区長が話終わる前に前のめりに
「はい。是非日本へ。」
二つ返事であった。幽霊のような姿から我に返ったズニガ神父の脳裏に長崎奉行権六の顔がよぎった。日本から追放された時の出来事をもう一度最初から丁寧に会議で説明した。異教徒に顔が知られすぎてしまいどのくらい役に立てるものかと悩みを告白した。おそらく上陸してもあっさりと捕まってしまうだろう。会議でズニガ神父を日本へ送る事が決定し手段を検討となった。
日本から平山常陳という日本人船長の船がマニラに到着した。彼の朱印船は60トン程も積み荷が可能な、さほど大きな船でないもののしっかりとした作りであった。積み荷の内容は主に鹿革が多かった。鹿革は牛などに比べて柔らかく加工がしやすい上に頑丈である。日本では5世紀頃に韓国の革工人による革の加工技術が伝えられ、長い間日本で根付いた革製品の文化は日本の生活に溶け込んだ。朱印船の発達によりマニラや台湾、中国から多くの舶来鹿革が輸入された。彼はキリシタンでロザリオ信心会に所属であった。乗組員も同様にロザリオ信心に属していた。
アウグスチノ会管区は平山船長に話をし、ズニガ神父を日本へ送ってもらえないか相談した。巡り合わせというものも不思議なものである。ドミニコ会からも使者を日本に送ることが決まっていたルイス・フロイスという人物であった。彼は1563年頃現在のベルギー、フランドルのアンベレスに生れた。ドイツで教育を受け、両親と共にメキシコに移住し、彼はドミニコ会士との出会いがあり入会した。1597年、彼は24歳で司祭に叙階し、翌年1598年にマニラに派遣され修道院で働いていた。1617年同修道会のアロンソ・ナバレテ神父が長崎で殉教した。この知らせを聞いたルイスは導かれるように日本行きを熱望したのだった。日本で同じ日に殉教したアウグスチノ会のアヤラ神父とドミニコ会のナバレテ神父。それに憧れたアウグスチノ会のズニガ神父とドミニコ会のフロレス神父。二人はすぐに意気投合したことは言うまでもない。
平山船長も二人の神父を乗せて航海なんて初めての大役に浮足立っていた。
「パードレ様。我がクルーたちが帆を張っています。準備は整っています。いい風が吹いています。希望の風です。いざ行きましょう、長崎まで。」
・平山常陳事件
フロレス神父とズニガ神父を乗せた平山常陳の船は1620年春、嵐を避けるためにマカオを経由し台湾に進路を向けた。その日の夜、皆で出発の宴をした後一部のクルー以外寝静まった。
「フロレスさん、あの星見えますかい。」
「船長、星がどうかしましたか。」
「マニラに引っ越したころ、教えてもらったんです。あの星達を結んだ名前が『常陳』っていうそうで。なんともね、天子様の政治をするところにいる役にいる人だそうです。政治ね、俺はそんなに頭が良い訳ではないですからね。」
「ようするに、天下を治める方・ゼズス様に仕える者でしょうか。」
「そうです。その人も同じように俺に教えてくれました。だからね。気に入っているんですよ、この名前が。」
ズニガ神父も輪に入ってきた。凪の海に満天の星空の下。船の先頭で3人だけを月明りが照らしていた。
「小さき身体にどのように収まっているかと思うほどの大きな心。あなたは良いカピタンです。皆に優しい。」
「これでも背丈のことは気にしてるんですぜ。」
「あ、いや、そういうつもりでは。失礼しました。我々南蛮人に比べてですよ。本当に模範となるリーダーと感じるのです。それよりも今の時期、伴天連を匿っただけでも酷い目にあうにも関わらず日本行きを受け入れてくれてありがとうございます。皆さんは危険がないようにもしもの時は身を隠します。」
「私も感謝しています。あなたがたを日本に送る大仕事をいただけるなんて。私がいつか神に望んだこと。神様が受け入れてくれたこと。感謝しています。」
生れた場所も立場も違う3人は友情に心の絆で繋がった。時間を忘れて少年のように互いのことを語り合った。
台湾に近づいた頃、遠くの方にオランダ船が見えてきた。オランダ船とは友好的であったため水や薪などをわけてもらおうと平山常陳の船は近づいていった。しかしそれはイギリス船エリザベス号であった。このころオランダとイギリスは協定を結びマニラに向かう中国船に対して海賊行為をしていた。イギリス船は常陳船長と副船長を連行し、事情聴取された。中国船から金品を巻き上げる目的で近づいた手前、引くに引けず身分の高い日本人もエリザベス号に移させ食事をもてなした。次の日は常陳の船に乗った全員に食事をもてなした。常陳の船をくまなく探し、一人残らずエリザベス号に移されたのである。悪臭の酷い鹿皮の中に隠れて変装していたフロレス神父とズニガ神父も同様である。
(伴天連がいる)
密告者がいたのだ。フロレス神父とズニガ神父の食事の様子を観察した。肉に一切手を触れなかったことを見逃さなかったのである。この日は金曜日だったのだ。しかし宣教師であるという確信とは言えない為捕縛に至らなかった。もし宣教師であれば積み荷も船も堂々と彼らの物になるが、もし本当にただの商人であったら海賊行為が明るみに出るからである。イギリス船は合流したオランダ船に両神父を引き渡し、平戸に入港して商館に抑留した。そこは間口一間、奥行き四間ほどの大きさしかなく、日も差さず暗い部屋に押し込まれた。オランダ商館長は彼らが伴天連であること白状させようと様々な拷問を与えた。身につけている物をすべて剥ぎ取り、後ろ手に縛りあげて柱に吊るし足に火薬の詰まった錘をつけ、「白状しなければ火薬に火をつけて吹き飛ばしてやるぞ」脅すが白状はしなかった。
イギリスとオランダ商館長は幕府に使いを出し書状を提出した。
―――日本に宣教師を潜行させるためにマニラ行きの船が度々使われています。今一度朱印船は朱印状に記された渡航先を厳守されるようにお願い申し上げます。―――
使いが戻ってきたが返答は得られなかった。その代わり処分については領主に一任させるというものであった。イギリスとオランダ人の悪評は幕府に毎日のように届けられており信憑性にかけるものがあったからである。
平戸での審議は松浦邸で1621年11月にはじまった。イギリスとオランダの商館長、長崎代官末次平蔵、長崎奉行長谷川権六、ズニガ神父とフロレス神父と平山常陳が集められた。
ズニガ神父は権六とすぐに気づいたが権六は凛とした態度であった。取り調べの際、ドミニコ会の管区長代理の任命書、管区長の訓令、宣教師宛ての何通かの手紙が証拠書類として提出された。ズニガ神父とフロレス神父は断固として「ただの商人である」と言い張った。イギリスとオランダ商館長は証人を使わせ、松浦も証人を平戸中に掛け合うが明確な証人となる者は現れなかった。
鈴田牢からカルロ・スピノラ神父とフランシスコ・モラレス神父も参考人として平戸に連行されてきた。ズニガ神父は乗組員の身を案じ、宣教師であることを否定した。ズニガ神父とフロレス神父は宣教師が平山常陳の船に乗っていたことは常陳しか知らないと思っており、他のクルーは自分が宣教師であることを告白したら皆が死刑になるのでは懸念し商人と貫いたのである。イギリスとオランダ人達も焦りはじめていた。もし本当に宣教師でなければ積み荷を押収できなくなるどころか目をつけられ海賊行為が明るみに出てしまい危険なのである。ここに荒木了伯が呼ばれた。元の名はトマス荒木。かつてセミナリオで学び教区の司祭として働いていた。鈴田牢に収容され、あまりの苦痛により棄教した。その後は通訳や目明しとして長崎奉行所で働いていた。荒木がスペイン語でズニガ神父とフロレス神父と話すが平行線であった。あの日の夜、松浦と権六と荒木は密かに会談を行った。
「権六殿、貴殿はキリシタンではないかと疑われています。キリシタンへの寛容さ。これが幕府に知られると立場は危ういことでしょう。」
「ここはあの怪しい南蛮人2人を宣教師として処理してはいかがだろうか。長引けば長引くほど松浦殿も責務が多忙でございましょう。迅速な処理をされることでお上も松浦殿の仕事ぶりを認めてくださいましょう。その逆も考えれば、いや考えたくもないでしょう。」
「イギリスとオランダ船と協力して、船をたまたま捕まえたら、たまたま宣教師が乗り込んでおり密入国を未然に防ぎました。筋書きは見事でございましょう。」
次から次と悪魔のような囁きである。
翌日、各商館長、松浦と権六、平蔵、ズニガ神父とフロレス神父と常陳全員が再び集められた。
「証人が言うように、ここにおる南蛮人が長崎で怪しげな集会を行っていたという証言で“伴天連”であることが証明された。そこにおるもう一人の南蛮人、平山常陳とその乗船していた29名全員を投獄を命ずる。以上。」
前回の徴集と打って変わり突然の逮捕であった。ズニガ神父は凛とした権六の一瞬の曇った表情を見逃さなかった。ズニガ神父と眼を合わせないようにしていた権六であったが、ズニガ神父の視線に気づき目が合ってしまった。その瞬間絶望に包まれた権六であった。ズニガ神父は心中を察し、笑みを見せて視線を松浦に移した。心を見透かされたことに気づいた権六は罪悪感で消えてなくなりたい、そんな思いであった。その後権六は逃げるように江戸に向かった。
そして乗組員は全員ドミニコ会のロザリオ信心会員であることから全員の処刑を命じられた。ズニガ神父はあまり日本語が上手に出来なかった為、トマス荒木に通訳と棄教の説得を行った。信仰を捨てれば命を助けてやる。
「殉教を覚悟でこの地に来た。棄教など当然受けない。」
これがズニガ神父の答えだった。
彼らはオランダ商館の牢に戻された。上司のバルトロメオ・グチェレス神父に手紙を出した。
―――自分がしたことは神意に反するものでしょうか。そうであれば千度も死にたい。―――
自分の行いに押しつぶされそうになっていたズニガ神父はフランシスコ・モラレスと話す機会を設けられた。
「クルー達が巻き込まれないかと神父であることを隠していました。私のしたことは間違っていたでしょうか。」
「今が身分を明らかにする良い時期である。良心に恥ずることはない。クルー達もキリシタンがゆえに殉教を望んでいる。それに日本人たちが自分の事をスペイン商人のファン・ゴンザレスとしか本当に知らなかったことは付け加えて話した方がよいであろう。長崎奉行へ慈悲を与えたいのであろう。」
「パードレ・モラレス、ありがとうございました。」
次の日、ズニガ神父は身分を明かし壱岐の牢屋にフロレス神父を残して移動させられた。
・ルイス弥吉によるフロレス神父救出作戦
ドミニコ会士のディエゴ・デ・コリャード神父はフロレス神父の救出を企てた。白羽の矢が立ったのがルイス弥吉である。彼は長崎のキリシタンでロザリオ信心会に属して伝道師として働いていた。ルイス弥吉は4人のキリシタンと共にオランダ商館に潜入した。コリャード神父から預かった400両(約4000万円)でフロレス神父の解放の為オランダ人を買収した。しかしオランダ人は裏切り、お金だけを受け取る形でルイス弥吉との約束を破った。ズニガ神父が白状したことにより勝算があったのである。
ルイス弥吉は次の作戦に臨んだ。フロレス神父は捕縛されてから、オランダ人の命令によりミサで使う物品などを自らの手で海に注がれている地下水路に捨てさせていた。この時が脱出する機会と考えたルイス弥吉は地下水路から海に繋がる縄を設置してフロレス神父に伝ってくるように伝えた。ルイス弥吉は妻と共に地下水路の先で舟の上で待機していた。フロレス神父は縄を伝って脱出を試みた。脱出途中、縄が切れてフロレス神父は海中に落ちてしまった。ルイス弥吉は急いで神父のもとに近づき、溺れかけたフロレス神父は必死の思いでルイス弥吉の舟に乗り込むことができた。フロレス神父を救出したルイス弥吉は海岸に向けて帆を立てて追っ手に捕まらないように舟の速度を上げ急いだ。逃亡途中、帆が倒れるなど災難に見舞われたが海岸に着き山中深くに逃げた。しかし追跡からは逃げられず、遂には追いつかれフロレス神父とルイス弥吉の二人は捕縛された。二人は足枷をはめられ、薄暗く狭い牢に入れられた。
ルイス弥吉は捕縛されて持ち物が没収された。この中にコリャード神父からの手紙があり取り調べが開始された。さらに協力者4人も捕縛され5人の取り調べが行われた。平山常陳事件の未解決の間ルイス弥吉らの取り調べは中止され長崎に移された。残されたフロレス神父は役人から自分のせいで拷問にかけられていることに心を痛め、とうとう司祭であることを認めた。フロレス神父も壱岐の牢屋に移された。やがて壱岐の牢屋にイエズス会士のカミロ・コンスタンツォ神父も収容された。
・クルー達の信仰宣言
長谷川権六は平山常陳事件に関して幕府の指示を得る為に報告書を持って江戸に出向いていた。長崎に戻ってから長崎の牢屋に捕縛されていたクルー達への尋問が開始された。
「将軍の意志に逆らって日本に神父をつれて来たのは何故か。
また、もし日本古来の神仏に帰依すれば自由にしてやり、罪を許し、また財産も返してやろう」
クルー達は顔を見合わせて権六に訴えた。
「何故神父を日本につれてきたかですか。むろんこの国の希望だからです。」
「将軍の意志に逆らっているのかもしれません。しかし我らはキリシタン。雇い主であるゼズス様の意志には逆らえません。」
「我ら、何を失っても永遠の生命だけは失いたくない。」
「我らはキリシタン。いつでも命張ってます。スピリトサント(聖霊)の風を受ける帆を張るのが我らの使命。我らの心は一つ。」
一同は権六に深々と頭を垂れた。
こうして、平山常陳事件に関係した人物の刑が処されることとなった。
罪の重みで刑の種類が分けられていた。当時のもっとも重い刑は火刑だった。斬首刑は苦しみが一瞬で終わる為斬首刑は火刑よりも軽い刑であった。火刑に選ばれたのは両神父、ペトロ・デ・ズニガ神父、ルイス・フロレス神父と船長平山常陳である。斬首刑に選ばれた者は12名。全員ドミニコ会のロザリオ信心会員であり、出身地の記録はない。副船長のレオン助右衛門、書記のジョアン宮崎宗右衛門、パブロ三吉、ファン與五郎、バルトロメ茂兵衛、ファン永田又吉は船員。豪商・マルコス竹乃島新右衛門、ミゲル・ディアス、トマス小柳、アントニオ山田、ハコボ松尾傳七、ロレンソいきのやま六右衛門は商人である。
・西坂の殉教
クルー達の尋問が終わり、囚人達を長崎に集めるように権六は命じた。平戸のルイス弥吉ら5人を船に乗せ、壱岐を経由してズニガ神父とフロレス神父を乗せて長崎に連行した。一行は逃げられないように手を縛り首に鎖をつけさせられた。彼は逃げる気は全くなかった。彼らはクルスの牢に収容され時を待った。
1622年、元和8年8月19日、前日から刑場には誰も立ち入りできないように柵の周りにいつもより多い役人が警備を行っていた。この役人の行動も何かが起こることの合図にもつながる。噂は人伝いに広がり日が昇るよりも先に西坂やそこに繋がる道中、西山や馬込といったやや遠い場所も人で埋め尽くされた。フロレス神父とズニガ神父、平山常陳、そしてクルー達全員は長崎の西坂に連行された。道中、両神父はスペイン語で群衆に向かって説教を行った。常陳は日本語で群衆に向かって語った。
「デタラメを篤と考えなされよ。真の神にあなた達はこれから出会えるのだ。彫像は命無き物。あなた方を救う力がないただの一片の枯れ木、眼無きただの木材。真の神を見極めなさい。真の神を知る我々は幸せである。これから出会えるあなた方もまた幸せである。」
両神父と常陳、クルーたちの行列に随行して女性や子供達が現れ、温かく優美な声で聖歌を歌い始めた。今から感謝の祭儀が始まるかのごとく。
―― Laudate Dominus omens gentes (すべての人よ、主をほめたたえよ) ――
―― Laudate pueri (子らよ、ほめたたえよ) ――
―― Magnificat (我が心、主を崇め) ――
連祷を唱え始めると、夜が次第に明けていくように祈りの声の輪は広がっていった。
一行が西坂に到着し、刑場の柵の内側に入った。群衆の熱量は収まることはなく、最後まで殉教者になる一行に触れたいと思う輩が柵を乗り越え不当に侵入した。役人は棒で彼らを強打し柵の外へ追い出した。刑場には規則正しく積みあがった薪と、黒く塗られた三本の柱、柱の前に大きな釘が刺さった首台が準備されていた。両神父と常陳は自分達に準備された柱であることを理解し、柱に敬意を表して一礼し十字を切り、両手を広げておのおの柱を包んだ。クルーたちは一斉に整列して彼らの十字架になる柱の方を向き、おのおのロザリオを取り出して跪いて両手を合わせて礼をした。彼らの眼は天へ向け、
「我ら」「キリシタンは身も心も」「ゼズス様に委ねます。」「まるちる。」「フィアット。お言葉の通りになりますように。」「すべてを委ねます。」「我らを受け取り給え。」
刑吏が彼ら十二使徒のクルーたちの前に出向いて刀の刃を抜くと彼らは喜んで首を差し出した。次々と落とされていく首。鈍い音で地に転がる。なんともあっさりと淡々した時間が流れた。誰もが周りの音を認知することができなかったほどだった。転がった首は柱の前に準備されていた台の鉤釘に首を刺し一同を柱の方に向けて並べた。刑吏らは仲間の斬首、並べて晒された首を見せることで精神的苦痛や恐怖を両神父と常陳に与えた。ところがそれは逆効果であった。
「果報者!」
常陳はこう叫び群衆に向かった大声で続けた。
「キリストの信仰を迫害することは大きな間違えである。キリシタンであるが為に傷つけ、嘲笑し、物のように首を取り上げ、同胞に前に晒す。これが人の所業か。人とあらず、鬼畜の所業であろう。正しい道を見極めよ。キリシタンの道はかくも善良にて確実である。果報者!見よ、彼らの顔を。胴と離されていても誇り高く、勇敢で果報者の顔を。」
台に並べられた12人の表情は誇らしい表情で、いつものように常陳に「果報者」と呼んでもらえることを信じた表情だった。
柱に縛りつけられていたフロレス神父とズニガ神父と平山常陳は主の天使が、先だった仲間達の霊魂を受け取りいと高きにまします天主の御前に捧げ、天の国で再会することを神に祈り時を待った。
薪に火がかけられたが前日の雨で湿った薪が強い燃え上がることができなかった。順調に燃え広がろうとした時は刑吏らが水をかけたり、棒で弱い火にして苦痛の時間を長引かせ、時間をかけて生きながらこの身を焦がした。この時間はかえって彼らの残された時間を有効にできるとも言えた。ズニガ神父とフロレス神父はスペイン語で西坂の人々に語り掛けた。常陳は神父達に代わって語り掛けた。
「病者に医者が必要です。人の子ゼズス様は世界を罪から救う為に十字架の上の苦しみを受けられました。この二人の神父様は、まことの神様を礼拝することを教えてあなた達を救済しようと、この世の果てからこの地に来られました。」
役人達はこの訴えを止めようと棒で殴り黙らせようとした。しかし彼の演説は止まらなかった。
「人間に従うのではなく、ゼズス様に従いましょう。兄弟たちよ。主に祈りを捧げ、希望を持って。転んでもまた立ち上がればいい。聖なるゼズス様の無限の憐れみは、すべての人々に対して平等に与えられる。決して忘れるな。希望を。祈りを。神の慈しみを。」
ズニガ神父はあまりの苦しさから聖アウグスチヌスに助けを求めた。
「聖アウグスチヌスよ。私の生みの親よ。苦しい。辛い。この試練の中にいる私たちを守ってください。」
フロレス神父はスペイン語で彼に慰めの言葉を掛けた。
「パードレズニガ、我が兄弟よ。あなたの父聖アウグスチヌスはあなたと共におられる。私も聖ドミニコの助けを借りています。私たちは一人ではない。同胞マルチル・エルナンド・アヤラ、アロンソ・ナバレテも我らと共にいる。彼らが導いたこの地で共に殉教できる喜び。神に感謝。」
ズニガ神父はフロレス神父の励ましに笑顔で頭を垂れ動かなくなった。
さらにフロレス神父は常陳に語り掛けた。
「カピタン・ヨアキム。あなたは本当に立派な人ですね。共にパライソ行きましょう。今からパライソへの航路のカピタンです。パライソまでの舵をよろしくお願いします。」
西坂の丘から見える長崎港から潮風が吹いてくる。
二人の神父と常陳は遠い海を向こうからこの至福の丘へと導いてくれた風を肌に感じ天を仰いだ。
「パードレ様。我がクルーたちが帆を張っています。準備は整いました。いい風が吹いています。希望の風です。いざ行きましょう、パライソまで。」
常陳は両側に神父がいたお陰で背部から焼かれ、背部と側面を焼かれた神父達は先に動かなくなった。ゆっくりと過ぎる苦痛の時間に耐え、彼らは天へと帰っていった。
平山常陳事件はこの後の大きな出来事の火種となった。数日後、長崎奉行長谷川権六は鈴田牢の責任者を呼んだ。