責任と温かい場の醸成について

今回は「責任をとること」について、先日話題に上がった『バイキングMORE』(フジテレビ系)のバイデン氏の吃音を取り上げた話と、2020年9月28日に青弓社より発行された『モテないけど生きてます』という本を参照しながら考えていこうと思います。

責任をとるというのはどういうことなのか。
自分も頭を悩ませているので、一緒に考えていけたらと思います。

※この記事では吃音症状のことを「どもる」と表現することがあります。ご了承ください。

番組の加害性について

バイデン氏の吃音を取り上げたバイキングMOREの報道の概要

この報道に関しては、こちらの記事が参考になるかと思いますので、ご存じない方は先にリンクの記事を読んでいただけたら嬉しいです。
https://news.livedoor.com/article/detail/19125734/

簡単に説明すると、吃音の連発症状によりはじめの言葉を繰り返すようにどもったバイデン氏を「ミス」としてバイキングMOREは報道しました。
バイデン氏が実際にどもっている様子のVTRが流れた後に、タレントの坂上忍氏が
「僕らもド頭で噛んでるけどね」
と少し笑いながら言い、伊藤利尋アナも
「我々も二人揃って噛んでいる」
と自身が”噛んだ”ことを認め、バイデン氏がどもったことに対して偉そうに言える立場ではないですが…という前置きをしました。
その後に、伊藤アナが続けて、
「でも(バイデン氏は)我々と立場が違います」
と言い、それに対して坂上氏が
「もちろん、もちろん」
と同調しました。
その報道と坂上氏と伊藤アナの二人のコメントに対し、木村太郎氏が
「この話はしたくない」
「吃音を批判する気は全くない」
と、バイデン氏のミスとして吃音のことを取り上げることは不適切だ、という指摘を行いました。

今回のバイキングMOREの報道のあらましはこんなところになります。

さて、今回はこのことから加害と責任について考えていこうと思います。

加害性について考える

今回のこの報道から、多くの吃音当事者が傷つき、そして「吃音を批判する気はない」と指摘した木村氏を称賛する声が視聴者から上がってきたようです。

「傷ついた人がいる」ということは、そこには何らかの加害性があったということです。このことに関して、意図的であったかどうか、差別意識があったかどうかは関係ありません。傷ついた人がいるのであれば、そこには加害性が存在するのです。
極力客観的な視点で、この報道の中にあった加害性についてみていきたいと思います。

さて、このバイデン氏の吃音についての報道と、坂上氏と伊藤アナにはどのような加害性があったのでしょう。私が感じた加害性は次の二点です。

吃音(どもり)をバイデン氏の「ミス」として取り上げたこと。

「立場が違う」といい、バイデン氏の吃音に対する指摘を正当化したこと。

まず、一点目。
「吃音をバイデン氏の「ミス」として取り上げたこと」について。

まずこれは、ミスでも何でもありません。
人が話すとき、やはりどうしても噛んだり、言葉に詰まったりすることがあります。吃音があろうがなかろうが、です。実際に、非吃音者である坂上氏と伊藤アナも「我々も噛んでいる」と認めています。
人が一生懸命演説をしている、話している。それだけで何も問題ないはずなのです。
注目すべきは「話の内容」であり、「流暢に話せるかどうか」ではありません。今回は特に政治にかかわる演説です。この人はどのような考えを持っているのか、どのような政治を行っていくつもりなのか、それを聞くのが目的のはずなのです。言葉選びを間違えるなど伝え方に問題があったのであればそれは「ミス」なのかもしれませんが、話し方は関係ないはずです。

このように吃音や噛んだことを「ミス」として取り上げることは、流暢に話せることに対する価値を上げます。そしてそれは、流暢に話すことができない人に対し、”頼りない””良くない”等の負のイメージを強化してしまう、と捉えることもできます。

流暢に話せる人を褒めるのは一向にかまわないのですが、流暢に話せることに価値を置いてしまうと、それは話し手にとって「プレッシャー」が強くなる、という事も理解してほしいと思います。非吃音者でも、人前で話すのに緊張して言葉が詰まってしまうことがあります。それはもしかしたら、流暢に話せることに価値を置きすぎていることから生じるプレッシャーが原因かもしれません。

私自身、もっと気楽な気持ちでコミュニケーションが取れたらいいなと普段から思っています。言葉に詰まろうが、吃音であろうが、”伝わればいい”と考えています。また、話すことだけがコミュニケーションの手段ではありません。筆談や電子機器の活用、表情やジェスチャーなどの非言語コミュニケーション等もあります。メジャーな方法が存在するからといって、マイナーな方法を排除する必要はありません。本当は、話し手以上に聞き手側が、理解しようという姿勢で聴こうとすることが大事なのではないかな、と思います。

続いて二点目。
「「立場が違う」と言い、バイデン氏の吃音に対する指摘を正当化したこと」について。

これもおかしな話かなと思います。
せっかく「我々も噛んだ」ということを認めたのに、なぜその直後に「でも我々とは立場が違う」と言ってバイデン氏の話し方を指摘することを正当化してしまったのでしょう。
「大統領になるような人はどもってはいけない」
という理屈が理解できません。
それならば、話すことが職業であるタレントやアナウンサーも、どもってはいけないのではないのでしょうか…。
こういう否定の仕方をしてしまうと、「そんなこと言うなら、あなただって」とどんどん他者を否定する空気感が強まる恐れがあります。否定された人は、その仕返しとしてまた誰かを否定しようとしてしまいます。負の連鎖ですね。
差別は新たなの差別を生む恐れがあります…

「どもる」という事に対して、「頼りなさ」「不完全さ」を連想し、だから「大統領になる人はどもってはいけない」という考えに至ったのかもしれませんが、「どもる=頼りない、不完全」というイメージが差別だということを自覚する必要があります。でもこの価値観はやはりある程度世間に流通しているように思います。この差別意識を変革することが、これからもっと社会を良くしていくのに必要になるのではないのでしょうか。

”温かな場”を醸成する意味

一視聴者として、この問題をどう見るか

さて、この報道を私たちはどう見ればいいのでしょう。
Twitterでこの報道に関するツイートを見ていると、木村太郎さんの指摘を称賛する声が多数見られましたし、また、坂上氏と伊藤アナの態度や発言に怒りを表している人も見受けられました。

坂上さんと伊藤アナは結果的に、一部の人を傷つけてしまったことは事実ですが、だからといって彼らを非難するのは正しいのだろうか、と私は考えていました。

バイデン氏の演説のVTRが流れた後に、坂上氏がふっと笑ったような表情を確認することができます。この「笑い」に対して、”吃音を馬鹿にしている、差別している”と悲しい気持ちになった人がいるようです。

見方や受け取り方は様々だと思うのですが、私の場合はこの笑いを「吃音を馬鹿にしたような笑い」とは受け取りませんでした。
なぜ、「どもったこと」を「ミス」としてわざわざ取り上げるのか…
という、番組制作者側に対する”呆れ”のこもった笑いだと思いました。もしくは、自分たちも番組の冒頭で噛んだから偉そうに言えない、という恥ずかしさからくる照れ隠しのような笑いだったのかもしれない、とも思いました。

実際、「何に対しての笑い」だったのかというのは本人から語られない限り視聴者が知ることはできません。
「笑い」にも様々な笑いがあります。ネガティブな笑いもあればポジティブな笑いもあるのです。それをどう受け取るかは受け手次第になってきます。

もし、差別的な意味の込められた”笑い”だったのであれば、私たちは、正当なやり方で批判することができるでしょう。しかし、もしそうでなかった場合は、私たちが勝手に悪い方に想像して傷ついていた、という事になります。

今回の話題に関して特に当事者性が強い方は傷ついた方が多いではないかと思います。これは当然のことだと思います。坂上さんや伊藤アナを責めたくなる気持ちはよく分かります。
やはり、TVという一方的な伝達が行われるところではどうしても誤解が生まれやすくなります。しかも、今回は報道の内容にも問題がありました。そのことも合わさって、余計に今回の坂上氏の「笑い」がネガティブに受け取られた、とも考えることができます。これが悪意のない加害性ですね。悪意はなくとも、もし誰かを傷つけてしまったのであれば、その事実としっかり向き合っていく必要があるでしょう。これが”責任をとる”という事なのかもしれません。

ただ視聴者は、木村氏を称賛し、坂上氏や伊藤アナ、そして番組制作者を非難するだけではいけないような気がします。これでは、加害側になった坂上氏、伊藤アナ、番組制作者は本当の意味で責任をとることはできないのではないかと私は思うのです。

では、どうすればいいのでしょうか。
「加害」と「責任」について、『モテないけど生きています』という本を参照しながら考えていきたいと思います。

加害と責任、温かな場について

自分の加害性に向き合うということは、とても大変な作業になります。

「加害は悪いこと」という認識の人が多い中で、自分の加害性と向き合うとなると、周りから糾弾・排除されるリスクが生まれます。
また、自身の加害性に向き合おうとしても、「加害=悪」というイメージを持った人に語ることはできず、一人で抱え込むことになりがちです。一人で問題に対峙すると、客観性が失われ、自分を過度に責めてしまったりするリスクが生じます。

『モテないけど生きてます』の中で、自身の加害性と向き合うのを阻害する要因として、次の二点が挙げられています。

正当化
⇒「他の人もしている」「相手が自分にこうさせる」「ストレスがたまっていたから」等

※正当化には、罪悪感を和らげる効果があるが、加害者が責任に向き合って問題を解決することから遠ざける恐れもある。

強力な罪悪感と過度な自罰
⇒「あんなことをしてしまうなんて自分は最低な人間だ」「自分は取り返しのつかないことをしてしまった」等

※一見自分の罪と向き合っているように見えるが、加害者が自罰し続けたとしても事態は変わらない。
自分の問題を整理できず、同じ加害行為を繰り返す恐れがある。

たしかに、「正当化」や「強力な罪悪感」「過度な自罰」は自身の加害性と向き合うのを阻害する要因だと思いました。

今回のバイデン氏の報道では、
「吃音に関して無知だったから」
「そう言うように指示されたから」
「番組の進行を予定通りすすめるため」
など、正当化をしようと思えばできます。最初の方でも指摘しましたが、「立場が違う」と言うのも一つの正当化と言えると思います。

正当化は、被害者から見れば誠実に責任に向き合っているように見えないのは当然なので、許すことはできないと思います。しかしながら、加害者側も何らかの圧力によって加害をしてしまった、というのも一つの事実として、受け入れられるべきだとも思います。加害者の主張を聞き入れることなく、被害者が出たからと言って一方的に非難するのは、加害者の正当化をより強化したり、②で挙げた強力な罪悪感や過度な自罰に繋がっていく恐れがあります。こうなると、加害者は適切に自身の加害性と向き合うことができなくなってしまうのです。一方的な加害者に対する非難は根本的な問題解決を不可能にするおそれがあります。

では、どうすればよいのか。
『モテないけど生きてます』の中で、加害と向き合うために必要なのは
「温かな場」
だと書かれています。

温かな場を醸成するもの

➀語りを聞き届けられる。
 ⇒共感。加害者の語りが否定されない。
②自分自身を罰することをいったん保留する。
 ⇒罰するか否かの判断はいったん脇に置いて、自分自身に起きたことを研究する。

温かな場を醸成するものとして、以上の二点が挙げられています。
これらが達成した時にようやく「温かな場」が出来上がります。
この温度感に注目されたところに私は強く共感しました。

私たちが一方的に加害者を非難する、ということは、相手の語りを否定したり聞き入れなかったりする、ということになります。これでは温かな場はできていきません。
深く傷ついて加害者の気持ちなんて考えていられないという人はともかく、それ以外の人は想像の域で語ることは一旦やめて事実だけにしっかりと目を向け、多角的な視点でこの問題について考えていく姿勢を持つことが求められるのだと思います。
加害性があった、というのは事実だとしても、だからといって一方的に攻め立てても解決に至らない可能性は大いにあるのです。
今の日本には「加害やミスをした人間は許されることがない」という空気感がうっすらと漂っているような気がします。この空気感がプレッシャーになり、不幸な加害を生み、隠ぺいを引き起こし、問題を複雑化させているように私は感じています。

今回の件に関して、坂上氏と伊藤アナに確かに加害性はあったのですが、ただ一方で評価できる部分もあったように思っています。

正当化だったとしても、「我々も噛んだ」と言っていて、あまりバイデン氏の吃音症状を指摘できる立場ではないという姿勢を一旦示したことは評価しても良いかと思っています。「でも我々と立場が違う」という発言で台無しになりましたが…これも番組をスムーズに進行しなければいけないという使命を二人は持っていたと思うので、正直仕方ない部分もあると思っています。

また、木村氏から指摘されたあとは、吃音のことに関してそれ以上話すことなく、次の話題に移りました。この臨機応変な対応は誠意があるように思いますし、そこには多少の反省もあったのではないかと推察します。ここは評価できる点だと思います。

VTR後の坂上氏の「笑い」に関しては、前述したとおり、様々な見方ができるので、本人から語られない以上、責めることはできないでしょう。もちろん、TVに出演する者として、自分のちょっとした所作や発言に加害性が含まれる恐れがあるということは承知しておくべきだとは思います。

温かい場を醸成していくために、私たちはどのようにしていく必要があるのか、考えていかなければなりません。この記事がその一つのきっかけになればいいなと私は考えています。

「責任をとる」ということ

最後に、『モテないけど生きてます』の中で、「責任をとる」とはどういうことなのか、について書かれていたので紹介します。

被害者が(加害者と)対峙したいと思ったときに応答できるような人間になっておくこと。

被害者のためになる間接的な具体的行動を起こすこと。

責任(responsibility)はrespond(応答する)とability(可能性)が合わさった言葉だと言われています。
つまり、「責任をとる」とは能動的に被害者に応答していくこと、になります。
「謝罪会見を開き、辞任する」というニュースをたくさん見かけますが、これは責任をとったことにはならないのです。形式的に自分を罰しただけで被害者対し誠実に応答したとは言えません。
しかし、加害者が責任をとれるようにするためには、加害者の間違いを指摘するだけではなく、私たちが温かい場を醸成していくことが必要になります。

そのために私たちには一体何ができるのでしょう。
普段からどういうことを心がければいいのでしょう。

このような問いかけをぜひ自分自身にしてみてほしいと思います。
この問いかけも「責任をとる」ということになるのかもしれません。

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