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自分の人生を生きていく

こんにちは、会田龍之介です!
人生3分の1を経過した今、自分の人生を振り返る「自分史」を書いてみました。
キーワードは
「強くなる」
「困難への挑戦」
「家庭崩壊」
「人生を変えた転職」
「サラリーマン起業」



「誰の言うことも聞かない」幼少期

1993年1月24日、体重2948g 身長49cm、東京都葛飾区で㑹田家の長男として誕生。(名字の漢字が後に変わります)

なんでこんなに正確かというと、結婚式に母からアルバムをいただきました。 2歳年上の姉、4歳下の弟の3人兄弟で過ごしていきます。

1歳から下痢気味体質がスタート。2歳くらいに下痢が止まらなすぎて、病院で浣腸をされた記憶が鮮明に残っております。

緊張するとお腹がゆるくなる体質はいまだに変わらず。。


やんちゃが止まらない幼少期、1歳9ヶ月にして、友達を後ろから押している、母はここから謝罪生活がスタートしたと言ってました。

親の言う事を聞かない人生のスタート、聞かない?聞けない?入ってこない?

姉の潮干狩りに2歳で参加した時に、一人で行動したくて、勝手に潮干狩りスタート、母が気づくと茶色の水を四つん這いで飲んでいて、母が激怒し強制退場。
このころから姉は私が暴走して、迷惑をかけてくるので私のことを嫌いになったのかもしれない。笑

ルンビニー幼稚園に入学、毎日楽しい日々、うち遊びの時間もジャングルジムの頂上に登りたくてダッシュ
窓ガラスのドアに体当たりして、扉を割ってしまったり、問題児ぶりを発揮。
wanto to :困難で達成できるかわからないことに挑戦することが好き→このことからも来ている


4歳になり、最愛の弟爆誕、姉には既に煙たがれていたので、純粋無垢な弟を溺愛。
幼稚園のかけっこでは、体が小さかったこともあり、3年間、同級生のじゅんじゅんに勝てず。
幼稚園の夢は「父の会社を継ぐ」ことだった。
自分で会社をやり、遅くまで働いている父が格好いいと思っていた。
祖父から続く会社なので、自分も会社を継ぎたいと幼いながらに思っていた。


「強くなりたい」小学生時代

細田小学校に入学、幼稚園が家から離れた地区に通っていて、友達0人スタートでちょいと寂しかった思い出がある。
このころ、幼稚園の友達のじゅんじゅんに誘われてサッカーを始める。
幼稚園の友達に会いたい気持ちから初めていて、サッカーをやりたかったわけではおそらくない。


小学校でも問題児ぶりは相変わらずで、友達のランドセルを用水路に流してしまったり、友達の耳の中にワイヤーを入れてしまったり、毎日、夜9時くらいに家の電話がなるのが怖かった。
なぜならその時間に電話がなるのは、自分の悪さがバレて、友達のお母さんから家に激怒電話がなくからだ。
ただ母から強烈に怒られた記憶はない、やってしまったことは事実か?なんでやってしまったのか?友達に悪いとおもっているか?と聞かれる。
それに正直に答えるといっしょに菓子折りをもって、誤りに言ってくれた。
ある時に、自分は絶対にやっていないが、㑹田くんにやられたと家に怒鳴り込んできた友達のお母さんがいた。
母に確認され、僕はやってないと伝えると、「うちの子はやってないと言っている、悪いことはたくさんするが、嘘はつかない子供です」と逆ギレしていた。
これから、私は母に嘘をついたことは一度もない。自分を信じてくれる人だと認識した。
また逆パターンで、上級生や複数人から喧嘩を売られて負けることがあった。
この頃の経験で、want toの「強くなる」が形成されたのかもしれない。
「あいつら卑怯ものだ!一緒に相手の親に怒鳴り込みにいこうと言っても、一緒にいってくれることはなかった」
やってしまったら誤りに行くが、自分がやられた時は、一緒にはついて行ってくれなかった。
「自分の困りごとは、自分で解決しなさい」という母なりの気持ちだったかは謎だが、そう思っている。

「気付き」中学校時代


そんなこともあり、高砂中学校に入学。
そして3歳から続けていた水泳をやっと辞められる。
実は、姉、弟ともに水泳選手で、二人共、インターハイやインカレなどに出場しているが、僕は水泳が嫌いだった。努力しても変化が見えづらく、体力的に辛い競技だったので好きじゃなかった。
小学校卒業までは、辞めていけない、忍耐だと母に言われていた。
ここでもサッカー部に入部する。
今度は自分の意思で、サッカーを続けることにした
友達と一緒に、勝利をすることに楽しみを感じていたからだ。
小学校までは、サイドハーフだったが、当時の顧問にポジションはどこをやっていたと聞かれ
フォワードですと答えた。点を決めて、試合を勝利に導くポジションをやりたいと思っていたから、嘘をついた。
小学校のクラブチームから一緒だった子もいなかった為、無事にフォワードをすることができた。
中学の1−2年まではベンチ、2年生の後半からレギュラーになれた。
中学2年生から強烈な反抗期が来た、母や家族と一緒にいるとダサいと感じたり、何を言われるのもうざいと感じる、典型的なやつだ。
母への呼び方も基本的に、クソババア、お前の作った飯は食いたくないが口癖になっていた。
母も一歩も引き下がらず、胸ぐらを掴んで投げられたり、ある日は空中をカレーが乗った皿ごと中を舞っていた日もある。向き合い続けてくれた母に感謝だ。
そんな状態なので、中学2年生の1学期が終わると成績がオール2になっていた。
また治安が良い地域でもなかったので、卒業した先輩達が学校の周りにたむろしていて、おそらく高校も辞め、作業着でいる姿を何度も目撃する。
その時、「自分で変わりたいと初めて思った。」これは危機感から感じたことで、
自分もこのままだとこうなってしまう、こうなりたくないと思った。
すぐに母に、塾にいきたいと伝えると、本当に真剣にやり切れるのか?と問われる。
俺がやるっていってんだから、やり切るよと答える。
地元の進学塾の小川塾(姉が通っていた)に入学の意思を伝えて試験を受けるが、不合格。
なんと塾にも入ることができなかった。笑
中学の丸1年、勉強したことが一度もなかったからだ。
小川塾の塾長から、入学の許可はできないが、先生の家庭教師を紹介していただいた。
当時、英語が5段階中、1の成績だったので英語から始めることにした。
勉強を始めると、なんと楽しいという感覚になり、半年後には英語で5を取っていた。
そして、英語が好きになると、他の教科もできるんじゃねという、なぞのエフィカシーが発動。
数学の家庭教師も初め、すぐに成果が出て、小川塾も無事合格。
2年生の後半から小川塾も通い初めた、そして学校での問題行動も取らなくなる。
なぜなら、成績を上げるには先生の評価を上げなければいけない、先生とも積極的にコミュニケーションを取るようになり、劇的に成績も向上、成績もオール5に近い状態になる。
中学1年生の音楽の先生は、やんちゃ時代の私が好きでなかったのか、試験が80点でも3だった。授業中に抜け出したり、楽器を粗末に扱っていたので、しょうがないと思っている。
サッカーの話しに戻ると、頑張って続けていて、中学3年時には区大会を優勝。
地区では、一度も負けずに強いチームになっていた。
ただ最後の大会、一度も負けたことない相手にまさかの初戦敗退。
理由は単純明快で、おごりと怠惰なチームとなっていた為だった。
大会前にチームメンバーが悪さをして、連帯責任でランニングをさせられたり
ただチームメンバーは皆、なぜ自分たちが走らないといけないだとう空気があり、そのメンバーとの仲がとても悪い状態になっていた。
気持ちが一つでないチームこそ弱いものはない、そうこのできごとから学んだ。
高校は母親から、あんたは絶対に高校生活で勉強しなくなるから、大学が付属の高校にいきなさいと強い進めがあった。ただ、男子校と家から30分以内の高校以外はいやだという謎のこだわりが発動した。
その希望を叶えられる高校かつ、付属の高校は2校しかなく、進路選びは秒で決まった。
2校とも受験して合格し、日本大学付属第一高等学校に入学。
かなり適当に決めた感もあるが、とても良い選択だったと思っている。

「家庭崩壊」高校生時代

高校でもサッカー部に入部、
中学時にも対戦して勝っていたので、弱いチームと思って入部。
チームは弱かったが、まさかのコーチが外部コーチで鬼軍曹みたいな人。
しかも理不尽の極みみたいな人で、朝練で6時起き、練習後に家に帰るのは9時ごろボールを蹴ることはできず、走り込みばかり。

心の中で、これは自分のやりたいことなのかと自問自答。

そして半年後に、同級生が悪さをして、全員坊主の命令が下る。
おいおい、ここはサッカー部だぞ、そして弱小チームなのに坊主って意味わからんやろ。

小学校から続けたサッカーを、辞める決断をする。
母に報告し、自分がそうしたいならそうしなさいと。
常にやりたいことや、意思決定には自分で責任を取りなさいという姿勢で接してくれた。

いざ部活をやめてみると、高校生活は暇との戦いになることに気づく。
帰宅部の友達と、ゲームセンター、カラオケ、ボーリングと毎日ただただ遊びつくしていた。
そして高校の友達との遊びにも飽きてきて、地元の中学時代の友達とも遊ぶようになっていた。

荒れていた高校時代。


当時よく遊んでいたメンバーの半分は、高校を中退していた。
夜な夜な遊ぶようになり、仲間に入るために社会的に禁止されていることもたくさんしてしまった。
たばこやお酒も初めてしまい、その頃から身長がまったく伸びなくなってしまった。笑

その果てには、高校2年生の夏には警察のお世話にもなり、父親と母親からビンタされ、自分の人生を考えなさい、目を覚ませと言われるエピソードも経験。

こんな生活を送っていては、学校の成績も右肩下がりで中学校と同じようにオール2に近づこうとしていた。
自分の将来を考えるようになる、「自分は将来何をしたいのか?」父親の会社を継ぐことを昔から夢見ていたが、大人になるに連れて、大変なんじゃないか?自分にできるのか?という問いから、なりたいと思わなくなっていた。
どんなことなら熱中できるか?何になりたいかまったく思いつかなかった。
次に自分の尊敬できる仕事は何か?と考えた時に、3歳から通っている歯医者さんのことを思い出した、調べてみると、歯科技工士という仕事があり、早く自立したいということもあり20歳から働き始められるこの仕事でいこうと決めた。周りの友達も働いている人も多く、自分で早く稼いで自立したいという思いが常にあった。
母親と父親に「将来歯科技工士になりたいから、大学はいかずに専門学校に行く」と伝える。
母親からは、どうしてその仕事がしたいのかと聞かれ、「歯医者さんの先生に憧れていたことと、早く自立したい」と伝える。
父からは、「父、母ともに大学を出ていないから、行ってほしい」と言われる。
そして、「大学卒業をしていると、生涯の年収も上がる」と伝えられる。将来的に自立という意味では、そちらの方がいいんじゃないか?
私「大学に行って、高い学費を払ってもらっても、大学で学びたいものもないし、お金の無駄になるかもしれないが、本当にそれでもいいのか?」
父「大学は全国から色んな人が通ってくる場所で、そこでの人の出会いもある、それだけでも行く価値がある」
実は私自身、自分の成績が低いこともあり、大学に行くのは無理かもしれないから、大学に行かないで、親も納得してもらえる進路を探していたことに気づいた。
そして最後に、「龍」なら勉強すれば大学くらい行けるだろと父に言われ、勉強することを決意。
そこからは、地元の友達とも距離を取って真剣に学校に通い始め、塾に入る。
ただ中学校の時と違うことが起きた、1年半まったく勉強していなかったので
学力がほとんど中学校で止まっており、勉強してもまったく追いつけない、一向に成績は上向かなかった。
日本大学の付属の高校は、大学にいく道が3つある。
1つは、他大学の特進コース、2つ目は、推薦での大学入学、3つ目が付属の高校生のみで行われる統一試験。
私は3つ目の統一テストで、大学を目指すことになる。
この頃の受験勉強は記憶はあんまりなく、つまらなかった印象がとてもある。
おそらく自分のなりたい未来、どの大学に行ってどんなことを学ぶのかをGOAL設定できていなかったからだ。
そんな状態で受けた統一テスト、結果はもちろんうまくいくはずもなく
当時の点数から入学できる学部は、法学部の2部(夜間帯)、生産工学部の2つのみだった。
理系は勉強したくないと思っていたのと、今後仕事をする上で法律を勉強しとくのはいいかと思い
法学部に入学することを決意。
ちょうど受験が終わって、進路が決まり時間ができたので、自分のやりたかったことをやろうと思った。「バイクに乗りたい」ということだ。昔に父がバイクに乗っていたのと、地元の友だちもみんな乗っていて、風を切る感覚が好きで自分も免許を取ろうと思った。
母親から18歳になると、車の免許代で30万円をプレゼントすると言われ、これだと思いネットでリサーチ。バイクの免許が合宿だと15万円、地元の教習所でバイクの免許を持っていると車の免許も15万円で取れることを見つけ、翌日には申込み。
高校の授業も残っていたが、単位を取っていたので、2週間休んで行くことを決め翌週には静岡の合宿所へ。原付き自動車以外は初めての運転だったが、楽しく順調に免許取得を進めていた。
ある日、母から鬼電が来ていてかけ直すと、学校から電話があり「なぜ学校に来ないのか?」数学の授業の単位が足りていないので、次の授業に出ないと卒業できないぞとのこと。
バイクの免許は校則で禁止されていて、バイクの免許の合宿で静岡にいるので授業にでれないとは言えない状況。
母親に、学校に言って風邪を引いて学校にいまは行けないが、来週には行く旨を伝えてほしいと伝える。母や高校まで出向き変わりに謝罪と、来週には学校に行く旨を伝えてくれ、なんとかなった。
改めて振り返っていてもめちゃくちゃな息子で、母への感謝がこみ上げてくる。笑


無事に免許も取れ、父に借金をしてバイクも購入。学校も単位が足りなかったのが数学で、2年生のときの担任の先生が担当だったので、交渉してレポート10枚を別で提出して、無事に卒業できることに。
個人的には順風満帆に思えたが、これから家庭が壊れていくことが起きる。
まず母親から、ちょっと話しがあると言われ、話しをすると
いつも明るい母が突然号泣をして、話し始めた。

  • 父親が不倫をしていて、別で家庭を持っていること、そちらにも子供が一人いること

  • 父の仕事がうまくいっておらず、数億円の借金があること

  • 母は父の会社で経理業務を手伝っていたが、祖父、祖母(母からは義理の父、母)からいじめられていること。

    • 昼食はみんなで食べるが、母のご飯は用意されないなど

母は私が18歳になったので、いままでずっと我慢していたがもう離婚して別々に暮らしたいということ。
私にどっちについてくるか、決めてほしいと伝えられる。
もちろん母について行くと伝え、同時に父への憎しみの心と、心の何処かで父の会社を継ぎたいと思っていたが、その思いも完全になくなった瞬間だった。
18年間住んだ、家からも引っ越して、母と姉、私と弟と新たな生活が始まった。
離婚の話しも、父と母が直接話したくないという状態だったので、私が調整役になって、生活費の条件や車、家の約束を決めた。
こころの何処かで、自分のわからない範囲で物事が決まり、自分勝手をしている父に負担を強いてやりたいという気持ちがどこかにあった。
父も、息子から交渉されているので折れざるを得ないということも意識して交渉していた。
そして名字が、㑹田→会田に変わった。
無事に交渉が済んでから、父親とはその後、5年間一度も会うことはなかった。
2019年に一度会い、その後は今まで一度もあっていない。
自分の中では、解決したことなので、このことへの負の感情はもうない。
一つだけ、学びがあるとすると反面教師にして、自分は家族との時間を大切にして将来自分が死ぬ時に、自分の子供や孫に囲まれて、幸せな人生だったと思える人生にすることだけだ。

「バイトリーダー」大学時代

そんな怒涛の時間を経て、大学に入学する。
ただここでもGOALを定めず通っていたので、だんだんと大学に行かなくなり、時給の高かったパチンコ屋でバイトを始める。
同級生〜2,3個上までの方が多く、バイトにのめり込んで行った。週5日でバイトをして
1年後にはフロアリーダーになり、大学にもほとんど行かなくなった。
稼ぎもある程度あったので、家も出て一人暮らしを始める。
おそらく「自立したい」自立=格好いいと思い込んでいた。
大学2年間があっという間に過ぎようとしていた。大学にもテストの時しか行っていなかったので
2年時の終了時の単位が、48単位しか取れていなかった。
また自分の将来を考える時間があった、このままだといい方向に行かないのは分かっていた。

ある時ニュースで、「楽天の社内公用語が英語になる」というニュースを見た。
「ん、これは英語を話せるようになったら人生変わるかも」と思った瞬間だった。
英語は「How are you ? I’m thank you and you ?」しか知らなかった。笑
TOEICも300点台。
ただ昔から映画が好きで、海外にはすごく行ってみたいと思っていた。
まずは、新宿にある留学エージェントに行き費用とプロセスを確認。
費用の見積りを持って、久しぶりに実家に帰り母に留学したい旨を伝える。
費用は250-300万円で、自分で貯めた100万円があるから、残りを借りたいと伝えた。
母は将来の結婚式の費用を貯めてくれていて、100万円出してくれると言った。
「自分がやりたいなら、行ってきな」と背中を押してくれた。
パチンコ屋でバイトをしていたが、実はギャンブルは必ず負けると分かっていたので
毎月5万円は貯金していた。
大学にも休学届を出して、学生ビザがすぐに降りなかったのでワーホリのビザを取って
カナダのトロントに1年間留学することが決まった。
ビザがギリギリ過ぎて、飛行機のチケットを取ったのも1週間前だった。
ここまで1ヶ月半くらいのできごとで、重要なことを忘れていた。
英語の勉強をまったくしていなかったので、How are you ?しか知らない状態だった。

だエフィカシーは高く、行けばなんとかなるだろうと思っていた。
行ってもなんとかならなかった。笑
入国審査で、何を言っているかまったく分からず、帰りのチケットを持っていないことを怪しまれて別室に連れて行かれ、英語での質問攻め。まったくわからない。
I’m Japaneseを連呼、何を聞かれてもI’m Japanese。
3時間経って、日本語の通訳の方を連れてきてくれた。すべて伝えて無事入国。
ホームステイまでの送迎をお願いしていたが、誰もいない。
3時間も経っているので、帰っているに違いない。
公衆電話で現地エージェントに電話をしようとするも、一人で行く初めての海外で
現金は100ドルを10枚とクレカしかもっていない。
公衆電話はデビッドカードと硬貨しか使えない。電話かけられないやんとなり。
30分くらい、どうしようとベンチに座っていた。
いきなり「Are you Ryunosuke ?」と話しかけられた。
Yes !!と答えると、日本のエージェントに入国してないと連絡をしてくれて、飛行機には乗っているのでもう一度、迎えにいってくれと伝えてくれたみたいで、なんとかホームステイ先まで送迎をしてくれた。
ホームステイ先は、イラン人の夫婦で、ブラジル人のルームメイトと共同生活が始まった。
ブラジル人のルイスは、2ヶ月前に留学に来ていて、年下だったが頼りになるやつだった。
相手が何を言ってるのかわからない、自分の言いたいことも家ない3ヶ月がスタートした。
ゴミ箱はどこですか?と聞きたいが、ゴミという単語を知らない。
学校までバスと電車を乗り継ぐ必要があるが、ルイスなしではどこにも行けない。笑

ルームメイトのルイス


ホームステイ先の料理がイラン料理で、何も食べられず痩せていく日々。
そしてせっかく作ってくれた食事に「I don’t like it」というかなり失礼なワードを発していたことで、嫌われてしまい、ハンバーガーが毎日出るようになった。結局ホームステイは3ヶ月の契約を1ヶ月半に短縮してもらい、早めにでることに。
契約が切れるまでに家が見つからず、一時的にホームレスに、ホテルに滞在しているフランス人の友達が留めてくれることになり、ホテルの床で1週間生活。
ようやく家が決まり、サウジアラビアのルームメイトとシェアハウスで生活することになり。
自立が好きな自分にとっては、とても過ごしやすい日々だった。
そこからダウンタウンにより条件が良い物件があったので、もう一度引っ越し。
留学中をしてとても良かったと思える、気付きがあった。

1つは、GOALを持つということ。色んな国の人と出会い、楽しい日々だった。ある時、気づいたのが出会う海外の友人達はみんな明確なGOALを持っていた。「母国で弁護士をしていて、カナダで弁護士を目指している人や、家具の輸入の商売をする為に英語を勉強しに来た人、キャビンアテンダントを目指している人」GOALを持っている人は、キラキラして見え、それに向かって努力をしていて、心が強い人が多いと感じた。留学中に自分もGOALを持とうと決めた。2つ目は、日本にはないビジネスがある日本からでないとわからない世界、海外には日本にまだない、ビジネスも多くあるということ。当時、カナダにいる時にジムに通い始めた。みな健康への意識が高く、ジムに通って体を鍛えるのが当たり前の文化だった。駅直結の24時間に通っていて、これはめちゃくちゃ便利だなと思っていて、日本には当時なかった。帰国して3年後くらいにAnytimeが爆発的に広まった。こういったことが、たくさんあるんだと思った。


2013-14年をタイムズスクエアで年越しした時
-10℃の中、半日耐え忍び修行

3つ目は、妻と出会ったことだ。留学中は、英語を勉強する為に来ているので日本人の友達は作らないと決めていた。カナダで半年くらいが経った頃に、カナダのケベック出身のローラという女性が同じクラスになった。ケベックはフランス語圏なので、英語を勉強しにきていた。その夜のパーティに誘うと、隣に座っている女の子も一緒に誘った。それが和加奈、今の妻だ。その日は、ほとんど話さなかったが、その後も取っていたクラスが一緒で度々見かけ時折話す中になった。ある日ルームメイトのルイスと一緒にアウトレットに行くことになり、和加奈も誘って一緒にいくことにした。その後に食事に言った際に、将来の話しになり、目を輝かせながら、私はCAになる、その為にカナダに英語とホテルでインターンをする為に来たと言っていた。私はその時、ああこういう人が自分の夢を叶える人だなと強く思ったことを今でも覚えている。出会ったときは、まさか付き合うとは、結婚するとは夢にも思っていなかった。留学中に自分のGOALを弁護士になると決め、日本に帰国した。


帰国後は、大学にも通い、全ての授業で一番前に座り、予習もして授業に望んだ。3年時はフル単位の48単位、2年間掛かった48単位を1年で取れた。3年時の終わりに久々に母に会い、弁護士になろうと思うと伝えると、どうしてやりたいのかを聞かれた、その時に離婚の話しをして、自分達のように理不尽な思いをしている人に寄り添える仕事がしたいと伝えると。母は弁護士になる大変さと、時間がかなり掛かる話しをしてくれ、龍が本当にしたいことをしなさい。私のことは良いからと言われ、たしかになと思い、弁護士になるというGOALはそこで辞めることにした。心のそこからやりたいGOALではなかった気がする。留学中に立てたGOALだからと、いつしかやらなくてはいけないことに変わっていた。4年時に就職活動が始まったが、弁護士になるGOALがなくなったばかりだったので全然身が入らない。当時は留学中にMade in Japanにとてもバリューがあることを知り、製造業を中心に選考を受けた。そして、PanasonicとKUBOTAのグループの建材メーカーに入社を決めた。製造業と海外進出、アメリカとロシアを強化するとのことで海外駐在の枠で採用してもらった。妻は大手航空会社から内定を無事にもらい、夢を叶えていた。

「自分の人生への向き合い」社会人生活スタート

そして社会人1年目、日本の市場を理解するという理由で、東京の営業所に配属になる。
1年目は、まったく成績が出ずに、上司の藤田課長に叱責をいただく日々。
当時はだいぶ反抗していたが、今思うとここまで叱ってくれた上司に感謝だ。
自分自身の今の社会人としての基礎を築いてくれた、大切な時間だった。
2年目以降は、順調に営業成績が伸びた、その後、13ヶ月予算連続達成と営業部で1位の成績を出すこともできた。
人とのご縁を大切にすること、約束は必ず守ること、人と違うことをすること。
この3つを心がけて、仕事をしていた。


2年目の終わりのころに、上司に誘われてゴルフを始める。
おじさんのやるスポーツと思っていたが、こんなにも奥が深く、難しいスポーツは他にないと思いドハマリする。3年目はお客さんとの接待ゴルフも増えて、週に3−4回は練習含めてゴルフをしていた。
またこの頃から、いま思い返すと自分のwant toの「強くなる」をやり始める。
学生の頃から好きだった、筋トレを復活した。
たまたま見たニュースで、当時の大統領のオバマさんは、忙しい中、運動は欠かさずしているという記事だった。いつやってるんだと思うと、毎朝5時から運動していると書いてあった。
いや自分の方が確実にオバマさんより、暇でしょ。これはできるなと思ったが
朝からやっているジムはなかった。たまたま家歩いていると、マンションの1階に24時間ジムがオープンすることを知り、すぐに申し込んで、平日は毎日5時半に起きてジムに通い始めた。
夜は自分に言い訳ができたり、会食が入るので朝は起きればいけるという、自分との戦いが始まる。
その頃の営業成績は非常に好調だったので、慢心も重なり、営業先の合間の3時から打ちっぱなしに良くいっていた。朝ジム→営業→ゴルフ→営業→帰宅、そんな日々を繰り返していた。
次第にこんな人生で良いのか?と自問自答するようになるが、大手で安定とは怖いもので、これを辞めるのは中々もったいないなとも思っていた。
営業成績が良かったので、3年目の中間のフィードバックで、いつになったら海外に赴任できるかと上司に確認すると、今の会社の状態だとマネジメント層にならないと海外に赴任できないとのことだった。マネジメントになれるのはおおよそ何歳かと聞くと、40歳との回答だった。
会田は優秀だから、30代でなれる可能性もあるとのこと。あと10年ここで過ごすのかと思うとゾッとしていた。なぜならビジネススキル的には、2年目から自分が成長している感覚がなかったからだ、ゴルフを除いては。。
そして1ヶ月が経った頃、自分の運命を帰る日が突然やってくる。
その日も仕事を終えて家に帰ると、当時の彼女の妻がが真っ暗な部屋のソファーに座っていた。
びっくりして、どうしたの?と尋ねると、話しがあるとのこと。
ただならぬ雰囲気を感じ、フローリングに正座、「浮気はしてないぞと自問自答」
間があいて、「龍は自分の人生を行きているのか?上司の悪口やゴルフばかり、自分で起業するっていってるけど、それに向けた行動をしているのか? 私はそんな龍さんを見たくて一緒にいるんじゃない」と、自分が言われて一番いやなことを正面から叩きつけてくれた。
ぐうの音も出ないとはこのことだった。「おれやるわ!」と回答して、この危機は終焉した。
そこからまず本屋に行き、片っ端から本を読む生活をした。年間100冊と目標を立ててとにかく色んなビジネス書を読み尽くした。
ある日「自分の中に毒を持て」岡本太郎さんの本に出会った。
「人間にとって成功とはいったい何だろう。結局のところ、自分の夢に向かって自分がどれだけ挑んだか、努力したかどうか
危険だ、という道は必ず、自分の行きたい道なのだ
このワードが心に突き刺さった。妻に言われたことと一緒なことでもある。
自分にとっての危険な道=会社を辞めることだった。
「明日、会社を辞めると言おう」と決断して、その日の夜に上司の二人に明日話しがあるので8時〜30分時間をくださいと伝える。
次に何をするか、どうしていくかも全く決めていなかったが、ここで辞める決断をしないと一生辞められないとも思った。
他の本で読んだことも活かせた。

やる決断をして、期限を切る、4ヶ月後の2020年の3月末に退職することを12月に決めた。
いままでの経験で、追い込まれれば追い込まれるほど力を発揮するタイプなので、次の会社や起業など何も決まっていないが、4ヶ月間で自分を追い込む意味で次の日に辞めることを伝えることを決めた。
次の日出社するタイミング、社会人1年目の日より嬉しい気持ちで出社した。
ただ実際に辞めることを上司に伝える際は、3年半の思い出が溢れて号泣した。
上司からすると、次の職場も決まっていないとのことから、こいつは仕事から逃げたいのか?と思われていたに違いない。また部長からは、食事に誘われ、起業するのは大変だし、簡単に成功しないぞ。お前なら、うちの会社で役員になれる。もう一回考え直せと言われた。
私はこの時、たしかに部長の年齢から起業するのはリスクがあるが自分の年齢なら可能性しかないだろと思っていた。
そしてこの時期にもう一つの決断をする、離婚以来あっていなかった父との再開だ。
今後の未来の自分にとって、育ててくれた感謝と今までのことを許すと直接伝えることで、負の心が解消されると思ったからだ。
父にメールをして、地元の喫茶店で数年ぶりに再開した。
すこし白髪が多くなった印象だったが、元気そうだった。突然連絡してくれてどうしたんだ?
父の行いは許されることではないと思うけど、自分は許す。いままで育ててくれた感謝を素直に伝えた。父は、「龍がそんなことを言ってくれるとは思わなかったと」涙を流していた。
父の涙を見るのは、生まれて初めてだった。
心がスッキリして、自分の人生をまたリスタートできると思った。会って良かったと心から思えた。
それからは業界分析や海外の記事を読み漁り、今後伸びていくのはIT、AI、SaaSと分かった。


その時に立てたGOALが「世の中をサービスで幸せにする」ことだった。
ただまったくITの知識も何もないので、GOALに現実感を感じず、起業できるイメージすらわかない。
次の会社で修行だと思って働いて、起業しようと決めた。
AIの会社は、スタートアップが当時もあったが、営業をどこも募集していない。
自分には営業しか当時できるスキルがなかった。
SaaSの営業と、ITのコンサルティングの会社を中心に受けた。
3月末の退社が決まっていたが、中々採用してもらえない。ただ筋トレだけは続けたいた。
時代は2020年である、そうコロナの襲来、これは完全に無職コースが濃厚になっていく感覚がした。

明治神宮で転職活動の成功を祈る


1通のメールが返信されてきた、HPからダイレクトで応募した。
サーキュレーションというベンチャー企業からだった。
IT領域の新規事業部署のコンサルタントを募集していた。
1回目は圧迫面接系で、なぜなぜを繰り返されて、なぜのその先を考え続けたのは始めただった。
事業部長、取締役と順調に進み、社長との面接は、「会田くんは運はいい?」と聞かれ、めちゃめちゃ運いいです!今日社長に会えたのでと伝えると秒で内定をいただく。
無事に転職先が決まり、あまり寝れなかった日々ともさよならできた。

「人生を変えた転職」

2020年4月、3年以内に起業することを胸に決めて入社。
営業のスキルはあったので、なんとかなるだろうと思っていたが、半年間まったく結果が出ない。
コンサルテーションのスキルがないので、ヒアリングや要件をすり合わせることができず、結果押し売り的なクロージングになってしまっていた。
すぐに上達するものではないと思っていたので、自分のコントロールできる範囲、行動数を徹底的にやり込んだ。他の人が100件の架電をしているなら、自分は1,000件、1ヶ月の訪問数が10件なら自分は30件、とにかくアクションと自分でやりきれるアクションを続けた。
偶然に大手のSIerさまから受注をいただけた。先輩の取れたアポイントだったが、別のアポとダブルブッキングになっており、行ってほしいと言われたアポだった。そこからは未来が開けた気がして、仕事のコツを掴み始めた。慢心せずに、アクション数は絶対にキープしようと決めていた。



2022年10月7日、仕事でも初受注ができて、7年記念日に和加奈にプロポーズをした。
翌年に結婚式も無事に上げることができた。
仕事も、人の3-5倍のアクション数をして、打席に立っているので確率が低くても受注ができるようになり
質もどんどん上がり、受注率も高くなる。打席数に誰よりも立つの好循環で、1年後には全社のMVPを受賞した。そこで歩みを緩めずに、やり続けて、マネジメントに昇格することもできた。
その直後に会社も、マザーズに上場、これからの会社の成長に期待していた。


いつしか、起業するGOALは薄れて、会社のGOAL=自分のGOALと同調させる考え方になっていた。上司からの期待、メンバーから頼られることにやりがいを感じていた。
ある時に、顧客先でノジさんに出会った。リースさまでCHROに就任したばかりの時だった。
一度カジュアルに話そうと誘っていただき、30分くらいの軽いコーチングをしていただいた。
自分のやりたいこと、いまの会社に入った理由、今後昇格していくことが自分のGOALなのか?と問を立てられ、自分の人生をいきていないなと直感的に感じた瞬間だった。
そこからは、自分が何の事業をやりたいのかを考え、フィットネス✕ITでいこうと決め、学生時代の後輩のカイトと話しをすると、一緒にやりましょうと意気投合。

「サラリーマン起業」

ビジネスモデルを考えて、ピッチ資料を作成、カイトの同期のエンジニアのたかも加わってくれて。2022年3月に、Fitone株式会社を設立。(副業が認められてなかったので、本業の会社には黙って起業をした)
そこからは、平日の夜、土日に皆で1LDK(妻と同棲)していた家に集まりホワイトボードでビジネス案を出して、インタビューを繰り返す日々。
取引先の役員の方やCTOの方にもピッチを聞いてもらい、フィードバックをもらいながら
2023年1月に、フリーランスのパーソナルトレーナー向けのCRMで、事業を進めていくことを決める。
このタイミングで、妻の妊娠が分かりこれからの未来にワクワクする日々を迎える。
本業でも変わらず、成果を出し続けて、全社MVPや半期のMVP、チーム賞を取り、いただいてない賞がないくらい、結果を残すことができた。今思うと、これがコンフォートゾーンで、とても居心地の良い状態になってしまっていた。

社内のMVPを受賞


2023年3月にノジさんと久しぶりにランチにいき、現状の共有と柔術を紹介していただた。


Yawaraとも出会い、筋トレを10年続けてきた自分にとっては、心から楽しめる趣味とも出会えた。
CRMのサービスは半年かけて、更にインタビューと開発を進める。さらに二人のメンバーもジョインしてくれて、合計5人のチームで、リリース目前までこぎつける。
6月に子供が生まれて、7月にはサービスのリリースだと張り切っていた矢先。
2023年4月、本業の会社で不祥事が発生して、当時担当していた顧客の8割の契約が解除になることになった。
会社に対して、自身の評価への不満が溜まっている時期と重なり、自分やプロジェクトの質は高いのに、会社の不祥事で契約が継続できないという事象をどうしても許すことができなかった。
心の中でこのまま会社に居続けることはできないと思っていたが、6月には子供も生まれるし、7月にサービスリリースがあるし、と辞めれない理由を探す日々が続いた。。
ある日、先輩にいまの状況を話すと、リスクはあるけど退職して自分の法人で業務委託で働きながら生活費や事業のキャッシュを稼いでいくのが良いんじゃないかとアドバイスをくれ、具体的な会社も紹介してくれた。
やりたい気持ちはあったが、本心では妻は子供が生まれるタイミングでの独立を許してくれないだろうと思っていた。
その日の夜に妊娠中の妻に話すと、「龍さんがチャレンジしたいんならいんじゃない、いまの環境で不満がありながら働き続けるよりもいいんじゃない」とまさかの肯定的な意見。
覚悟は決まった、翌週の月曜日に上長に退職する旨を伝えた。


2023年6月11日に、第一子の成志(じょうじ_志を成すという意味を込めた)が爆誕。
2023年6月末に、3年半お世話になったサーキュレーションを卒業。

「完全に独立、これからの未来へ 」


7月からは、独立してコンサルタントとして業務委託で働き始めた。
パーソナルトレーナ向けのCRMサービスも無事リリース。
順風満帆に思えたが、CRMのサービスはフリーランスのトレーナーに100人ほどインタビューをしてリリースしたアプリだったが、まったく利用者が増えず、インタビューを受けてくれた人たちも20人中2人しか継続利用いただけない状況だった。。
新規事業をするときの、顧客の課題設定が甘かった、課題感がかなり低かったことが原因だった。
そこからは顧客のピボットで店舗を構えている、パーソナルジムにシフトした。
営業活動をして、1ヶ月後になんとか導入してもらえる店舗が見つかった。
毎週ミーティングをして、改善要望を伺ってサービスの改善に努めた。
だが、最終導入は見送りとなってしまった。
当時の感覚は、自分の生み出した我が子が、世の中から否定されているような感覚だった。
やるせない気持ちになった。
そしてコンサルタントの仕事も危機的状況を迎える、ご契約いただいていた会社の大幅な予算縮小で、150万円ほどの利益が翌月からなくなることになってしまった。
新規事業もうまくいかない、既存の事業の利益も大幅になくなる。妻にもすぐに相談することができなかった。寝れない日々が続いた。
ある日、夕飯を食べながら、ポロッと涙が出てきた。妻にどうしたの?と聞かれ
いまの現状を話した、大丈夫と暖かい言葉をかけてくれると期待している自分がいたが、まさかの一言。
「龍さんは、本当にすべてのことを自分に悔いがないくらい、やりきれたのか?」
「私から見ると、まだまだやれることがあったと思うよ」
「次に何かするときは、やりきったなと胸を張れるぐらいやりきりなよ」
「そんなメソメソしている時間があるなら、次にやることを考えなよ」
とまさかの愛のこもった励ましで、復活!!
2024年2月に完全に、CRMのサービスを終了することを決める。
創業当時から一緒にやってくれた、カイトは引き続き一緒に活動すると行ってくれて、二人で新規事業のリサーチを始める。
「アジアで事業をする」をGOALに市場調査を進めている。
また2024年4月に、業務委託先との会社の契約も解除して、Fitone株式会社が完全に独立して事業を行っていくことを決める。
その時に、Mindsetのコーチングスクールを思い出す。自分のGOALを達成するにはこのタイミングで、コーチングを勉強したいな。もうすぐ1歳になる成志にもコーチングをしてあげれるかもしれない。
妻にもOKをいただき、翌週には申込みをした。
そしてコーチングが始まるまで、あと1週間というタイミングで、第二子の妊娠が分かり、将来にさらにワクワク感を持って、いまこの自分史を書いています。
この半年間のコーチングスクール期間で、必ず自己変革をして、人生のGOAL設定、それを達成するマインドを身につける。
自分の人生を振り返るきっかけをくれた、李さん、Mindsetの皆さん、妻に感謝し結びといたします。
ありがとうございます!


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