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祈りと遊びと暮らし

浜松の磐座を検索していた時に見つけたこの場所
写真を見ただけで涙が出てきた。

ここに行こう、と決め浜松駅から
バスと徒歩で向かった。



本殿裏にある巨石は一つだけかと思っていたら
複数あり、足を踏み入れた瞬間懐かしさに包まれる。

祝魂歌を奉納すると風が吹き、太陽の光が差し込んだ。この場所に限らず、磐座に対して「懐かしさ」を感じて止まない。



特に今年に入ってから「土に触れたい」欲が急に高まり、大地に根づき自給自足ができるような生活様式にしたいという思いが強くなったのも、縄文のDNAが求めているからなのだろうと思う。

実際に今、村づくりをしているコミュニティに足を運んだり、自然と共生している人たちがいる屋久島にも8月に行くことを決めた。

自然と共にあることが、当たり前の時代
大地を感じ、大地と共に生きていた時代

昨年、多拠点生活をしながら各地の神社や土地を巡ってきたが、そんな生き方が強く求められているように感じられてならない


天白磐座遺跡を訪れたこの日、前日〜朝にかけて大雨が降っていた。鳴岩の近くに神宮寺川が流れており、雨の影響で濁流になっていた。

木の根っこに腰をおろし、ぼーっとその川や巨石を眺めていたら「あぁ、この場所は祈り、遊び、暮らし全てがここにあったんだ」とそんなことを感じるイメージを視た。


川で水遊びをする子どもたち、禊をする者
祭祀を行い、この山や川の恵を戴き、
めぐるいのち


祈りは遊びの中にある
そんなことを感じた数日後、たまたま図書館で手に取った本に遊ぶの語源は「神遊び、神楽を演じる」とあり驚いた。

そうだよ、と答えをもらったような感じだ

ちなみに神楽とは…
日本神話の神様にささげる歌や踊りで、天岩戸開きの時に、アメノウズメが踊ったことが神楽の起こりだと言われている。

祈りの神事は遊びそのものだったということ。




この瞬間、大切なことを思い出した。


なにか特別を目指さなくていい
高尚なものにならなくていい
ただ、この肉体をもって遊びたいだけ
地球をあそぶ

使命やら能力やらに意味づけされず
遊ぶように生きる

その中にこそ大切なものがある
全力で遊んでいる人、楽しいところに人は集まる

play ◃▹ pray



そして、自分の中に新たな指針ができた。
それは、暮らしを遊ぶ ということ


暮らしの中にすべてがある。
住う処の自然や大地への感謝は祈りでもあり、
自分の命の営みの基盤となる生活をより豊かに
アレンジし工夫するのは遊びそのもの。


年内にはそんな暮らし(リアル奥宮づくり)をスタートすることを目標に、今は、実際に足を運び経験をしている最中。

どうカタチになっていくか…
楽しみだな


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