漫画と落語:田河水泡『のらくろ』 12
爆弾三勇士と『のらくろ』の昇進
田河水泡が『のらくろ二等卒』の連載を開始した1931(昭和6)年の時点で、掲載誌の「少年倶楽部」の発行部数は67万部を記録していた。加藤謙一から須藤憲三へと編集長の座が引き継がれてからも部数は伸び続け、1936(昭和11)年には75万部に到達した。
この人気雑誌のなかでも目玉となった作品が『のらくろ』シリーズだ。当初は「2年目には上等兵に進級させて、現役2年で満期除隊」を予定していた連載期間は、1年、また1年と延びていき、それにともなって「のらくろ」は作中で着々と昇進していった。
それにあわせて作品タイトルも以下のように改題していく。なお、昭和10年以降は、毎年の新年号に『のらくろ』の別冊付録がついている。
『のらくろ二等卒』:1931(昭和6)年1月号~12月号
『のらくろ一等卒』:1932(昭和7)年1月号~5月号
『のらくろ上等兵』:1932(昭和7)年6月号~12月号
『のらくろ伍長』:1933(昭和8)年1月号~12月号
『のらくろ軍曹』:1934(昭和9)年1月号~12月号
『のらくろ曹長』:1935(昭和10)年2月号~12月号
『のらくろ少尉』:1936(昭和11)年2月号~12月号
『のらくろ中尉』:1937(昭和12)年2月号~12月号
『のらくろ大尉』:1938(昭和13)年2月号~12月号
前述したように、『のらくろ』のそもそものアイデアは「子供に人気の『犬』と『戦争ごっこ』を組み合わせた」ことに由来する。読者に受けそうなアイデアを作品に取り入れていく発想方法である以上、世間の耳目が戦争に向けば、漫画も戦争色が強くなる。『のらくろ』が戦争色を強くしていったのは、世相を反映した結果といえるだろう。
1931(昭和6)年9月18日に勃発した柳条湖事件を契機として、日本は太平洋戦争に至るまでの長い戦争期に突入する。いわゆる「十五年戦争」と呼ばれる時期だ。
この戦争期の序盤の1932(昭和7)年2月22日、上海郊外で陸軍の一等兵3名が敵陣を突破して自爆し、突撃路を開く出来事があった。当時の陸軍大臣はこの3名を「爆弾三勇士」と命名。メディアはおおいに喧伝し、多数の映画や軍歌がつくられた。同年4月にポリドール・レコードから発売された「爆弾三勇士の歌」を作詞したのは、慶應義塾大学の教授をしていた歌人・与謝野鉄幹である。
この「爆弾三勇士」ブームは『のらくろ』にも影響を及ぼした。『のらくろ一等兵』の最終回(「少年倶楽部」1932年5月号掲載)、「のらくろ」の所属する猛犬連隊は山猿軍と交戦中で、敵の鉄条網を爆破するために3名の兵隊がブル連隊長に決死隊を志願する。
3名の自爆で鉄条網を突破した「のらくろ」は、敵の総大将を捕縛し、その戦功で上等兵に昇格するのであった。最後のコマでは、「のらくろ」は戦死者の慰霊碑の前で次のように嘆く。
ここで「戦死」と明記されている点に驚かされる。『のらくろ』シリーズは、基本的にはコミカルで、のほほんとした雰囲気の作品だ。「犬の兵隊ごっこ」ならではのユーモアに包まれていたのに、この「爆弾三勇士」のエピソードだけ、明らかにリアリティラインが異なっている。
この後、『のらくろ』はもう少し直接的に、軍と関わっていく。田河は以下のように述懐している。
二・二六事件とメディア統制
1936(昭和11)年の冬は雪が多く、2月4日の積雪は28センチ、23日の積雪は観測史上3位となる36センチにも達した。23日の雪がまだ残っているうちに、26日未明からも大雪となり、都心の交通機関は麻痺していた。
こうした状況下で起きたのが、二・二六事件である。この事件は陸軍の青年将校らが下士官を率いて起こしたクーデター未遂であり、反乱部隊は首相官邸を襲撃する一方、東京朝日新聞社、日本電報通信社、報知新聞、東京日日新聞社、国民新聞社、時事新報社にも機関銃で脅しをかけた。
のちに落語家として初めて人間国宝に認定される五代目柳家小さんは、このときはまだ前座(柳家栗之助)で、陸軍歩兵第三連隊に徴兵されていた。反乱部隊の機関銃兵として警視庁占拠に駆り出され、屯所で上官から景気づけに一席演るよう命じられ、「子ほめ」を演ったという。
この事件以降、新聞誌面の漫画から政治ネタが姿を消したとされている。軍部によるメディアへの圧力が徐々に顕在化していき、同年7月には内閣直属の情報委員会(のち情報部)が設置され、「公安維持」の名目のもとに、戦争に向けて世論を形成するための情報統制が行われるようになっていった。
日中戦争と大陸三部作
十五年戦争は満州事変(1931年9月18日〜)、日中戦争(1937年7月7日〜)、太平洋戦争(1941年12月8日〜)の3段階に分かれる。満州事変から盧溝橋事件(1937年7月7日)までの4年間は大規模な軍事行動はないものの、日中戦争期になると日中両軍の軍事衝突は顕著となり、『のらくろ』シリーズにもその影を落としていく。
それまで『のらくろ』の単行本といえば「少年倶楽部」(別冊付録含む)に掲載されたものを加筆修正して刊行してきたが、1937(昭和12)年からは単行本描き下ろしシリーズもスタートする。
『のらくろ総攻撃』:1937(昭和12)年2月
『のらくろ決死隊長』:1938年(昭和13)年8月
『のらくろ武勇談』:1938年(昭和13)年12月
これらを「大陸三部作」と呼ぶ。「大陸三部作」は本編とは別の物語が進行するオリジナル展開であり、ちょうど『ドラえもん』本編と「大長編(劇場版)」の関係を想起すれば理解しやすい。
この「大陸三部作」では、猛犬連隊は豚の国と戦争をする。熊の国にそそのかされた豚の国が羊の国に戦争を仕掛け、羊の国は猛犬連隊に助けを求める……という社会情勢が背景として存在する。
この設定には、日中戦争における日本側の視点が投影されている。熊の国はソビエト連邦、豚の国は中国、羊の国は満州、猛犬連隊は日本、というわけだ。
「大陸三部作」以前の『のらくろ』本編でも、戦争が描かれたことはある。『のらくろ一等兵』では前述のように山猿と戦い、『のらくろ曹長』では河童と戦った。山猿との戦争で「爆弾三勇士」のエピソードが描かれたことはあるものの、これらの戦いはまだ牧歌的で、さながら童話の「猿蟹合戦」的なテイストといえるだろう。
ところが「大陸三部作」の場合、豚、熊、羊と登場するが、それらは特定の国や地域に対するステレオタイプを反映したものであって、山猿や河童とは意味合いが大きく異なる。「犬の兵隊ごっこ」として始まった本編と「大陸三部作」では、描かれる戦争の姿が根本的に違うのだ。
また、この「大陸三部作」の『のらくろ武勇談』では、「のらくろ」は敵の攻撃を受けて負傷してしまう。部下には先に進むよう促すと、部隊は「のらくろ」抜きでトンガラ山を占領し、やがて部下が「のらくろ」を保護しに戻ってくる。このとき「のらくろ」に意識はなく、部下が「あッもうだめかな」「大丈夫だ まだ脈がある」と言うくらいだから、まさに瀕死の重傷だ。
主人公であっても死ぬ可能性がある、というのが「大陸三部作」のリアリティラインなのである。
海を渡る「のらくろ」
1939(昭和14)年、大尉まで昇進していた「のらくろ」は、猛犬連隊を依願免官することになる。なぜ「のらくろ」が軍を去ることになったのか。田河はその理由を次のように述べている。
尉官や佐官が下士官と同様にドジやヘマをしでかしていたら、「皇軍に対する侮辱」とか「不謹慎」とか、不快に思う軍人が出てきても不思議ではない。「のらくろ」はかつてのように、作中でしくじることがなくなった。落語における与太郎的な役割を、もはや「のらくろ」は担えなくなっていたのである。
作中で失敗をやらかすのは、「デカ」や「破片」といった部下へとシフトし、「のらくろ」は彼らを諫める役目に回っていった。だがそれは、コメディ作品の主人公としては魅力を失うことにつながる。
「のらくろ」を軍隊に置いておくことに、田河は行き詰まりを感じていたのではないだろうか。
この時期の田河は、拓務省の嘱託として満蒙開拓青少年義勇軍の慰問活動を行うようになっていた。連載のかたわら、満州まで出かけて開拓義勇軍を慰問し、画の描き方を教えたり、ときには落語を一席演ったりすることもあったようだ。この慰問経験から、田河は「のらくろ」を依願免官させ、大陸で資源開発を行うアイデアを思いつく。民間人として大陸に渡り、開拓事業に従事するようになるのだ。
かくして『のらくろ』シリーズは、1939(昭和14)年2月号から12月号までのあいだに、軍隊生活を離れて大陸行きを企図する。その過程において『のらくろ大尉』『のらくろ守備隊長』『のらくろ大尉歓送会』『のらくろ大陸行』『のらくろ出発』『のらくろ大陸』とタイトルを変えていく。
また、1939(昭和14)年の「少年倶楽部」には、「満蒙開拓青少年義勇軍をたづねて」との随筆を寄稿している。
満蒙開拓青少年義勇軍とは、本土の満16~19歳の男子を満州へと送り込み、農業開拓に従事させる国策事業であった。農家を継ぐことができない農村の次男以下の子弟たちは、この事業に将来を託し、海を渡った。なかには「のらくろ」にいざなわれた者もいただろう。
だが、満州で彼らを待ち受けていたのは、冬場には零下30度を下回る過酷な労働環境と粗末な住環境であった。そして終戦時には、シベリアに抑留された者もいた。