苦味と甘味#08

いつもどちらもなくまたねなんて言葉もなく解散するのだが、この日は違った。
「ちひろこのあと時間ある?」
久々に会えたこと、そして僕はこの後
もし予定があったとしても彼女には
それを言わなかっただろう。
純粋に嬉しかった。
「うん、あるけど、どうして?」
「んー、一緒にほろ苦い思い出を作りにいきたいなーと思いまして。」
「ほろ苦い思い出?」とおうむ返しをしてしまったが、
すぐに脳裏を過ったのはまた会えなくなるんじゃないか。今日でいつものこの時間が
最後になるのか。そういったことばかり考えながら最寄駅へと向かうバスにふたりで乗った。土曜に授業をとっている学生は少ないため、バスは空いている。
いつも1人で乗っていたバスの隣に
ひかるがいる。僕たちの他にも数人乗っていたが、その隙間がより先程の思いを巡らせ、ほろ苦い思い出とは何かと考えさせた。
「ほら、降りるよ。」
気がつけば駅についていて
ごく自然なことのように彼女に手を引かれてバスを降車した。
「で、どこにいくの?」
「さあ?どこでしょう?」
「質問に質問で返すなよ。」
「そこに大きな交差点があるでしょ?そこの手前の細い路地を進んだ先に私だけの場所があるんだ。」
三歩後ろをついて行く形でたどり着いた。
「ここです!」
看板も何もない薄く汚れた元は白だったと思われる外壁の真ん中にドアがある。
よくある、鉛色をした上部に四つに分けられた小窓があるドア。
彼女はトントン、と二回ノックをして
トビラを開いた。
初めて来たのにどこか懐かしい雰囲気と
今にも無くなってしまいそうな雰囲気。
僕が探し回るほどにそういったものを
好んでいることを彼女は知っているかの
ようだった。
そして、ほろ苦いとはこのことか。


と趣のあるテーブルやカウンター席、
なにより鼻腔を刺激する珈琲の薫り。
一番奥のテーブル席に2人で
向かい合って座ると、彼女は
「いつもの、今日はふたつでお願いします。」と店主に声をかけた。
きっと彼女はいつも同じものを頼んでいるのだろう。ほどなくして、アイスコーヒーが
僕らの間にふたつ並んだ。
「これね、ただのアイスコーヒーじゃないんだよ。なんの豆を使ってると思う?」
僕もコーヒーは好きで、それなりに嗜む、ただあまりこだわりはない。朝、起きたらまずタバコに火をつけて、コーヒーをドリップするのは僕の習慣だ。だが、スーパーやドラッグストアにあるもの、たまにコーヒー豆専門店に赴いて、その時の気分で豆を選ぶ。
「コーヒーは好きだけど、飲んでみてすぐに豆の違いが分かるほど僕の舌は肥えてない。」続けて僕は言う。
「それに全く同じ豆でも、焙煎、挽き具合、ドリップ方式、注ぐ熱の温度、入れ方。どこか少しでも違うと味が変わる。この問題はどの大学の試験問題よりも難しい。」
「そこまでコーヒーについてちひろが知ってることに驚いたよ。」
「煙草、吸ってもいいかな?」
「どうぞどうぞ。私は吸わないけど、煙草と珈琲ってなんだか相性がいいらしいね。」
「そうなんだ。なんでだろうね。」
珈琲を僕が、三分の一ほど、味わっていた頃、彼女は言った。
「黒豆だよ。黒豆を使った黒豆コーヒー。」
そんなものがあるのかと、驚いた。
考えもしなかったし、想像もしたことがなかった。
「驚いた?いつかちひろを誘って、ふたりで飲みたかったんだ。だから今日はその記念すべき一回目。だから余計にほろ苦い。なんてね。」と彼女は笑ってみせた。
「私はここの黒豆コーヒーが本当に好き。初めて入った時にメニューを見てなんだろう?って。それ以来ここによく来てるけどこれしか飲んだことがない。」
「僕もこの味気に入った。うまく表現できないけど、味わいが深い、でもすごく飲みやすい。」
「ちひろから漂ってたその甘い匂いはコーヒーとかチョコーレートとか甘い香水とか思ってたけど、煙草だったんだ。吸ってるところ初めてみたから。」
「そう、混沌ってね。変わった名前の葉巻煙草。きっと、ひかるがこのコーヒーを選んだような理由で僕もこれを選んだ。それからずっと吸ってる。」
「甘くていい薫りだね。メープル?なんだろう。甘いお菓子みたいな。」
こうして大学以外での僕らの場所がひとつ増えた。ほろ苦さにほんの少し甘さが加わった
思い出ができた。

ブラックを頼んだのに、なんだか甘いのが飲みたくなって、ミルクとガムシロップをひとつやふたつ。
この時間はそれとよく似ているかもしれない。

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