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荒川の岩淵水門(赤水門)と青山士

「心をとめて見きけば」(1)
荒川の岩淵水門(赤水門)と青山士

一昨日のNHKニュースによれば、10月12日に「荒川放水路」通水100年の記念イベントが開かれたとのこと。
これは東京下町を中心に大きな被害が出た明治43年(1910)の大洪水をきっかけに、放水路の計画が立てられた。鉄筋コンクリート造の水門などが当時としては最先端の技術を導入して放水路が作られ、ちょうど100年前の大正13年(1924)の12日にこの放水路に水が通されたことを記念してのものだった。

起点となる東京・北区では記念のイベントが開かれ、神職が祝詞をあげて参列した国の職員や住民らが水害が起きないよう祈ったそうである。

□荒川放水路

「荒川」は名前の由来のとおり、過去に何度も大規模な洪水を繰り返し、江戸時代から明治にかけて被害が繰り返されてきた。
1910年秋の大洪水では利根川と合わせて氾濫が相次ぎ、埼玉県や東京の下町だけで死者・行方不明者がおよそ350人にのぼり、住宅の全壊や流出が1万8000戸に達するなど甚大な被害を受けた。

東京大水害 下谷区

政府は東京を水害から守る抜本的な対策として、放水路を新たに設け、かつての荒川下流だった「隅田川」に流れ込む水を水門で調整する計画を策定した。

延長およそ22キロ、川幅は約500mにおよぶ大規模な工事であり、
首都圏を水害から守る一大国家プロジェクトであった。
この放水路建設事業の最大の難関工事が、隅田川と荒川放水路の分岐点に作られ、洪水時に隅田川へ流れる水の量を調節する「岩淵水門」である。

この水門の設計を担当したのが、放水路の工事全体の指揮にあたった
内務省の技師であった青山士(あきら)である。

□青山士

青山は1878(明治11)年に静岡県豊田郡中泉村の豪農の家に生まれた。
勉学に励むため東京に出て、第一高等学校に進む。
ここで生涯の師となるキリスト教思想家の内村鑑三と出会い、その教えに感激して内村の門下生となった。
内村の「民衆への愛と奉仕」、「社会正義」や「非戦思想」といった教えが青山のその後の人生に大きな影響を与えることになる。


青山士

内村の助言もあって東京帝国大学では土木工学を学んだ。そして卒業後に主任教授廣井勇の助言から「世界最大の土木工学的実験」と称されたパナマ運河(全長80km)の開削工事に参加する意を固め単身太平洋を渡るのである。

パナマ運河の工事では測量のポール持ちから始め、マラリアに感染して命を落としそうになりながら測量を続けた。その勤勉さと熱意、実力を認められて昇進を続け、ガトゥン・ダムや同閘門の測量調査とガトゥン閘門の重要部分の設計を任されるまでになった。

青山は通算7年間パナマ運河の工事に携わるが、日露戦争後にアメリカでスパイの疑いをかけられたこともあって、運河の完成を見ずに帰国することになる。

1912(明治45)年に内務省に奉職する。パナマ運河開削工事での実力が評価されたことは言うまでもない。
1915(大正4)年、青山は岩淵水門工事主任となる。
冒頭に記したように、岩淵水門は荒川放水路建設工事の中でも最重要であり、最難関工事とされた。底なしの軟弱地盤のためである。

当時の土木工事では基礎部分に「松杭」と呼ばれる丸太の端をとがらせた「くい」を打ち込んでいた。
これに対し、青山は今まで培った経験と知識を生かして、「井筒」と呼ばれる長さおよそ18メートル1辺4メートルあまりの鉄筋コンクリートの筒、あわせて12本を埋め込んで固め、その上に厚さおよそ2メートルの「床版」と呼ばれる鉄筋コンクリートの板を重ねた基礎工事をしたのである。

当時、莫大な費用と工数を要するため、「そこまで頑丈にする必要はあるのか」との内務省首脳の指摘や反対があったものの、青山は頑として譲らなかったという。

青山が反対を押し切って設計施工した開閉自在な岩淵水門は、1923(大正12)年の関東大震災の際にも被害を受けなかった
これ以降、全国で作られる水門の手本となるのである。

岩淵水門(旧)(写真じゃらん)

とはいえ、この大震災の影響で荒川放水路全体の工事現場では28カ所で地盤の陥没や亀裂を生じ、18カ所の橋の一部が崩れる被害が発生している。
青山は不眠不休で現場監督にあたり、着工から14年後の1924(大正13)年10月12日、荒川放水路通水式が岩淵水門右岸の広場で盛大に挙行された。

このあとも工事が続けられ、着工からおよそ20年後の昭和5年(1930)に荒川放水路は完成する。

筆者は、東京都墨田区で青少年時代を過ごしている。当然、荒川放水路のことも岩淵水門のこともよく知っているつもりであったが、建設時の
このような先人の苦労はまったく存じ上げず、今回の100周年イベントの記事を読み青山士氏のこともはじめて知った。

まさに「浅きにふかき事あり」である。

明治、大正時代の技術者には、このような気骨のある人物がいて、50年先、100年先まで見据えて災害に耐えうる土木工事をしてくれたのだと感謝する次第である。

放水路が完成して以降、関東ではたびたび、台風などの大雨による
大規模な被害が起きているが、荒川下流では氾濫は発生していない。                                             (2024.10.14 ryu3)

参考文献:NHKニュース「人の手で開削「荒川放水路」が通水100年    東京で記念イベント 2024年10月12日    

:季刊「大林」 No.60「技術者」所収「青山士 万象ニ天意ヲ覚ル者:その高邁な実践倫理」高崎哲郎著

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