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能楽における形式知とその役割

コンピュータ志向のデジタル形式知か、それともコンセプチュアルな形式知か。どちらの形式知を選ぶのかによって、SECIモデルの印象は大きく変わる。このふたつを混在させてしまったがゆえに、SECIモデルは機能しなかったという話を前回した。もしコンピュータ志向のデジタル形式知を形式知とした場合、SECIモデルのままでよいのか、それとも別のモデルを導入することになるのか。おそらく別のモデルが必要になるだろうというのが、私の仮説だ。(以下、特に断りがない限り、形式知は、コンピュータ志向のデジタル形式知を指す。)

能の稽古において、当初は完全な口伝で伝わっていた謡も、幕府の保護を受け式楽となり、武士の間で広く学ばれるようになると、謡本(うたいぼん)と呼ばれる謡い方を記した本が広まっていく。具体的には次のような感じだ。これは、世阿弥自身も傑作と自負する『井筒』の冒頭部分である。文字の横についた点々はゴマ点と呼ばれるもので、節がついている部分である。この部分にゴマ点以外にさまざまな記号がほどこされており、それぞれ謡の型が指定されているのである。

冒頭から素晴らしい叙情的表現が展開される『井筒』。謡い方を指示する記号が散りばめられている

この謡本は記号で表現されており、形式知と言える。前回の2種類の形式知で言えば、インスピレーションをもたらすようなコンセプチュアルな形式知ではなく、コンピュータ処理できるデジタルな記号としての形式知であろう。能という暗黙知のかたまりのような芸能において、たしかに後者の形式知が活用されているということは、SECIモデルの有効性を示すもののように見える。たしかに、この謡本によって、ある程度は謡を謡うこともできる。記号通り、型通り謡うという意味では可能だ。

しかしここには落とし穴がある。この形式知となった謡本は、あくまで口伝で伝わる謡を記号にむりやり表現したもので、本当の謡い方はこの記号とズレがある。「ここでのこの記号は、すこしゆっくり」とか「同じ記号がでてくるが、こちらの謡いはたっぷり」のように、記号はあくまで本当の謡いを思い出すためのフラグに過ぎない。上記の『井筒』にも「サシ さなきだに物の淋しき云々は改めてシットリと穏やかに謡ふ」などとメモが書かれている。記号に囚われて先生の謡を間違って覚えてしまうことのないよう、真剣に本物の謡に耳を傾ける。この形式知にはそうしたズレに対する緊張感があるのだ。

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