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異律の文章術ー巻き込み/巻き込まれの文章生成

文章力というのは、町田康に言わせれば「死ぬほど本を読め。しかも同じ本を何度も」ということだし、村上春樹に言わせれば「生まれつきなのでがんばってください」ということになる。文章力の遺伝的要素は、かなり強いらしい。どういう機序なのかはわからないが、とにかくそうらしい。

「村上さんのところ」2015年1月16日の回答

今回の合宿、その文章力をたった一泊二日でアップグレードしてほしい、というのが学生たちからのリクエストで、そんな都合のいい要望に答えるほど私も優しくないので、合宿初日に「そんな方法はありません」と終わらせる予定が、なんとメディアアーティストの江渡浩一郎さんも参加されることになってしまい、そんな出落ち合宿が許されなくなってしまった。

そんなわけで、これまでの記事にも書いたように、執筆に向かうマインドセットを変えることによって、根本的な文章力は変わらないけれども、とにかく量を書けるようにするワークを行うことにした。このワークはほぼ、インプロゲームと同様だ。自分をジャッジする視点を一旦、オフにして、自分の内面から湧き出る思考に対してYes, Andすることによって、かけ流し温泉のように文章を書くのである。その意味で、伊東温泉の場所はまさにうってつけだったのかもしれない。

その結果、最初は10分で500文字程度だったアウトプットが、700文字に増え、最終的には3,000字の紀行文や批評文を執筆できるまでになった。書き始めるときに何を書くのか決めずに、とにかく内的エネルギーを信じて書き始める、即興的な執筆方法によって、少なくとも「文章が書けない」という苦手意識を少し払拭できたのではないかと思う。

このことは、実は文章に限ったことではない。たとえば写真についても、つい「いい写真を撮ってやろう」という自己規制を働かせてしまうと、シャッターが押せなくなるし、いい場面に出くわしてもワンテンポ、シャッターが遅れてしまう。身体感覚とシャッタータイミングがズレてしまうのである。頭の中で起こる一瞬のジャッジが、そうした遅れを引き起こしてしまうのである。

生成流動する状態に入ると、こうした遅れとは逆に、できごとに先行し始めることになる。シャッターチャンスが来そうな気がした一瞬後に、まさにそうしば場面がやってくるのである。予感がはたらくわけだ。これは、自分のリズムと世界のリズムがうまく異律しているから起こることだとも言える。

異律というのは、近藤和敬の用語で、自律と他律の間にある、異なるリズムがなかば自律しつつ、なかば影響を与え会う関係のことだ。私たちは、完全に環境と同調するわけでもなく、また完全に環境から独立して自律するわけでもない。その中間的状態の異律がある。この異律は、私たちが常に他者を巻き込みつつ、また他者に巻き込まれているこの世界を、正しく捉えているように思う。

近藤は、腸内細菌の例を出す。わたしたちは、近年の研究で明らかになってきているように、腸内細菌の影響を大きく受ける。たとえば野菜が好きでたくさん食べる人がいるとする。彼は自律的に行動しているだけかもしれないが、結果的にそれによって腸内細菌を活性化させ、そのことによって健康になって機嫌もよくなるかもしれない。「巻き込み/巻き込まれ」の複雑な関係によって、私たちと腸内細菌という全体が維持されている。重要なのは、表面上は自律していながらも、結果的に他者を巻き込み、他者に巻き込まれているということだ。

これにより、たとえばリチャード・ドーキンスによって「利己的」と言われた遺伝子についても、問題は解決するのだと近藤は言う。腸内細菌が「利己的」であっても問題ないように、遺伝子が「利己的」でも問題ない。結局、遺伝子と身体もお互いに巻き込みあって、自己を形成しているのである。

このとき、巻き込まれる分だけ、自律よりも先に一歩を踏み出すことになるというのが、異律の面白さだと思う。たとえば能の舞について、土屋恵一郎は次のように書く。

からだと意志とが離れなければ舞にはならない。そう動かすのではなく、動いたことに意志がついていくから、舞は運動の自由を表現して「振り」ではない「舞」となる。踊りと舞のちがいはここにある。

土屋 恵一郎. 能、世阿弥の「現在」 (角川ソフィア文庫) (Function). Kindle Edition.

動いたことにあとから意志がついていく。ということは、意志よりもワンテンポはやく身体が動くところに、「舞」があるのである。今回の執筆は、この意味で意志による「振り」ではなく、あとから意志がついてくる「舞」としての執筆であった。

また、内田樹は次のように書く。

地謡の地鳴りをするような謡が始まってくると、その波動がシテの身体にたしかに触れてくる。囃子方が囃子で激しく煽ってくると、そのリズムにこちらの身体が反応する。ワキ方が謡い出すと今度はワキ方に吸い寄せられる。そういう無数のシグナルが舞台上にひしめいています。三間四方の舞台であるにもかかわらず、立ち位置によって気圧が変わり、空気の密度が変わり、粘り気が変わり、風向きが変わる。
ですから、舞台上でシテがすることは、その無数シグナルが行き交う空間に立って、自分がいるべきところに、いるべき時に立ち、なすべきことをなすということに尽くされるわけです。自分の意思で動くのではありません。

内田樹「能楽と武道」

ここには異律が起こっている。自分の意思で動くのではないと書いているが、かといって完全な他律でもない。地謡と囃子方、ワキ方も、指揮者を見てそれに従っているわけではなく、自ら動きながら、同時に他者によって律される。能の舞台で起こっているリズムは、メトロノームのようなものではない。地謡だけとってみても、ひとりひとりが独特のリズムをもち、微細なズレが重層的に重なり合っている。

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