野中郁次郎の暗黙知コンセプトの仮想敵
磯崎新を始め、槇文彦、谷口吉生、原広司など、一世を風靡したスター建築家が次々と亡くなった。全方位的な配慮が求められ、もはや彼らのような、社会にインパクトを与えるような建築が不可能となっている現状と合わせて、浅田彰が「建築の死とでもいいたくなる」と述懐していた([緊急開催]オンライントークイベント 磯崎新をいまこそ語り直す 『磯崎新論』(田中純著)をめぐって)。こうした巨人の死は、ひとつの時代の終焉も示唆するものなのかもしれない。
先日、野中郁次郎が亡くなった際も、いったい何が終わったのか考えてみた。野中の暗黙知は、当時好調であった日本企業の成功を説明する日本発のオリジナルの経営コンセプトとして、世界中に影響を与えることになった。『知識創造企業』を読み直しながら、まずはそのコンセプトの正確な理解をしたいと考えた。「暗黙知」という言葉は、日本語としてわかりやすい概念である一方で、その概念がかなりふわっと理解されてしまっているからだ。
この『知識創造企業』が想定している仮想敵は、いくつかある。たとえば、ピーター・センゲの「学習する組織」に対する批判だ。センゲの、自分をシステムの中に入れたうえで全体を捉えるシステム思考が、西洋の要素還元主義的な方法やデカルト的二元論を乗り越えようとするものだとしつつ、しかしそこに内在する本質的な問題を指摘する。
ひとつは、「刺激−反応」という行動主義的コンセプトにとらわれている点である。彼らの学習パラダイムは、極端にいえば、熱いやかんに触って次回は触らないようにする、というレベルであり、知識を発展させていくという見方を欠いている。個人の心身で起こっている知識の創出に言及できていないのだ。ふたつめは、学習する組織といいつつ、個人の学習のメタファーを使い、「組織」が学習するということを包括的に考察できていない点。ほかにも、ダブルループ学習という、既存の思考の枠組みを疑うというプロセスは、結局ものごとを「客観的」に見ることが可能であるというデカルト的アプローチではないか、という指摘もする。
また、もうひとつのターゲットとなっているのが、「資源ベースアプローチ」である。1990年前後に登場した資源ベースアプローチは、ポーターのポジションニング論に応答するかたちで、産業構造やポジショニングだけでなく、企業の持つ能力(ケイパビリティ)が企業の優位性を構築するために重要な役割を果たしていると分析した。そして、それを動的に組み替えていくダイナミック・ケイパビリティに戦略の本質があるのだと考えた。彼らも野中と同様、日本企業を取り上げその強さをケイパビリティの観点から説明した。それに対してポーターは、1996年に『ハーバード・ビジネス・レビュー』に発表した論文「戦略の本質」において、日本企業の戦略不在を指摘した。そんな知的応酬があった。
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