
形式知の正体は〈他者〉である
先日、高校生に向けて授業をする機会があった。いつものようにビジネスモデルの議論を、高校生にもわかりやすいようにという感じで、かなり容易な言葉で説明をした。すごく反応もよくて、満足する授業になったのだが、その授業後に質問に来た高校生がすごかった。
ひとりは、私が「能を学んでいる」という話をしたことから、「実は、能の『井筒』の分析をするという課題が出ていて、『井筒』の間狂言をどのように分析すればいいでしょうか?」という質問がきて、びっくりした。「『井筒』のほかの部分の分析は、伊勢物語との違いなど準備できているんだけれども、間狂言の部分をどう解釈していいかわからない」というのだ。「謡本には間狂言部分は書かれていないし練習もしていないのでわからないけれども、間狂言が前半部分のどこを説明し、どこを説明しなかったか。また、どんな情報を追加しているのかによって、なにかわかるんじゃないか」と答えたが、どんなレベルの高校生なんだ!?
次の質問が、「ソシュールの言語学とヘーゲル哲学の関係はどうなっているのか」というもの。たしかに前半のビジネスモデルをビジネスの構造と説明するときに、軽く構造主義に触れたのだけれども、そこからこんな質問が飛んできた。もうこの段階で、授業を後悔していた。もっと深い話をして、全然良かったのだ。今の高校生は本当にすごい。ヘーゲルの質問はその後、デカルトやカントの話にまで展開した。
形式知ではなく〈他者〉に出会う
さて、今回は暗黙知の議論の、いよいよ終盤に入ってくる。コンピュータで処理できるデジタルな形式知が暗黙知を内面化する、ということは違うのではないかという話を、前回、能の稽古に紐づけて議論した。SECIモデルの表出化、連結化、内面化の各モードでは、形式知がはたらいているというよりも、つねに多様な暗黙知がうごめいており、形式知はその補助でしかないように見える。
この議論の見通しをすっきりさせるために、今日は結論を先に言ってしまおうと思う。個人のパーソナルな暗黙知と対置させられるのは形式知ではなく、制度やルール、システム、そして言語という、現代哲学において〈他者〉と呼ばれているものである。この〈他者〉と出会うときに、私たちの内面に暗黙知が生まれるのであり、またその生まれた暗黙知を深く掘り下げていくと〈他者〉に出会うのである。そして、暗黙知と〈他者〉とのズレが大きくなっていったときに、暗黙知が変わるだけでなく、〈他者〉を変えるダイナミズムも生まれるのである。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?