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形式知の導入は失敗であった

今回の野中郁次郎追悼「野中の暗黙知」シリーズは、書きながらブラッシュアップしているようなところがあって、少し繰り返す部分もあるけれども、お付き合いいただけたらうれしい。毎回、論点が少しずつ整理されていくはずである。

前々回、野中の参照する先行理論として、似ているもののズレのあるふたつの理論、「学習する組織」と「資源ベースアプローチ」を取り上げた。このふたつと野中の暗黙知の議論のズレは、以下の3点に集約される。これが今回の「形式知」批判への土台となる。

1.これらの理論が西洋の出自であることもあって、知識が「真なるもの」という静的なものにとどまっている。結果として、刺激−反応という行動主義的モデルで捉えられている。(つまり、「正しい反応が存在し、それを学ぶ」という前提がある)。

2.知識はもっとダイナミックなものであり、知識は思弁的に獲得されるというよりも、行為や経験にもとづいて主観的に創造されるものである。しかもその知識創造行為は暗黙的でカオスなプロセスである。そうした創造プロセスについて、どちらも十分に分析できていない。

3.知識は個人の中にとどまっているものではなく、組織の中で共有される。また、組織という環境の中で個人が知識を創造する。そうした組織学習のダイナミズムも捉えられていない。

これに答えるかたちで、組織的な知識創造理論を打ち立てたというのが、野中の暗黙知とSECIモデルだった。しかし、野中はSECIモデルにおいて「形式知」という概念を導入する。この形式知という言い方は、『知識創造企業』のなかで、ポランニーの暗黙知と形式知の分類によっていると書いているが、実はポランニーは形式知という言い方はしていない。しているのは、「形式化」という言い方である。

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