理想の学校の姿を考えられるようになりたい
※こちらは個人の意見・感想です。特定の団体としての見解を示すものではございません。
私が中学3年生だったとき、卒業式の日はちょうど桜が咲いていました。それ以来、桜を見て連想するのは学校。今でも学校には選挙のときに行くけれど、自分が卒業していない学校でも、下駄箱に並ぶ上履きや体育館の棚のバスケットボールなどに懐かしさを感じます。”学校”という場所は特別で、多くの学校が似た雰囲気をまとっているのかもしません。
一方ニュースなどでは、コロナウイルスの影響で学校がオンライン授業を実施することもあるようです。学校が変化を迫られているんだなと思いつつも、私にはその変化がいいことなのか判断できません。子供の保護者として、自分が経験してよかったこと、子供にも経験させたかったことが実現できなくなって、寂しい気持ちになる人もいるでしょう。
学校は10年に一度、学習指導要領を変えて教育の目的を変化させていますが、教科や時間割が変わったことだけを見ても、どう変わったのかはよくわかりません。
学校教育に絶対的な一つの正解がないとしたら、保護者としての私は学校の変化をどう評価したらよいのでしょうか。私にもまだ3歳の娘がいるので、娘が進学したときのために、どんなことを考えて、どう判断したら、娘を通わせたい学校になるでしょうか。
私が所属している会社の後藤さんが『Sapiens 2030』というラジオ番組に出て、学校教育の変化と理想について語っていました。その話を引用しながら考えてみます。
(以下、”推し”の話を聞いた私の感想です)
複雑な課題から妥協点を見つけられること
そもそも今の教育がどこに向かっているのか。後藤さんはこのように語っていました。
みんなが妥協できる点を探すのって、大変ですよね。家の掃除一つとっても、家族内で頻度や質の妥協点を探ることもあります。
もっと多くの人が関係する課題なら、その妥協点を探すのは容易ではなさそう。
だとすると、コミュニケーションが必要というのは、単に雑談ができて社交的で...ということではなく、仲間と対話できることが大事なのだとわかります。そのような対話ができているかを確認するためには、見えにくい評価の部分も見ていく必要があるのだと理解しました。
素直に自分の考えを共有できることから始まる学び
では学校の授業の中での対話とは、どのようなことでしょうか。安直に考えると、話し合いの時間を設けて、激しい論争を繰り広げるとも考えられそう。しかし後藤さんが大事にしていたのは、子供同士が互いに認め合えることでした。
互いに相手を尊重して意見交換できると、意見が違ったとしても、通じた感覚になることがありますよね。「わかったもらえた」という感覚が得られると、意見をもらうこともまた楽しくなりそうです。よい対話は、学びを深めてくれるのでしょう。
ただ、子供が互いに認め合うためにも大事にしたい考え方はあるようです。後藤さんは日々の身近なところから、その考えが実現できると言います。
私も、学校では元気であることが求められているように感じられた1人でした。風邪をひいていることを話すと、大袈裟に受け取られたりするし、自分だけ違うことが不安になったりしたものです。
まずは子供が気後れしたり不安になったりしないように、個人の主張が尊重される場を作れるとよさそうですね。自分の主張がありのまま受け止めてもらえるとわかると、自分の考えを人に言ってもいいかなと思えます。子供に関わる大人の価値観も問われているのだと感じました。
子供にどうなって欲しいかを考えることから始めたい
改めて考えてみても、自分の経験と比べるだけでは、学校の変化の良し悪しを判断できないと思いました。目的がよくわかっていなければ、教室が図書室に近くなったとしても、「本が好きな子にとっては便利になってよさそうだなー」としか思わないでしょう。的外れな評価しかできません。だから結局、学校の変化をどう判断したものか、私にはまだわかりません。
でも、「自分の娘にどうなっていて欲しいか」を考えることから始めることはできる気がします。私は娘に、自分の意見を持って仲間と対話できたり、意見を柔軟に変化させられたりする大人になって欲しい。好きなことにもとことんチャレンジして欲しい。だから、それが実現できる学校になって欲しい。最近の学校の変化がその理想に近づいているかは、私にも考えられるかもしれません。
学校はたしかに教育の場ではあるけれど、教師だけでなく地域の人や保護者やいろんな人の意向が反映されている場だと思います。だから学校の変化は保護者にとっても他人事ではないはず。子供を中心に、関わる人の理想ができるだけ達成できる方法を考えられるようになりたいと思いました。
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