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なにが幸いするかはわからない

ちょっと小さな規模の講演会で、たまに
「どうやったら先生みたいに、講師になれますか?」
という質問を受けます。

今回は、いつもと違った、キャリア形成の話をします。

僕は、そもそも、講演講師がそれだけで一本立ちできる仕事だと知りませんでした。

はじめての講演は、2001年9月、札幌市内の労働組合の勉強会でした。2001年8月に娘が生まれたのですが、その前から、「主夫」として新聞やテレビの取材を受けたりしていたので、それを見たり読んだりされた講演の講師選び担当さんが声を掛けてくれたのだと思います。

その後、2002年から毎日新聞で「スーパー主夫の暮らし術入門」が始まると、雑誌やテレビの取材、コラム執筆などの依頼が入り、同時に講演の依頼も増えてくるように。

僕の周囲の講演講師は、大学の講義の延長で講演しているような人達ばかりだったので、最初は周囲の先生方のように講演してました。僕を講師に選んだ側も、大学の先生を呼ぶ感覚だったので、「(先生のわりには)講演がオモシロい」と評価を頂いていました。

ところが、他の講師の講演の様子を知るようになり、「これはアカン」と自分なりに工夫したり、「ああいう講演してみたい」と思ってアドバイスをもらったりして、今のスタイルになりました。

僕には人生の転機が何度かありました。

いつも自分からではなく、向こうから「やってみない?」「これ出てもらえますか?」と提案があり、断る理由もないし、とりあえず「やってみます!」と答えているうちに、講師をするようになったり、テレビに出るようになったり、連載を書くようになりました。

向こうからくるのは、決まって僕が「発信したモノを見て」でした。

脱サラして、フリーターをしながら通信制の大学に在籍していた時に、「大学院に来ませんか?」と誘われたのは、通信教育のレポート課題(かなり珍しい視点のヘンテコなレポート)が採点担当教員の目に止まったのがキッカケでした。

僕が作ったWebサイト上の修士論文草稿(当時、競合する研究者はほぼゼロな領域)を見て、妻が「オモシロい研究されてますね」とメールを送ってきたことがキッカケで知り合い、そのまま結婚したのでした。

主夫前提で結婚したのですが、研究と主夫生活の両立で、夏休み中、あまりにヒマだったので、魔が差したようにWebサイトに「家事のページ」を作りました。それまで大学院で関わっていた、社会福祉学研究や社会福祉士受験に関するページばかりだったところに、趣味のページと並んで家事のページ。ところが、その家事ページが新聞社の目に止まり、「男の家事」に関する取材を受け記事に(2000年1月)。担当の記者さんに「なんで、僕に取材を?」と聞くと、「男の料理のページはいくつかあったのですが、掃除や洗濯まで載せてるのは、山田さんのページだけだったんです」という答え。

いつも、チョットどこか人と違うことを発信していたのを、誰かに気にとめてもらい、アプローチしてもらい、進学だったり、取材だったり、結婚だったりが決まったのでした。

僕の場合、キャリア目標を設定して、それに向かって突き進むというスタイルではなく、日々地道に暮らしている中で、

与えられた仕事を一つ一つこなしているうちに、

いろんな仕事の機会を頂き、連載を任されたり、有名人と仕事をしたり、全国いろんな場所へ行くこともできました。

親が異様に厳しいという家庭の事情で、周囲の子どもと同じことができなかったり、させてもらえなかったので、必然的に周囲の人と違うことに慣れていました。だから

人と違うことを発信する

ことに恐れや怖さがなかったのは、幸いだったと思います。とても、制限された子ども時代で、その呪縛から完全に解放されていると思えないのは今でもシンドイですが、それすら良いキッカケになることもあるのだと思うようにしてます。

目標もなく、ただ闇雲にもがくだけでは、どうにもならないコトもあります。逆に、目標などなくても、周囲が導いてくれるコトもあります。僕は、これまで、後者できました。とても運が良かったのだと思います。この先もラッキーが続くかどうかはわかりません。でも、なんとかなる!よね?と思いながら日々地味に暮らしています。

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