状況に埋め込まれた学習 正統的周辺参加
教えたり学んだりすることについて、子供のころから何度となく感じてきたことがあった。ちょっとした疑問や気づきだ。二つ、ある。
ひとつは、学校の授業は自分がなんらかの努力が稔ると愉しいけれど、遊びはいつも楽しい。遊びなのに、教えも学びもある。これはどうしてだろうかということだ。もうひとつは、学校の授業では全体のことが見えないのに、大工や左官のお兄さん方と一緒にいたり茶の湯の一団の末席にいたり、町内野球団の練習に参加したとき、先斗町のお茶屋さんのお姐さんたちにまじっているときには、そのあらましがすぐに感じられるのは、どうしてだろうかということだ。
学校の授業は2学期とか6年間とか3年間とか順番待ちのようにできているのに、好きな遊びに夢中になっているときや職人さんたちのあいだにいると、「一を知って十を知る」わけではないけれど、一で三が見えたり、その三のそばに五や七がいるような気がする。「一、三、七」がふわりと一緒に感じられる。
それに新参者であっても、なんとなく「一人前」とはどういうものかがわかる。こういうことって、何だろうと思ってきたのである。
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