嫉妬

 ミュージシャンの菊地成孔が過日の「アラン・ロブグリエ/レトロスペクティブ」という催しのとき、日本人はあらかたフランス文化を旨く賞味してきたけれど、その日本人にも「喰えねえフランス」っていうもんがあるんだよねと言っていた。
 なるほど兆民(405夜)・荷風(450夜)から白樺派・小林秀雄(992夜)まで、石井好子から金子由香利まで、二人の白井から蓮實・鹿島(1213夜)まで、たしかに日本はフランスパンを上手にちぎって食べてきた。
 けれども、なんじゃこりゃと思ってきたところもあったはずなのである。ゴダールやサロートやソレルスにそれを感じた連中もいたし、カワイイ派女生徒たちの「リセ」至上主義や「オリーブ」商品主義のパレードに呆れた者たちも少なくない。これは酒井順子(1583夜)が「ユーミンの罪/オリーブの罠」と名付けたやつだ。
 ぼくは「フランス食わず嫌い」ではない。ほとんど授業には出なかったけれど、一応は早稲田のフランス文学科に入ったのだし、最初の海外旅行はパリのカイヨワ(899夜)とマンディアルグとフーコー(545夜)の家に行くことだった。フランス料理がひどく苦手なのと、パリにいるとだいたい苛々してくることと、あのさえずり型のフランス人のお喋りにうんざりすることとを除けば、バルザック(1568夜)も、コレット(1153夜)やゴルチェのモード感覚も、ネルヴァル(1222夜)の神秘主義もリラダン(953夜)の人工感覚もミショー(977夜)のメスカリン感覚も、かなり気にいっている。
 セザンヌには驚けなかったが、パウル・クレー(1035夜)からはそうとうの影響を受けたし、デリダには感じなかったが、ガタリ(1082夜)には感じた。ドビュッシーやアルトーとなると、他の追随を許さない。
 まあ、そういうことはともかくも、「新しがり」(ヌーヴォー)が好きなフランスは、それはそれで悪くないのである。ボージョレ・ヌーヴォー騒ぎは嫌いだが、ぼくはヌーヴォーロマン(Nouveau roman)やアンチロマン(Anti roman)なら、方法文学の試みとしてそれなりに襟をただしてきたつもりだ。
 アラン・ロブグリエの文型と映像をまたぐ作品群も、そこそこ注視してきた。今夜はそのロブグリエを摘まみたい。

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