サッカーがくれたもの
◯引退の瞬間
2020年12月21日。
僕のサッカー人生の幕が閉じた日。
たぶん、僕はこの日を生涯忘れないだろう。
「全国大会出場を辞退します。」
緊急ミーティングで告げられた言葉。
その言葉が意味するものは、引退だった。
それはあまりにも突然で、突然の出来事であった故に
何も考えることができなかった。
みんな、呆然としていた。
そのくせに、頭に何度も浮かんでは消える言葉。
「引退」
「終わり」
の文字。
予想していなかったわけではなかった。
誰も悪くない。
悪いのは間違いなくコロナだ。
でもウイルスに怒っても仕方ない。
むしろ、この決断が最善だ。
ここまでサッカーができたことに感謝しないと。
何度も、何度も、自分に言い聞かせた。
でも、そういったことを頭で理解できていても
やり場のないもやもやとした気持ちは
どうしても変わらなかった。
結局その日は期せずして突然の引退を迎えてしまった同期のチームメイト達と夜中まで話し合い、寝床についた。
翌日。
もぬけの殻とはこのことか。
引退してすぐに取り掛かるべき卒論をやろうと思っても一向にやる気が出ない。
というよりも何も考えたくない。
たぶん、現実逃避をしていたんだと思う。
気づけばゲームをするかスマホをつついていた。
やるゲームはFIFAとウイイレ。
スマホはYouTubeでサッカーの動画ばかり。
少しでも引退前の気分でいたかったのだろう。
サッカー漬けの中の自分でいないと
気がおかしくなりそうだった。
そんなこんなで無駄に時間が過ぎ、夜になった。
僕はついに居ても立っても居られなくなり、
夜道を1人歩きだした。
別に散歩しようと思ったわけじゃなかった。
なぜか自然と足が動いていた。
歩き出して15分後。
涙が止まらなかった。
突然のことで自分でもびっくりしたのを覚えている。
そして1人夜道で勝手に涙を流しながら、
ふと引退前のことを思い出した。
それは11月後半頃だっただろうか。
サッカー人生最後の大会日程が決まった日、僕は引退する瞬間のことをぼんやりと考えていた。
終了のホイッスルを聞いた瞬間、
「ああ、これで本気でやるサッカーも終わりか」
と感慨深くなるのだろうか。
試合終了後、同期や後輩、マネージャー達と輪を囲み、引退する一人一人がサッカー人生で得たこと、後輩たちに伝えたい言葉とかを話すのだろうか。
そこには全てをやり切った、出し尽くした、そんな顔の自分がいるのだろうか。
何にせよ、こんな感じで引退するんだろうなぁ。
でも、現実は違った。
終了のホイッスルを聞くわけでもなく、
みんなと輪を囲み、話をするわけでもなく、
どこか清々しい気持ちにもなるわけでもなかった。
いざ引退が決まってみると、この有様だ。
充実感や達成感どころか、今の自分は泣きながら、
後悔と寂しさに苛まれている。
別にサッカーだけが全てじゃない。
これで自分の人生が終わるわけじゃない。
自粛期間中に本を読んだり、就活中に社会人の方々や家族、友人と話したりする中で、そのことに改めて気づいたはずだった。
それでも、立ち直れなかった。
それはこんなイレギュラーな結末を迎えたから?
いや、恐らく試合終了のホイッスルを聞いて引退していたとしても、どこかでこうなっていたかもしれない。
結局、僕はなんで涙を流しているんだろう。
まさか、後悔している?
こんな気持ちになるってことは、
サッカーを本気でやりきれていない?
いや、やりきったから泣いているのか?
そんなことをうだうだと考えているうちに
家に着いた。
そして家に着き、強く思った。
「この気持ちをどうにかしたい。」
僕は決めた。
「そうだ、この想いをnoteに記そう。」
◯僕のサッカー人生
引退して数日間、僕は自分のサッカー人生を
一から振り返った。
やれることは、それぐらいしかなかった。
あの日、あの時、何を感じたか。
何を想ったのか。
それを振り返り、ひたすら書いた。
大変長くなるが、ここに残しておく。
(大学は長くなりすぎたため、
別の機会に書くかもしれない。)
(興味がない方は次の項目まで飛ばしてください🙏)
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18年前。
母からの「サッカー、やってみる?」の一言。
僕のサッカー人生はここから始まった。
当時5歳。
サッカーと言えるほどのことは
していなかったはずだ。
ボールを足で蹴ってみる。
すると、ボールが動く。
それが何故だか面白い。
そんなものだったのだろう。
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小学生時代。
僕は幼稚園の時の友達が通っていた
少年サッカークラブに入団した。
当時の僕は、
「練習なんか嫌だ。試合だけがしたい。」
なんてめんどくさいことを言う子供だった。
実際、小学生4年生まで試合以外の練習には
ほぼ顔を出していなかった。
4年生。
僕は急に練習に行くようになった。
正直、理由は覚えていない。
たぶん、試合だけに出るという烏滸がましさに、
申し訳なさを抱いたのかもしれない。
そしてこの頃、ある日課ができた。
それは学校終わりの公園でのリフティング。
とにかく回数をこなすことに必死だった。
その日の目標を達成するまで帰らないというルールを決めていた。
長いときは2時間公園で蹴り続けていた。
毎日、毎日、公園でリフティング。
親が「よく飽きんとやるな」というレベル。
日に日に、できる回数が増えていく。
僕は、この時間がなによりも好きだった。
5年生。
チームの仲間数人とコーチの勧めでヴィッセル神戸Jユースセレクションを受けた。
結果は、1次選考落ちだった。
(チームで1番上手かったやつは、たしか4次選考まで残った)
帰りの車内。
親に「まぁそんなもんや、切り替えや。」と言われた。
僕は「うん」と返事を返すばかりで、
後部座席で悔し泣きをしていた。
思い返せば、あれがサッカー人生最初の挫折だった。
6年生の卒業式。
それでも、僕が叫んだ将来の夢は、
「中村俊輔のようなプロサッカー選手になりたい」
だった。
今思い返せば何も考えてなかったと思う。
利き足も違えば、プレースタイルも違う。
たぶん1番知ってる選手の名前を選んだのだろう。
でも、「プロになりたい」
そう思っていたことは事実だ。
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中学生時代。
僕は部活動でサッカーをやることを選んだ。
僕の中学は特別強いわけでもなかった。
それでも中学の部活を選んだのは、
臆病者の僕にとってクラブチームの雰囲気が苦手だったから。上手いことが当たり前のチームで続けられないと思ったから。
でも部活動なら友達と楽しくできると思ったから。
そんな理由だったと思う。
でも、当時の2人の顧問の先生は
そんな僕の甘い考えを覆した。
まず1人目の先生。
黒の厳ついサングラスを掛け、
メガホンと紺の日傘を持っている。
「うーしーじーまー!
そうじゃねえんよ!」とメガホン越しに
よく怒号が飛んできていた。
今の保護者が見るとたぶん学校にクレームがいくんじゃないか。
そんな強烈な先生だった。
そして、もう1人の先生。
普段は優しい。
けど、怒るとめちゃくちゃ怖い。
県トレセンの先生でもあったため、
市選抜の僕は部活、トレセンでお世話になった。
そんな中学時代、僕は顧問の先生から、
ボランチでプレーするように指示された。
理由は単純。
そうしないとFWまでボールがいかないからだ。
(どこのチームもそうなのだろうか?
大学でもボランチ経験者が多かった)
また、3年生ではキャプテンを任された。
ボランチとキャプテン。
小学生までFWをやってきた僕、周りについていくばかりの僕にとって、この2つは新鮮だった。
見える世界が変わった。
ゲームを組み立てることのおもしろさ。
チームの核となる誇らしさ。
人をまとめる難しさ。
様々なことを学んだ。
中学時代の僕はそれなりに活躍していたため、部活動ではある程度満足していたのかもしれない。
でも、今思えば、お山の大将だった。
トレセンではそうはいかなかった。
僕は自分のプレーに自信を持てず、
明らかに萎縮していた。
思い切りの良さ、技術、体力。
どれも足りていなかった。
当然、僕はトレセンではBチームだった。
中学2年生の冬。
顧問の先生から話があった。
トレセンでAチームの1人が怪我したため、
バックアップメンバーとしてAチームに合流するか。
それとも当初の予定通り、Bチームで出るか。
Aチーム(クラブチーム主体)は県内の各地域のトレセンが出るスーパートレセン大会。
Bチーム(中体連)は広島中体連との遠征試合。
僕は最初、Bチームで出たいと言った。
なぜならAチームだと出場できる保証がないから。
Bチームだと活躍できると思っていたから。
しかし、先生は言った。
「上のレベルに挑戦できる権利を使わないのか?今後、自分が上手くなるためにはどちらがよいかもう一度考えてみたほうがいいと思う。」
僕はAチームに帯同することに決めた。
結論から言うと、僕の試合出場時間は10分だけだった。
結果も何も残せなかった。
でもヴィッセル神戸のJユースに5-0で負けていたあの試合で、僕のボレーシュートがクロスバーを叩いたあの瞬間、僕はサッカーにもう一段深くハマった。
小学生時代にセレクションで
自分を蹴落としたチーム。
そのチームを自分のシュートが脅かした。
チームメイトも、驚いていた。
正直、少しスカッとした。
それと同時に気づいた。
挑戦できる権利という素晴らしさ。
上のレベルでやることでもっと上手くなれる。
僕の価値観を覆してくださった
当時の顧問の先生には感謝しかない。
中学3年生。
最後の総体。
2回戦で倒した相手には3年間トレセンで切磋琢磨してきた仲間がいた。
その仲間が「次も勝ってくれよ」と泣きながら僕を抱きしめてくれた時、僕は想いを背負う誇らしさと責任というものを感じた。
あの瞬間も間違いなくサッカーをやることでしか
得られないものだったと思う。
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高校時代。
僕は進学先の高校のサッカー部に入ることを決めた。
そのサッカー部はほぼ毎年一回戦敗退レベル。
でもその年は違った。
2つ上の先輩には県トレの人がいたし、1つ上の先輩には県内で有名なクラブチーム上がりの高校生離れした圧倒的なフィジカルを持ったCBの人など、とても一回戦敗退レベルではない人たちが集まっていた。
さらに、僕が入学すると同時に筑波大学サッカー部出身の新任の先生がサッカー部の顧問になることも、中学の顧問の先生から話を聞いていた。
このサッカー部でなら県でも勝てる。
上のレベルでやれる。
そう思った矢先だった。
怪我。
最初はももかんだった。
ただの打撲。
そう思っていたのが間違いだった。
怪我を早く治そうとするあまり、
復帰しても次は捻挫。
捻挫が治ったと思えば、中学のときの膝の古傷が痛みだし、離脱。
結局、この怪我のループは大学まで続くことになり、高校の半分はまともにプレーができなかった。
それでも、自分たちが2年生になった時、僕たちのチームは総体でベスト32に入るという、例年ではあり得ない快挙を成し遂げていた。
それもこれも、あの辛くも楽しい練習の日々のおかげだったと思う。
先輩にも、同期にも、後輩にも本当に恵まれた。
そして、顧問の先生方。
筑波大学サッカー部出身の先生は、
本当に多くのことを教えてくださった。
プレーはもちろんのこと、3年間クラス担任だったため、学業や進路相談でも大変お世話になった。
「俺はお前が本気でやればいけると信じてる。
その力がある。」
そう、言葉をかけてくださった。
浪人した時、僕が学校に顔を出しては、様々なアドバイスをくださった。2次試験のための実技指導もしてくださった。また、夏には、先生の高校時代の後輩で筑波大学サッカー部で現役としてプレーされている方に声をかけてくださり、大学内を案内させてもらうこともあった。
あそこまでしてくださり、第1志望に行けなかったことは自分の中の悔いでもあるが、とても良い経験ができたと今では思う。
そして、もう1人の先生。
その先生は高知大学サッカー部出身で、高知大学が総理大臣杯で準優勝した時のCBをやっていた人だった。
練習でも度々プレイヤーとして入ってくださり、
トップレベルの守備というものを体感した。
その先生から貰った言葉があった。
浪人当時、僕はまたもや前期で筑波大に落ちた後、
滑り止めで合格していた立命館大学か、
後期受験で合格した高知大学か、
どちらに進学するか迷っていた。
決断するには、様々な要素があった。
サッカーのこと。学費のこと。距離のこと。
そんな時、その先生から
高知大サッカー部の魅力を伝えられた。
「グランドは狭いし、土やけど、
環境に言い訳しないっていうスローガンがある。
集まる選手は間違いなく全国トップレベル。」
僕は、先生の話を聞いていくうちに、
「高知大学でサッカーをしよう」
「選手としてどこまでやれるか、最後の挑戦をしたい」
そう思うようになった。
そして、親に伝えた。
「高知大で、大学サッカーをしたい。」
親は「あんたがやりたいと思ったことを応援する。」
と、快く送り出してくれた。
今思えば、高知大に入ることは運命だったのかもしれない。
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◯夢だった、プロサッカー選手
振り返ると、僕のサッカー人生は18年あったようで、小1から小4までの4年間は練習なんかほぼしてないし、中学・高校・大学で怪我をし、プレーができなかった期間もかなり長かった。
実際にサッカーをプレイしたのは、
体感では12年ぐらいかもしれない。
そんなことはさておき、サッカー人生を一から振り返っていて1つ気づいたことがある。
それは、プロになるという目標を抱いていたこと。
思い返せば大学進学前、選手として最後の成長の可能性を信じ、サッカーの強豪に進学することを選んだはずだった。
でも、いつのまにか、自分から諦めていた。
「プロにはなれない」
それは今まで楽観的に考えていた自分が、
周りのレベルの違いを目の当たりにし、
圧倒されたからだろうか。
僕は努力しているつもりだった。
けれど実際は、怪我を言い訳にしていた。
「怪我が怖いから、これ以上のトレーニングはやめとこう。」
「怪我をする原因は自分にあるけど、
高校から何やってもこの体質治らんしなぁ...」
表面上、自分にベクトルを向けているつもりで、僕は自分自身を改善するための行動をしないやつだった。
実際、怪我をしなくなったのは4回生になってからだった。
行動が遅かったと今でも本当に思う。
プロになる。
物心ついた頃から、周りからは無理だと諭され、
表面上では教師を目指しますと言いながらも(教師になりたいと思っていたのも事実)、内心引っかかっていた。
「どうせプロにはなれない」
その評価を覆したいと思った。
何よりも、周りの予想通りになりたくなかった。
けれど、それらは単なる「つもり」だった。
頭の中で思ってるだけだった。
何かを犠牲にしてまでもプロを目指すという覚悟と
行動力が圧倒的に不足していた。
サッカーが上手い奴らが集まる環境に身を委ねれば
なんとかなると勘違いしていた。
いつだって、どこでだって、全ては自分次第なのに。
今になって気づく。
いや、実はもうとっくに気づいていて、
ずっとその事実から逃げていただけ。
実際に引退して、自分のサッカー人生を一から振り返って、1番痛感していることだ。
そして思い出す。
引退の瞬間の喪失感。
そして、涙した理由。
それは、プロを目指していたつもりで、最後まで「つもり」止まりだった自分の情けなさの自覚だった。
大学サッカーで思うような活躍ができなかった
悔しさだった。
何より、もう二度と、あのメンバーで、あの熱量で
サッカーができないことへの寂しさだった。
でも、悪いことばかりじゃない。
改めて、気づいたこともある。
それは、その時の自分なりにサッカーと
本気で向き合ってきたということ。
日々の練習で手を抜いたことなんてなかった。
自分がどれだけミスしようと、周りとのレベルの差を感じ、劣等感を抱こうと、がむしゃらにボールを追いかけた。それが僕の取り柄だったから。
その結果、3年生の時には出場こそできなかったものの、アイリーグの全国大会にメンバーとして帯同できた。
意外な形ではあったけど、
フットサルで2年連続全国大会に出場できた。
去年の全国大会では、
観に来てくれた親の前でゴールを決めた。
最終学年である今年は、
フットサル代表としてサテライトチームを引っ張った。
こんな経験はそうできるものじゃない。
大学までサッカーを続けなければこういった経験も、ハイレベルなサッカーを学ぶことも、プロになるようなレベルの人たちとマッチアップすることも、弱い自分に気づくこともなかったと思う。
そして何より、サッカーを通して出逢った人達がたくさんいる。
支えてきてくれた家族がいる。
共に目標に向かい、戦ってきた仲間がいる。
間違いなく、今後の僕の心の支えになる人達ができた。
こんなに心強いことがあるだろうか。
サッカーはこんなにも素晴らしい、
一生の財産と言えるものをくれた。
◯引退、それから
もうあの土のグラウンドで、文字通り自身の身体を削り、主張をぶつけ合い、仲間のために、チームのために、死ぬ気になって、相手と本気でぶつかり合い、1つの目標に向かうことはない。
僕は、サッカーで何を得たんだろう。
サッカーをして、何に気づいたんだろう。
僕はサッカーを通して気づき、今後生きていく上で大事にしたいと思った2つのことが頭に思い浮かんだ。
(もちろん、この2つ以外にもたくさんあるがここでは割愛させていただく。)
①行動
②感謝
①行動
物事は決して考えた通りにはならない。
いつだって、自分の行動した通りになる。
行動のみ、現実に影響を及ぼす。
サッカーに限らず、スポーツは特にそうだ。
食事も睡眠も休養もトレーニングも、やった分だけ成果が現れる。
逆に、やった分だけしか成果が現れない。
そして、それら行動の"質"が全てモノを言う。
考えて、考えて、考える。
より良い選択のために、思考することはどの場面においても間違いなく必要だ。
それでも結局、それを行動に移さなければ何も動かない。
何が実際有効なのかもわからない。
当たり前で、誰もが理解していること。
"行動する"ということの大切さ。
②感謝
先輩。
後輩。
同期。
監督。
学生コーチ。
マネージャー。
スポンサーの方々。
先生。
友達。
そして、家族。
様々な人に助けられた。
様々な人に支えられた。
自分がここまで何不自由なくサッカーができたのは、いつだって、周りの人のおかげだった。
そして、サッカーをしてきたからこその人の繋がりがあった。
練習でコツを教えてくださった時。
ボトルを渡してくれた時。
アイシングを作ってくれた時。
気遣いや励ましの声をかけてくれた時。
応援してくれた時。
何気ない話を聞いてくれた時。
その度に交わした、「ありがとう。」
サッカーを通して、僕はこの言葉が好きになった。
これからも、出会う人たちに感謝を伝えていきたい。
◯おわりに
まずはこんなに長い、
一大学生の拙い文書を見ていただき、
ありがとうございました。
何故このブログを書いたのか。
それは冒頭にも書いたように、
今の僕が18年間サッカーを続け、
抱いた思いを形として残したかったから。
この理由に尽きます。
そして、この文章で何を伝えたかったのか。
無責任ですが、それは読んでくださる人に
委ねたいと思いました。
悲しい思いをしている人は自分だけじゃないと思う人もいれば、こんな後悔するやつにはならないようにしようと思う人もいるでしょう。
でも、僕はそれでいいと思います。
人それぞれです。
最後になりますが今の僕が確信を持って言えること。
サッカーに出逢えてよかった。
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