コロナ騒動における幸せと苦しみの意味
私は、昔、「しあわせ」というものを必死に求めていたことがある。
そしてあることに気づいた。
この世界には、しあわせ というものを人間に 与えたり、奪ったりするものたちがいるということを…
ほとんどの人たちは、しあわせになりたいものだから、その者たちに魂までもあけわたしていた。
そんな有様をいたるところで確認した。
だが、思うのだ。
それは暴力ではないか?と。
魂が、しあわせな体験を味わえるかどうかということを、それぞれの魂が自由に選択できるような世界にするべきだからだ。
誰かが、力づくで無理やり食べたくないと言っているものを、他の魂に食べさせるようなことは、暴力行為なのだ。
つまり、
「魂たちに望まれない不幸を、故意に強制することは悪い行為だ」
であれば、しあわせを与えたり、奪ったり…「わざと」する者たちは、悪いことをしていることになる。
それが魂たちの学びのために必要なのだとか…そう言う者たちもいる。
だが、私は見たのだ。
その魂の学びとは、魂にしあわせを与えたり、奪ったりするこの世界の支配者のイエスマンになるための学び…つまりは飴と鞭による洗脳にすぎないということを…
これはひどい犯罪だ。いじめだともいえる。
だから、そんな学びのために不幸があるなどという戯言は、認めれなくなった。
気づいてしまったのだ。
問題は、気づいた後に、どちらを選ぶのか?という問題だ。
この問題に気づいて、そんな状態になっている世界を改めようと意志するのか、それともその酷い支配者たちに従って同じようなことをして共犯者になるのか?という問題だ。
誰も、他の体験者(魂)に望まれない地獄体験を強制する権利などはない。
「そんなことはない、その権利がある」というのならば、自らがその望まない酷い体験をすべて受ける義務がある。
なぜなら、自分でそれでいいのだと、その自由意志で選択するのだから。
だが、拷問などの脅しで仕方なく共犯になるというのならば、情状酌量の余地もあるだろう。
だが、それは心の奥では、そんな酷いことには従いたくない…共犯になりたくない…チャンスがあれば、そんな酷いことを平気でする世界を改めたい…
と思っている場合だ。
本気で自分たちだけ支配者に依怙贔屓されれば、他の魂たちが酷い目にあわされてもよい…命令されなくても自ら率先してその犯罪に加担しよう…などと思ってしまうようでは、さすがに情状酌量されないだろう。
今、コロナ騒動において、この世界のボスとその従者たちの責任が問われている。
哀れな悪い欲望をわざと植え付けられた魂たちに、その悪い欲望を苦痛なく消してあげる治療や癒しをできるだけしようとすることもなく、ただの殺戮をもってよしとするのならば、自らも同じ体験を受ける義務が発生する。
しあわせを誰もが自分の意志だけで自由に生み出せない世界は、良心たちに否定される。
酷い体験を誰もが自分の意志だけで自由に拒否できるようになっていない世界は、良心たちに否定される。
これを理解した時、魂たちは、それぞれ…何を選択するのだろうか…
何を目指すのだろうか?
世界に生じる魂たち全体に発生する状況証拠は、この世界のピラミッドシステムのボスたちの選択だと判断される。