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エロは世界を救う!

   「エロを肯定させてほしい」

    いや、突然ですまない。そう思い立ったのでこういう宣言をさせてもらった。エロを肯定させてもらえないだろうか?なぜそう思ったのか?それは、えろは素晴らしいからであり、エロこそが世界を救う唯一の救世主だからである。

   主語がデカすぎるな…。そんな出だしで大丈夫か?大丈夫だ、問題ない。1番いいエロを頼む。エロ、エロチック。エロチシズム。エロス。これらは愛を指し示す言葉だ。愛。性的なもの。性行為を指すこともあるだろう。これらは随分と長い間、禁忌とされてきた。「いやらしい」「卑猥(ひわい)」だから、「発言すべきでない」「肯定すべきでは無い」し、「秘匿(ひとく)すべき」である。「恥ずかしい」ことである、と。はたしてそうなのだろうか(何度も言うが大丈夫か?)。

   いや、至って真面目だ。大まじめといっていい。バカ真面目とでも言えばいいだろう。なにせ、この禁忌ほど、無意味で、馬鹿げていて、世界の真理からかけ離れた考え方は無いと思うからだ。つまり、逆説的にいえば、「エロこそ至高」ということを言いたいのである。エロは素晴らしい。エロは異性に限らず、「きみとぼく(I and I)」を表現するときの最高の褒め言葉だ。つまり、性的な魅力を感じて、魂が引き込まれ、ひとつになりたい欲求こそ、全ての命のメッセージそのものだと思うからである。その呼び水であるエロこそが、素晴らしいものでなくて、何が素晴らしいというのだろう?人間に生まれ、人間として生きる僕らにとってこれほどの自己肯定は存在しない。わたしはここにいていい。あなたもここにいていい。そして、「きみとぼく(IandI)」は、光と闇であり、プラスとマイナスであり、無限の有と無であり、男と女であり、インとヤンである。そういうことを言っている。その入口の鍵こそが、エロだ。なぜここを否定する?なぜここを隠す?蔑(さげす)む?意味がわからない。エロを感じる瞬間こそ、わたしたちは「生きている」のだし、私たちの次へと繋がる無数の螺旋階段のひとつを信じられるのだ。これこそが愛。これこそが宇宙。この多幸感を感じることの出来る喜びを讃えよう。わたしたちは、生きている。そして、この先もずっと、螺旋階段の中で生き続けるのだ。これまでもそうしてきたように。そしてこれからも。この生命の音楽を止めてはならない(Don't stop the Music)。それは生命全てに対する冒涜(ぼうとく)だし、僕ら小さな命が蔑んでいいはずのない壮大かつ完璧なシステムの否定は許されない。これほどに完璧なシステムを作った神をあなたは否定するのか?否定できるのか?わたし、あなたという関係性のパーツでしかない私たちが、創造主を否定できるとでも?そんなことは有り得ない。そんな小さな発想で物事は決まらない。ましてや、私一人が反乱したところで、全体のうねり、螺旋は崩れない。にも関わらず、何か出来る、なにか否定できると言っている人の方が、わたしは大丈夫か?と問いただしたくなる。世界はそのようにできていない。スピリチュアルな表現が多くてすまない。僕はこの手の内容を現実世界に即した表現方法を知らないのだ。なるべく分かりやすく言いたいとは思っているのだが、どう考えても「そう」出来ているものに対して、「違う」と言えるほどぼくは浅はかでは無いつもりだ。動物が「なぜ交尾をしないといけないのか?私は断固反対する」とは言わないだろう。それは、決められたルールであり、生命の螺旋階段のひとつだからである。私たち個人の意志などそこに含まれてすらいない。

   エロをとことん肯定したところでそろそろ結論と行こう。エロは昔は大人の男だけの楽しみだと言われた。そこから若い男にも広がり、女性にも広がって行った。いまや、エロは恥ずかしいものではない。エロはようやく市民権を得た。エロを嫌い、エロを許さないのは欧米諸国のそれだけだ。それ?つまり、宗教観である。それを頑(かたくな)に守ることはいい。だがそれを守るために命を否定したり、エロを規制する先に戦争はあるのだし、暴力は絶えないことは僕が言うまでもない。戦争はエロを求めるがあまり溜まりに溜まったフラストレーションの爆発の形でもあるからだ。フラストレーションははやめに解消することをおすすめする。もしくは、目線をそらすための政治的なショーだ。それすら、何か押さつけられた、抑制された感情のはけ口として機能する。つまり同じことである。

   愛を、エロを肯定し、その求めるところを互いに認め、それを探求する。その先に金銭的、社会的な壁があるのであれば、そちらの方が問題である。金銭ならお金を配ればいいし、社会ならシステムそのものを変えればいい。いつの世もそれらを拒(こば)むのは、時の権力者である。資本家であり、宗教家であり、それに近い何かである。少なくとも政治家ではない。

   だからこそ、いま、エロは認められなくてはならない。人類を萎縮させているものの正体を意識しなければならない。特定の民族、特定の人種が、ジェノサイドされるような社会に正義などない。その最たるものが戦争であり、政治であり、国家という幻想である。

  ヒトは、というより生き物すべては、生物としての本能から逃れることは出来ない。それは螺旋階段の1部としての役割である。そこの入口にエロは君臨する番犬だ。だから、いやだからこそ、それは徹底的にイメージダウンさせられてきた。そこに気づかれると非常にマズイからである。誰にとって?それは言うまでもあるまい。

  もう少し違う視点からエロについて考えてみよう。成人女性に感じるエロは主に、胸やおしりなどの肉体的なフォルムに集約された。男性は筋肉がそれに当たるが、それにしたってある意味で同意義だ。だがより自然に近いものである動物はどうだろう。とりわけ愛玩動物と呼ばれるそれは、愛を集める。それは何故か。それは、愛の理解が真実を得ているからだ。愛は与えもするし受けもするそのリレーションシップからなることを疑わないからだとわたしは思っている。子どもや幼児に対する感情もまたそれに似たところがあるだろう。つまり、そのどちらも「自然に近い」。

   子どもや幼児に対する性愛はどうか?それらは歪んでいる。征服欲であり、加虐性である。それらは破壊的衝動と同義だ。つまりは戦争と同じ暴力に含まれる。だが、それら子どもや幼児を「慈(いつく)しむ」気持ちは、愛の分野と私は認識する。違いはなにか?そこに性行為が絡み、どちらか一方のみが気持ちよくなる関係かどうかの1点だけだと思っている。それは愛では無い。

   ああ、結論だったね。ララフェルはいいぞ。ララフェルを愛でよ。崇めよ。思いっきり愛を注ぐが良い。なにせララフェルは子どもではない。大丈夫だ。問題ない。1番いいララフェルを頼む。ま、彼ら彼女らは人間ですら無いのかもしれないが。

むじかでした。

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ムジカ⚡音楽好きふぉろばするよ
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