大人の定義を間違えた大人の夏休み、それが黄金のレガシー
ここの所、ずっと考えている事がある。それは、ファイナルファンタジー14とは何か?である。もっといえば、(僕にとって)黄金のレガシーとは何だったのか?ももちろんあるのだけれど。
この点については数個前のNOTEで感想を述べた。今見返してみてもなるほどまあまあ我ながら正直に感想を言えているなと納得はできる。そんなこんなで9月だ。黄金レガシー発売からまる2ヶ月(ぼくはアーリーアクセスのため6月28日からだが)経った訳だが、改めて黄金のレガシーとは?ファイナルファンタジー14とは何か?を考えてみたいと思う。
まず、ファイナルファンタジー14についておさらいしよう。これはゲームだ。オンラインタイトルのゲームである。いや、昨今はほとんどのゲームがネットを常時接続してるので、オンラインを必須としないゲームというとややインディーゲームの印象を持つくらいで、ほとんどのメジャータイトルはオンライン必須で、スコアを競ったり、PvPで直接対決したり、オンラインの仲間と協力してクエストを進めたりという一連のオンライン要素はもはや当たり前だ。その上で問おう。ファイナルファンタジー14のオンライン要素とは何か?を。
セオリー通りの答えはこうだ、オンラインの仲間と協力してダンジョンやボスを攻略する、と。あぁその通りだ。だが、それはもはや一部のユーザーにだけ開放されたコンテンツと化していないだろうか。それは常に周りに仲間がいる人、誘えばすぐに遊べる友達がいる人、である。それをどちらも持っていない僕からするとそれらは月に1回あるかないか?の低頻度であり、オンラインゲームでありながら、オンライン要素を普段ほとんど感じることはない。つまりわたしにとってのファイナルファンタジー14は、昔一時だけオンラインゲームだったという程度であり、 今やオフラインゲームと何ら変わらないのである。
そうなるとますますファイナルファンタジー14とは何か?という問いに重みが増してくる。これはファイナルファンタジーである。僕が子どもの頃から楽しんでいる和製RPGゲームの金字塔だ。そこにはおそらく洋ゲーに憧れた当時の若い力が溢れていただろう。日本のゲームは遅れている。そもそもゲームとは大人のためのものだ。だから大人が楽しめるようにストーリーは練られたし、ビジュアルは洗練された。そうでなければ本来、ゲームはゲームではないのだ、と言わんばかりだった。つまり、まだ見ぬ大人の世界を垣間見るようなドキドキ感が、僕らの冒険心をくすぐっていたのである。
あれから40年近く。あの頃の僕らは確実に歳をとって大人になった。大人になってみればあの頃夢に見ていた大人の世界はまあ予想したよりは普通だった。むしろあのころのワクワクを探しているうちに大人になってしまった感じすらする僕としては、今も尚、どこかに僕をときめかす世界があるのだとどこかで願っているわけだが。
話をファイナルファンタジーに戻そう。ファイナルファンタジーを大人の世界に取り戻す、とは、ファイナルファンタジー16で目指した世界観だ。だが、蓋を開けてみればあれはなんというか大人っぽくしただけの偽物の大人の世界だった、と言うと言いすぎか。言い過ぎかもしれないが私自身が感じた率直な感想は正にそれである。つまり、プロデューサーの吉田直樹氏の掲げた目標は達成されなかった。ああ、吉田直樹氏は神ゲーを作る天才ではなく、彼もまた単なる1人の人間なんだなとある意味当たり前の事実を自分自身に諭したものだ。
そして。ファイナルファンタジー14の最新拡張パッチである黄金のレガシー発売。いわずもがな、同じ吉田直樹氏がプロデューサーとディレクターを兼ねた作品である。もはや彼に幻想を見るのは良くない。彼もまた単に大人になりきれない1人の少年なのだ。彼に何か魔法のような結果を期待する方が間違っている。だが、事実として、リリース最後のティザーPVを、発表された日から毎朝見続けた僕だ。あの曲、あのPVが持つワクワク感は僕の予想を超えていた。「今度は期待できる」「今度こそ…」そう思うのも無理はなかった。どんな内容であれ、「これは僕らに渡された大人の夏休みなのだ」そう言い聞かせた。
「大人の夏休み」とはなんだろう。南の島に行き、海で泳ぐのではなく、優雅にビーチパラソルの下でのんびり過ごしたり、夜は豪華なディナーを頂きつつお酒を嗜み、恋人とめくるめく夜を過ごす…まあそんな所だろう。黄金のレガシーにはそのどれもなかった訳だが。
つまり、つまりだ。大人の余裕を感じさせるような仕掛けもなければ、甘い展開もゼロ。夜を楽しむような無礼講も無し。お酒を飲み歩くようなバカ騒ぎも無し。ここのどこに大人の余裕があるのか。セクシーな展開はいろんな規制で出来なかったことは分かるが、それでもなお、何となく匂わせたり、そんな人らとの夜があってもおかしくない余白は作ろうと思えばできたはずである。それをしなかったのは規制を恐れた以上に、それを入れる勇気が無かったのでは無いか。またはそれらを想像するクリエイティブな発想はハナからなかったのかもしれない…。
僕が欲しかった展開の一例。
・サンクレッド、ウリエンジェの夜の会話
・ヒカセンがタガを外して騒ぐ飲み屋のシーン
・夕日を眺めながら思い出話をするメンバー
・明日は何をするんだ?っていいながら暗転して
翌日はショッピングやらスポーツやら、ギャンブルやら酒やらしまくるシーン。
・そして朝チュンシーン。
これらの片鱗でもあればぼくはこの黄金のレガシーを喝采を持って評したに違いない。もう倒すべき敵は居ないのだ。羽目を外して騒いでいいだろ?サンクレッド?(流し目)が見たかったのである。トライヨラのBGMがジャズバンドのそれだった事は評価するが、最後まで大人の展開がなかったことを思えば、それは、大人の雰囲気を何とかして出そうとした苦肉の策にしか見えない…。あんなに騒がしいジャズビックバンドで大人も何もない気もするけども。つまりあれは失敗していたと言っていい。
どこまで行っても大人の定義を間違えた大人の夏休み、それが黄金のレガシーの実態だとするとそれはもはや絶望を通り越して滑稽ですらある。だから辛いのだファイナルファンタジー14黄金のレガシーは。ぼくは大人になった。ファイナルファンタジーは大人になりきれていない。そこに最大の齟齬がある。
「ゲームなのだから大人であるはずがない」?それを否定したのは僕ではなくて吉田直樹氏だ。大人向けのゲームを作ると言ったのは彼である。ぼくはもう彼の言うことを前ほどは信じなくなってしまった。それはイコールでファイナルファンタジー14への熱量を失うことになった。これは偽りのないぼく自身の真実だ。ではなぜ、まだエオルゼアを信じているのか。その点について最後述べて終わろう。
エオルゼアを信じている。エオルゼアという場所を信じている。エオルゼアを未体験なのであれば、体験して欲しい。エオルゼアには何かある。エオルゼアには個人を成長させることができる余地が残されている。ぼくは人間を成長させる装置としてのエオルゼアに価値を見出している。一方でもはやこれ以上の成長は望めないとも自覚している。つまり、エオルゼアの価値は未経験者にとってはこれからも残るものである。だが、将来を展望した際のサービスとしての成長は最早まるでないと思っているということだ。そこに片足を突っ込んでいたいのは、まだまだ新しい来訪者がいるからである。それらが感じる新しいエオルゼアの魅力を身近で感じていたい。それこそが、今僕がエオルゼアに期待するものそのものであり、新しい装備や新しいボス、新しいダンジョンや新しい世界はそのオマケにすぎないのである。おまけをいくら増やしたところでそのものの魅力は変わらない。いや、無くなっているわけではなく、むしろ逆。魅力はそんな事をしなくても残り続ける。そこに普遍性を感じるからこそぼくは、今月もまた課金をし続けるのだ。
むじかでした。