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改悔批判/2012年1月9日

浄土真宗の信心をあらわす「改悔批判(がいけひはん)」は、昨年より「新しい領解文」の唱和が取り入れられるようになり、その内容を共有するためにテキストを公開しました。ここでは、それ以前はどのようなものであったのかを確認するため、動画サイトに公開されている即如前門主の改悔批判を参照しテキスト公開します。親鸞聖人750回大遠忌の折りに行われた改悔批判です。

改悔批判

2012年1月9日/即如前門主

本日の御逮夜(おたいや)から16日の御日中(おにっちゅう)まで、宗祖親鸞聖人の御正当報恩講(ごしょうとうほうおんこう)が勤修(ごんしゅう)されています。この度の報恩講は宗祖750回大遠忌法要御正当にあたり、50年に一度の法要になります。わたくしは今から31年前、一度改悔批判(がいけひはん)を勤めました。それは門主継職の奉告披露にあたります伝灯奉告法要の翌年でした。大遠忌の年に二度目を勤めることができますこと、誠にありがたく思います。

親鸞聖人が書かれました『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』すなわち『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』は、浄土真宗の根本聖典であり、『御本典(ごほんでん)』といわれます。教行信証では、総序(そうじょ)に続く教巻、行巻、信巻、証巻、真仏土巻(しんぶつどかん)、方便化身土巻(ほうべんけしんどかん)の一部六巻によって、真宗の教義が詳しく述べられています。始めの教巻に

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向(えこう)あり。一つには往相(おうそう)、二つには還相(げんそう)なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

『教行信証』(註p.135)

と、真宗の大綱を述べられます。また証巻に、

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。すなはちこれ必至補処の願より出でたり。また一生補処の願と名づく。

『教行信証』(註p.313)

と還相の利益が述べられています。すなわち浄土真宗は往相回向と還相回向の二種回向から成り立っています。行巻の終わりにある正信念佛偈(しょうしんねんぶつげ)には、「往還回向由他力、正定之因唯信心」、往還の回向は他力による、正定(しょうじょう)の因はただ信心なりと示され、往還二回向(おうげんにえこう)ともに、阿弥陀仏の本願力回向、他力回向のはたらきによります。すなわち、わたくしたちが浄土へ行き生まれて悟りを得ることも、そののちに還相の菩薩(ぼさつ)として迷いのこの娑婆世界に帰って人々を救うことも、阿弥陀仏のはたらきに依るのであります。

また、浄土へ往生することが、まさしく決定するのは、ただ本願力回向の信心によるのです。往相回向には真実の教行信証の四法があり、還相回向では利他教化地(りたきょうけじ)の利益が述べられます。すなわち、真実の教は大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)、真実の行は南無阿弥陀仏、真実の信は他力信心、真実の証は証大涅槃(しょうだいねはん)を示し、また利他教化地の利益とは衆生を救済するはたらきであります。親鸞聖人の説かれました浄土真宗の教えは、信心正因(しんじんしょういん)、称名報恩(しょうみょうほうおん)と言われます。これは南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、阿弥陀仏より賜る信心が往生浄土の正因であり、その上の称名念仏は仏恩報謝(ぶっとんほうしゃ)の心であることを示しています。

今までは自分の存在を「生まれてから死ぬまで」という枠組みの中でしか考えられなかったわたくしたちの死生観、人生観を破って、生と死に新しい意味と方向を与えてくださるのが本願力回向のはたらきなのです。その躍動的な往相還相のはたらきに身を委ねることによって、わたくしたちは念仏生活の中で生死を超えて往生浄土への道を歩むことになり、死ということを浄土での悟りを開くご縁と受け取ることができるのです。このことが浄土真宗にあってお救いにあずかるといわれるのです。

さて、このお座は改悔批判のご勝縁でありますので、ご参集の皆さま、各々異口同音に改悔出言なさってください。

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ。この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ。このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ。

『領解文』(註p.1225)

ただいま出言されましたとおり、心底に深く領解され、み心とお言葉が異ならないならば、誠にめでたいことでございます。さて、領解された御文(ごもん)は安心(あんじん)、報謝(ほうしゃ)、師徳(しとく)、法度(はっと)の四段から成っております。

第一段の安心は、

もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ。

と示される文であります。安心とは信心のことで、浄土真宗の信心は自力の信を離れて阿弥陀仏の本願他力にすべてを託する、いわゆる捨自帰他(しゃじきた)の信心であります。雑行(ぞうぎょう)は正行(しょうぎょう)に対する言葉です。善導大師(ぜんどうだいし)は往生の行を正行と雑行に分けられました。正行は浄土に向かって行ずる行で、読誦(どくじゅ)、観察(かんざつ)、礼拝(らいはい)、称名(しょうみょう)、讃嘆供養(さんだんくよう)の五正行(ごしょうぎょう)です。称名は正定業(しょうじょうごう)、正しく往生が決定する行業で、他の四行は助業(じょごう)、称名念仏につき従う行業です。雑行は本来この世で悟りを目指す行でありますが、それを往生行にするため、雑行と言われたのです。親鸞聖人は高僧和讃、善導讃に、

こころはひとつにあらねども
雑行・雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとへに雑行となづけたり

『高僧和讃』(註p.590)

と詠まれています。次に雑修(ざっしゅ)とは専修(せんじゅ)に対する言葉で、善導大師や源空聖人は正行を修することを専修といい、雑行を修することを雑修と述べられます。すなわち善導讃に

助正ならべて修するをば
すなはち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこころなし

『高僧和讃』(註p.590)

と詠まれて、正定業である称名念仏と、助業である前三後一の読誦、観察、礼拝、讃嘆供養を同格にみなして修することを雑修と名付けられています。また同じく

仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる

『高僧和讃』(註p.590)

と、称名念仏を専修していても現世利益(げんぜりやく)を求める者は、これも雑修とされています。両和讃の内容はともに浄土に往生できないと述べられます。また親鸞聖人は教行信証の方便化身土巻の終わりに、ご自身が「雑行を捨てて本願に帰す」と述べられます。すなわち雑行を捨てて五正行のなかで選択された称名正定業を受け、第十八願の称名念仏に帰すると示されています。続く自力の心について、親鸞聖人は曇鸞大師があらわされた『往生論註(おうじょうろんちゅう)』の自力他力の教判を継承されて、次のように述べられます。『一念多念文意』に

自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり

『一念多念文意』(註p.688)

と記されています。また『教行信証』行巻の他力釈には、「他力といふは如来の本願力なり」と示されます。これによって自力とは自己のはからいでもって往生浄土を望むことで、雑行雑修はこの自力の信に起因するものであります。すなわち「もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて」は自力無効、本願他力に帰することを述べられます。

続いて領解文には

一心に阿弥陀如来、われらが今度の一大事の後生、御たすけ候へとたのみまうして候ふ

と示されます。これはわたくしたちがふたごころなく、阿弥陀仏を信じ、この度の一大事である往生浄土について、必ずおたすけくださると心よりたのみ任せる信心を明らかに示されています。

次の第二段の報謝は

たのむ一念のとき、往生一定御たすけ治定と存じ、このうへの称名は、御恩報謝と存じよろこびまうし候ふ

であります。親鸞聖人は正信念佛偈の龍樹讃に

憶念弥陀仏本願
自然即時入必定
唯能常称如来号
応報大悲弘誓恩

弥陀仏の本願を憶念(おくねん)すれば、自然(じねん)に即の時に必定に入る。ただよく常に如来の号を称して、大悲弘誓(だいひぐぜい)の恩を報ずべしといえり。

『教行信証』(註p.205)

と、龍樹菩薩の遺徳を讃えられて、信心正因、称名報恩の義を述べられています。また蓮如上人は和歌にこの正信念佛偈四句の内容を詠まれました。「御文章」四帖目第四通に弥陀の本願に知遇されたことをよろこばれ、その気持ちを三首の歌に詠まれています。

ひとたびもほとけをたのむこころこそ
まことののりにかなふみちなれ

『御文章』(註p.1167)

この第一首の歌は弥陀の本願を信ずる一念帰命(いちねんきみょう)の信心が決定する姿を詠まれています。

つみふかく如来をたのむ身になれば
のりのちからに西へこそゆけ

『御文章』(註p.1167)

第二の歌は罪悪深重(ざいあくじんじゅう)の凡夫(ぼんぶ)は弥陀を深く信ずる者となった時に、すぐに現生(げんしょう)において正定聚(しょうじょうじゅ)のなかまに入り、やがて必ず浄土に生まれて悟りを得ると詠まれています。

法をきくみちにこころのさだまれば
南無阿弥陀仏ととなへこそすれ

『御文章』(註p.1168)

第三首の歌は慶喜(きょうき)がともない金剛(こんごう)のように固い信心が決定した上は、仏恩(ぶっとん)を知ってその徳を報ずるばかりであると詠まれています。そしてその後に蓮如上人は他力の信心を得たならば、一方ではこの三首の歌を口ずさんで仏恩報尽(ぶっとんほうじん)のつとめになると思われ、他方ではその歌を聞く人が宿縁(しゅくえん)によって同じ心になるのでないだろうかと思われて、上讃仏徳(じょうさんぶっとく)下化衆生(げけしゅじょう)。すなわち上に仏徳を讃じ、下に衆生を化すの意を述べられています。さらにこの三首の歌は讃仏乗(さんぶつじょう)の縁、転法輪(てんぼうりん)の因、すなわち仏法を讃える縁や、仏法を弘める因となるので、後に見る人はあえてこれを身勝手に謗ってはならないと強調されています。

第三段の師徳には

この御ことわり聴聞申しわけ候ふこと、御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識のあさからざる御勧化の御恩と、ありがたく存じ候ふ

と示されます。浄土真宗のみ教えは親鸞聖人によって開かれたものです。煩悩具足のわたくしたちが阿弥陀仏の本願を信じ、念仏を称えさせていただくことによって、往生成仏が必ず決定されると説かれています。その親鸞聖人のご恩徳を偲び、ご恩に報謝するのが報恩講の重要な意義であります。

そして親鸞聖人のみ教えを受け継いで、本願寺を中心にお念仏を伝えてくださいましたのが第三代宗主の覚如上人です。覚如上人は親鸞聖人の伝絵(でんね)、御伝鈔(ごでんしょう)と御絵伝(ごえでん)を通して、聖人のご生涯を世に弘め、また口伝鈔(くでんしょう)や改邪鈔(がいじゃしょう)などを著わされて、信心正因・称名報恩の真宗の教義を述べられました。さらに第八代宗主の蓮如上人は御文章を中心として多くの人々に平易なご勧化を行われました。わたくしたち愚鈍の身に深遠なお念仏のみ教えを領解できますことは、覚如、蓮如両上人の深重なるご恩によるものでございます。

第四段の法度(はっと)は、

このうへは定めおかせらるる御掟、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ

と言われています。法度とは浄土真宗において定められている掟のことであります。信心の行者が日常生活において心がけ守るべきことがらで、生活規範を示されます。親鸞聖人は『末灯鈔(まっとうしょう)』第十九通、すなわち『御消息』第三通に

としごろ念仏して往生ねがふしるしには、もとあしかりしわがこころをもおもひかへして、とも同朋にもねんごろにこころのおはしましあはばこそ、世をいとふしるしにても候はめとこそおぼえ候へ。

『親鸞聖人御消息』(註p.742)

と述べられます。念仏して往生を願うことは自らの悪心を振り返って御同朋(おんどうぼう)御同行(おんどうぎょう)の心をもって人々に接していくことになり、また世を厭うしるしとなると戒められています。さらに蓮如上人も『蓮如上人御一代記聞書』によれば

仏法をあるじとし、世間を客人とせよといへり。仏法のうへよりは、世間のことは時にしたがひあひはたらくべきことなり。

『蓮如上人御一代記聞書』(註p.1281)

と仏法中心の生活をすることを薦められました。現代の混迷する社会において、わたくしたちはどのように生きたらよいでしょうか。親鸞聖人のみ教えと蓮如上人のご教化を通して念仏者のあるべき原点に立ち返り、「世のなか安穏なれ仏法ひろまれ」のお言葉を自らの生活の中で実現させていきたいものであります。ご一同におかれましては引続き日没の勤行を心静かに聴聞(ちょうもん)され、各々我が家我が宿に帰られましたら称名念仏怠りなく、明晨朝には早々よりご参詣ください。



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