発布後目にした4つの見解/オンライン講座
山上正尊
みなさんこんにちは。よろしくお願いいたします。どうしてこの問題が起こったのかというのは、私にとってはいろんな領解文の見解があるから、とっても理解に苦しんでいるという、そういうお話をさせていただきたいと思います。それで「新しい領解文」に関して、4つ私が目にした見解がございまして、それを並べさせていただきます。
1、石上知康著「生きて死ぬ力」
2、勧学寮「ご消息の解説」
3、総長退任挨拶
4、ご門主「新しい『領解文』を通して伝えたいこと」
この4つの見解が、それぞれどう理解したらいいのかというのがありますので、それを私の聞き受けたところでご紹介したいというふうに思います。
1、石上知康著「生きて死ぬ力」
まず一つ目の石上智康著「生きて死ぬ力」という本でありますが、「新しい『領解文』」が出てすぐに、この本と中身がそっくりだよという話を聞きまして、この本を購入いたしまして、読んでみましたらこんな文章が出てまいりました。「悟りにいたるうえで大切なことは無常を観じるということ(65頁)」、あるいは「こと もの すべて 縁起 空であると 悟り、安楽に成る(90頁)」というような言葉が出てまいりました。これがちょっと引っかかりまして、こんな浄土真宗の教えだったかなというふうに思いまして、これを「新しい『領解文』」と重ね合わせて読んでみましたが、「新しい『領解文』」の「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」という内容と、石上さんの書いてる「こと もの すべて 縁起 空であると 悟る」ということが同一内容だなというふうに私は読み取ったもんですから、「そのまま救う」ということが「安楽に成る」ということになるのかなと思います。「安楽に成る」というのが成仏をあらわすのか、現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)をあらわすのか、これは不明なんですが、仮に今ここに当てはめるとすると、「そのまま救う」ということに当たるのかなというふうにも思います。
これを合わせて理解をいたしますと「私の煩悩と仏のさとりとは本来一つである」と悟るから、「私=仏」「そのままの救い」が成立するという構造になってくるというふうに、私はこの両方の書物を見て思ったわけであります。
2、勧学寮「ご消息の解説」
それで、このように理解したらダメですよと発布されたのが勧学寮の「ご消息の解説」でありました。
「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」のところの説明が、非常に難解な文章が書かれてありました。ものすごく苦労したんだろうなと思います。元の文章を変更することなく意味を変えたいう、大変苦労のあった文章だろうということは察しがつきます。ひょっとしたら不本意だったかもしれませんね。
そこに書いてる言葉は「凡夫の立場からすれば異様」である。「智慧の眼で眺めた時には『煩悩と菩提は一つ』と見ることができます」というような言葉が書いてありました。ですから、この「煩悩と菩提が一つ」だというようなことは、仏様の側から見る言葉であります。私の方から「悟りにいたるうえで大切なことは無常を観じるということ」という、この成仏道のあり方というのは完全に否定した言葉になっている、と読み取れます。
「当流は、私が『絶対的な真実無相(智慧)』をさとる仏道ではありません」とも示されますし、「当流は、仏が『智慧からこの私を呼んでくださる慈悲』の仏道です」ということを力説されてあります。この「新しい『領解文』」の文章からは直接このような慈悲の仏道であるというようなことを一言も書いてないんですが、ここまで読み取って安心から外れないように枠をはめてくださったというふうに思うことであります。
さて、今申し上げました「当流は、私が『絶対的な真実無相(智慧)をさとる仏道ではありません」ということを、前回の講義で武田和上は無量寿経の法蔵菩薩の選択摂取あるいは法然聖人の真如観の否定いうようなことでお示しをくださいましたが、私はまた別の角度から大・観二経を見てくださった善導大師から、このことを味わっていきたいと思います。
善導大師は、諸師がー浄影寺慧遠さんを代表とするような浄土教の方々ですが、この方が唯識法身の観・自性清浄仏性観というような観仏をこの観経から読み取っていかれます。具体的には像観の中の是心作仏是心是仏という言葉からそれを読み取っていかれます。それは 是心作仏の方はまだ修行のスタートの方です。懺悔して滅罪して、観仏の修行をおこなえば、心の濁りが浄化されて、心は本来の清浄な法身にかえっていくんだと、私は仏になっていくんだという修行をしていく。それで、修行の完成ーフィニッシュの方ですがーこれは是心是仏、衆生の煩悩の心も、その本性は清浄な法身真如そのものであるというふうにさとりを得ていく、そういう修行が示されるのが、諸師のこの真実無相を悟る仏道というものでありましたが、これを善導大師は観経は凡夫のために説かれたお経であるから、これは当たらないというふうに否定をされていかれます。
今年の安居の会読「指方立相」の判決を引用させていただきます。
とありまして、それを受けてまた、
というふうにバッサリと、この仏道は私たちの、当流の仏道ではないということを判決してくださっております。それで、仏語に随順して捨てていくんだということを、ここで善導大師はおっしゃるわけです。私たち人間が、選択して捨てているんじゃないんだ。仏様が選んでくださったんだということを、このように「仏の捨てしめたまふをばすなわち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなわち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなわち去る。これを仏教に随順し仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく」と善導大師がお示しになり(一・七六三)、また、ご開山(親鸞聖人)は信文類にこのご文を引用されていらっしゃいます(二・七二)。あるいは選択集でこれは三選の文(一・一三二四)と呼ばれる文ですが、閣(さしおく)あるいは抛(なげうつ)傍(かたわら)にする。このような言葉で捨てるということを厳しく表明していかれたのが法然聖人であったということを、また武田和上からもお聞かせいただいたことであります。「もろもろの雑行雑修自力の心をふり捨てて」という言葉は大変重い言葉でありますが、勝手に私たちが捨てたんじゃない、仏様が捨てよというふうにお示しくださったのを私たちは聞いていく。それが真の仏弟子の姿だということであります。このように勧学寮の説明は、この「生きて死ぬ力」に出てるような仏道をばっさりと否定したものというふうに窺うことであります。
この宗報の4月号を見ますと、石上さんが答弁でこんなこと言ってます。「 浄土真宗本願寺派や龍谷大学と武蔵野大学の見解を代表する書物ではありません。全く私のもの、個人の仕事です」と述べているように、「私人として出版したものであることをまずもって理解賜りたい」というふうに言ってはります。ですからこの大問題は、石上さん個人が引き受けていくんだという表明かというふうに思われます。
3、総長退任挨拶
さて、公の人として石上さんが表明されているのが宗報の6月号に出ております退任の挨拶です。
「阿弥陀仏のお慈悲が、なぜ摂取不捨でありうるのか。煩悩具足のこの私が信心ひとつで、『どうして』そのまま救われるのか」ということがそのまま助けるというご法義の肝要である。これを伝えなければならない。これが、これこそ伝わる布教だ。伝道だ。というふうに言いたいようです。その「なぜ」「どうして」というのに答える言葉が、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」という言葉に当たるんだというふうに読み取ることができます。
ご法義の肝要を私たちが聞いておったのは、信心を本とする。信心は聞其名号、仏願の生起本末を聞くことだという風に習って参りました。仏願の生起というのは、阿弥陀仏が、詳しく言うと法蔵菩薩が本願を起こされた理由になります。自らの力では決して迷界より出ることのできない私を救うために本願を起こされた。本っていうのは因本(いんぽん)と言いまして、法蔵菩薩因位の時の発願修行を指します。末は果末(かまつ)と言いまして、願行が満足して、阿弥陀仏として十方衆生済度されつつあるこということを、これ全体を聞くのが信心。名号のおいわれを聞く内容になっておるということであります。もう少し「そのままの救い」に寄せて言うならば、なぜ「そのまま」救いたいと願ったのか、ということですね。その生起の方のその理由の答えは、私は罪悪生死の凡夫であって曠劫よりこの方常に没し常に流転して出離の縁がないということが私たちの姿である。だから「そのまま」救わねばならないというふうに願ったんだということです。そして本末の方はどのように「そのままの救い」をできるようになったのか。あるいは末の方はどのように「そのままの救い」がとどいているのか、ということを聞かせていただく。これが信心の内容であるというふうに読み替えて差し障りないと思います。
ところが石上総長の退任の挨拶は、阿弥陀仏のお慈悲が、なぜ摂取不捨でありうるのか、煩悩具足のこの私が、信心ひとつで、どうしてそのまま救われるのかというと、さとりの世界の風光という風に勧学寮がおさえてくださったように、法性法身の仏様の本体だから本来一つと言えるんだ。そのまま救えると言うんだというお話でありますが、でも私たちが聞いてきた仏願の生起本末の方は方便法身の方でありまして、法性法身から現れてくださった法蔵菩薩ー阿弥陀仏ー、その、私たちにわかる形で説いてくださったそのお姿こそ、慈悲の活動であるというふうに受け止めさせていただくことであります。
4、ご門主「新しい『領解文』を通して伝えたいこと」
最後に、ご門主さまの「法統継承に際しての消息(2014(平成26)年6月6日)」では、こんなこと言われてます。
と法統継承の時におっしゃいました。とっても納得した言葉でありますが、変えちゃいけないものと変えねばならないものっていうのがあると言うんですね。変えたらあかんのは、この仏願の生起本末を聞くという信心の内容です。これ変えちゃダメです、いうふうに思います。ですからこの総長の退任の挨拶で言われてるものも、変えちゃならないものを変えたというふうに思います。それと、なぜとか、どうしてというような理由の部分に当たるところが、私たちが聞いてきた仏願の生起本末という中には説かれてない、ずれてる。そういうことが見受けられます。
ということで、最後に「新しい『領解文』を通して伝えたいこと(『中外日報』2023.3.17)」というご門主様のお言葉を聞きたいと思います。中外日報に3月に出たもんですが、「ご法義自体は不変ですが、その伝え方は時代や社会の状況に応じた工夫が求められます」同じようなことをおっしゃいまして、次に、「私は最後の第3段落を重視しています。それは既に『念仏者の生き方』や『私たちのちかい』でお示しした思いと同様です」というふうに言われるんです。
じゃあ「新しい『 領解文』」となって、どうやらこの法度に当たる部分を 「定めおかせらるる御掟」を更新したいというような、そんなおつもりなのかな、と私はこれを聞いて思いました。それで、「ご法義自体は不変」とおっしゃいますから、安心を変えるつもりはなさそうだなというふうに受け止めました。往生成仏の因ー業因ーは変えるつもりはない。法度の方は、ー起行門(きぎょうもん)、これちょっと教学用語なんですが、往生行としての礼拝・讃嘆・作願・観察・回向といったものであるとか、非往生行であるような廃悪修善・諸善などを、信心をいただいた上でもう一度再構築するというのは大いにやっていいというふうに思います。
その一例で、少年連盟の「せいてん」を挙げさせていただきました。「ちかい。一つ、仏の子はすなおにみ教えを聞きます」云々と読んで唱和しておりますが、このちかいの扱いですが、「これは如来の真実清浄ないのちのあり方を拝して、わが身を知らされるものです」という扱いで、このちかいを子供たちと一緒に唱和させていただいておることであります。
このような誓いは過去にもいろいろ出てるものだろうと思いますので、それはそれで意味のあることだというふうに思います。どんなふうに誓ってもいいと思いますね。外れなければね。じゃあ、ご門主様がもし安心を変えるつもりがないんだったら、領解文として出す必要はなくて、「生き方」「ちかい」のままで良かったんじゃないかという疑問を私は持っております。それで以上のような混乱の原因、4つほど挙げさせていただきました。
まとめます。
1番目、石上智康著「生きて死ぬ力」。これは仏因は理仏を観ずることだという内容でした。
2番目、 勧学寮の「ご消息 解説」は、1は当流の安心ではないというふうに言われる。
3番目、総長の退任の挨拶。安心が変わり、「ゆえ」が的外れである。
4番目、ご門主のお言葉は、安心を示す言葉ではなく法度を伝えたい。じゃあ領解文にしたかったのは誰か、という問題が残る。いろいろ混乱の原因がここにあるんじゃないかなと私は思っていることでございます。以上、私の発表でございました。