浄土真宗の信心をあらわす「改悔批判」に「新しい領解文」の唱和
本願寺にて1月9日より親鸞聖人のご法要「御正忌報恩講(ごしょうきほうおんこう)法要」が始まりました。親鸞聖人の祥月命日にあたる1月16日まで続きます。
行事中に配布されるしおりは以下の内容です。
ご覧のように「新しい領解文」が2回掲載されており、昨年と同様の体裁です。また、浄土真宗の信心について重要な役割をもつ「改悔批判(がいけひはん)」では前半に従来の領解文を出言し、終わりに「新しい領解文」の唱和がありました。昨年の満井勧学と同様の方式です。
宗会では推進に反対する議員が多数を占め、昨年12月の総長選挙においても推進派議員の当選が拒まれる事態となりました。その結果、53名の退場や白票52票という混乱が生じました。しかし、これらの影響が感じられないまま、「新しい領解文」が推進されている様子が見受けられます。この状況に対し、勧学寮やご門主にとって民意はどのように位置づけられているのでしょうか。一般僧侶や門信徒は、教区を代表する議員を通じて宗会で議論が行われることを期待していますが、その声が勧学寮やご門主に届いていない現実があります。宗派内においても、各部署で粛々と推進が行われ、「宗門の今を伝える」とされる本願寺新報には総長選挙の退場や白票には触れず、混乱が起きている事実を伝えません。これは誰に届ける情報でしょうか。内々の恥部を隠し続けた結果、破綻したというニュースが後を絶たない昨今、宗門全員がこの問題と向き合う必要があると思います。このような現状から、本願寺の構造的な問題が浮き彫りになっているのではないでしょうか。
今年の改悔批判与奪者(ご門主の代理)は北塔晃陞勧学です。ここに初日の全文を紹介します。
改悔批判
2025年1月9日/与奪者:北塔晃陞勧学
本日のお逮夜より16日のお日中まで例年のように一七ヶ日の間、ご開山親鸞聖人の御正忌報恩講がお勤まりになります。まことに有難いことであります。この尊いご勝縁にあたり、ご門主様から不肖光昇(北塔勧学の法名)に改悔批判のお手代わりを仰せつかりました。誠に恐れ多いことであります。謹んでご開山聖人のご化導を讃嘆させていただきます。ご参詣の皆様には心静かにお聴聞くださいますようお願いいたします。
改悔批判の始まりは本願寺第8代宗主蓮如上人の頃とされます。御門主様は、『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』についての消息において、次のように仰せになります。
領解文は古くは改悔文と言い、親鸞聖人があきらかにされた本願力回向のみ教えを正しくいただけているかを確認し、誤っていれば改悔することを目的として行われていました。そのために出言の文が定まっていませんでした。その当時のことを蓮如上人のご子息実悟さまが天正8年にあらわした本願寺作法之次第に記しておられます。
このように一大事の後生の一義を申すことこそが、領解出言の本義であります。まずはその本義をあきらかにしてくださったご開山聖人のご苦労を偲んで、私たちが本願に遇うことのできたよろこびを今一度確かめたいと思います。それではお領解を出言なさってください。
この領解文は古来、安心・報謝・師徳・法度の4段より構成されており、念仏者の領解を示すものとして用いられています。
第1の安心とは、「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候えとたのみ申して候」、としめされるものです。はじめにもろもろの雑行雑修自力のこころをふりすててと言われています。雑行雑修とは阿弥陀如来の本願に誓われた他力念仏以外の自力の修業を自身の手柄として浄土へ往生しようとすることであります。ご開山聖人は高僧和讃善導讃に「仏号むねと修すれども現世をいのる行者をばこれも雑修となづけてぞ千中無一ときらはるる」と示しておられます。すなわち念仏を申そうともその念仏で何事かを成し遂げようとしたり、念仏することが功徳を積むことであると思ったりすることは、阿弥陀如来の御心にかなわず、真実の浄土へは往生できないのであります。そしてふり捨ててとは、ただひたすらに阿弥陀如来の本願力におまかせすることですから、一心に阿弥陀如来われらが今度の一大事の後生御たすけ候えとたのみ申して候、と続けられるのです。それは自力の心を離れて、本願力におまかせする他力の信心を述べられたものであります。そして領解文の本義である今度の一大事の後生とは、いま一番大事なことは、後生が迷いであるのかまたはさとりであるのかということです。それほどの大事なことであるから、ひたすら阿弥陀如来の本願他力をたのみとするのです。たのみにするとはたすけてくださいとお願いすることではありません。私たちをたすけてくださる阿弥陀如来をたよりにすることであります。たすけたまへとはたよりにせよと仰せになる如来におまかせいたしますとあてたよりにする意味であります。古来ここの御文までが安心の段とされ、浄土真宗の信心のありようを示されたものであります。
次に第2の報謝とは、「たのむ一念のとき往生一定御たすけ治定とぞんじこの上の称名は御恩報謝と存じよろこび申し候」、と述べられるものです。はじめに、たのむ一念のとき往生一定御たすけ治定とぞんじ、とすくいの全てが阿弥陀如来のお手まわしと知らされることから、この上の称名は、御恩報謝と存じよろこび申し候と感謝のお念仏を申させていただくことになります。称名とは阿弥陀如来のみ名をとなえさせていただくことです。この称名は如来におまかせした人がご恩を思うたびに申させていただく報謝の念仏のことであります。ご開山聖人は正像末和讃に、如来大悲の恩徳は身を粉にしても報ずべし師主知識の恩徳も骨を砕きても謝すべしとお示しです。このご開山聖人のお示しを受けられた信心正因称名報恩のご教授と領解させていただきます。
さらに第3の師徳とは、「この御ことわり聴聞申しわけ候こと御開山聖人御出世の御恩、次第相承の善知識の浅からざる御勧化の御恩と有難くぞんじ候」、であります。思えば遠い過去より如来の本願のお心に背いていた私たちでありました。そのような私たちをご開山聖人以来の歴代のご宗主方は善知識として導いてくださいました。誠にもったいないことであります。
そして最後の法度は、この上は定めおかせらるる御掟一期をかぎりまもり申すべく候、であります。ここに示される領解文の御掟とは歴代善知識の宗主方がお示しくださいました念仏者に対しての時代に相応した守るべき事、心がけるべき事などであります。ご門主様は念仏者の領解すべきこととして、『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』についての消息で次のようにお示しくださいました。
伝道教団を標榜する私たちにとって、真実信心を正しくわかりやすく伝えることが大切であることは申すまでもありませんが、そのためには時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければなりません。このような願いを込め、令和3年2021年の立教開宗記念法要において、親鸞聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、その肝要を浄土真宗のみ教えとして示し、ともに唱和していただきたい旨を申し述べました。浄土真宗では、蓮如上人の時代から自身のご法義の受け止めを表出するために領解文が用いられてきました。そこには信心正因称名報恩などご法義の肝要が当時の一般の人々にも理解できるよう簡潔にまた平易な言葉で記されており、領解出言の果たす役割は今日でも決して小さくありません。しかしながら、時代の推移と共に領解文の理解における平易さという面が徐々に希薄になってきたことも否めません。したがってこれから先、この領解文の精神を受け継ぎつつ、念仏者として領解すべきことを正しくわかりやすい言葉で表現し、またこれを拝読唱和することでご法義の肝要が正確に伝わるような、いわゆる現代版の領解文というべきものが必要になってきます。そこでこの度、浄土真宗のみ教えに師徳への感謝の念を加え、ここに『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』として示します。このように『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』の拝読唱和をおすすめくださいます。皆様ご一緒に『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』を唱和致しましょう。
今ご唱和された領解すべきことをお示しくださいました『新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)』のおこころを深く味わい法度の段を頂きましょう。なおこの御正忌報恩講にてよりふかくみ教えを味わい、お念仏を申させて頂きましょう。