【重要】宗門を正常化する推進協議会より
これまでお聴聞してきた親鸞聖人のみ教えとは違うのでは?
新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)の根本問題
総局の申達によって令和5年1月16日に発布されたご消息の文章には、「領解文」という名称が用いられています。「領解」とは信心のありようであり、領解の本質的な異なりは、信心の異なりにほかなりません。しかし申達されたものは宗祖親鸞聖人と同じ「領解」ではありません。『歎異抄』後序に、
という法然聖人(源空聖人)のお言葉が伝わっておりますように、もし信心が異なるならば、私と私の大切な人は、同じ浄土へ往生することはできません。
皆さまが、新しい「領解文」の「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ そのまま救うが 弥陀のよび声」という言葉を聞いて違和感を抱かれたのは、これまでお聴聞してきたみ教えとは違うのでは?という思いからではないでしょうか。
皆さまが聴聞し、領解されてこられたのは、久遠(くおん)の過去より煩悩にふりまわされ、永劫(ようごう)の未来にかけて迷いの世界を出ることのできない私たち凡夫のために、如来さまがご本願を建てられ、「そのまま救う」というよび声となって届いてくださっているというみ教えであるはずです。それこそが「南無阿弥陀仏」の六字のおいわれであり、浄土真宗のみ教えなのです。私たちの両親・祖父母をはじめ、お浄土へ参られた先人たちも、この教えを仰ぎ、伝え続けてくださいました。
親鸞聖人のご和讃に、
とあるように、阿弥陀さまがご本願を起こされた唯一の理由は、煩悩に翻弄(ほんろう)され、苦悩しつづける私たち凡夫を見捨てることが出来なかったからなのです。このご本願のおいわれを聞きひらくことのほかに、浄土真宗の「領解」はありません。
そもそも、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つ」であるならば、救うも救われるもないのであり、如来さまがご本願を起こされる理由もなくなってしまいます。親鸞聖人のお聖教には、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」に本願が起こされたなどとはどこにも書かれていませんし、浄土真宗のみ教えをいただくものが口にするような内容ではありません。
この文章を浄土真宗の「領解」と称して全国の僧侶や門信徒に唱和・出言させることをこのまま黙認するならば、私たちは、親鸞聖人に対して、またこれまでみ教えを護り伝えてくださった先人たちや未来を担う子や孫たちに対して、申し訳が立ちません。
なお、ご消息の発布はご門主さまの宗務として行われていますが、宗法第9条に「門主は、宗務機関の申達によって宗務を行う」とあり、その宗務については「申達した宗務機関が、その責任を負う」とあるように、ご消息発布の責任は、申達した総局にあります。そして、ご法義をさしおいて、誤った忖度(そんたく)によってご消息文案に「同意」した勧学寮にも責任があります。したがって、ご消息発布の責任は、ご門主さまにはありません。
皆さまには、親鸞聖人以来800年にわたって護持されてきたご法義を護ることこそが、ご本山を護り、ご門主さまをお護りすることになるということをご理解いただきますようお願い申し上げます。
称名
2024(令和6)年8月17日
宗門を正常化する推進協議会(略称:宗正協)
勧学・司教有志の会
新しい領解文を考える会
一信会(宗会議員会派)
顕心会(宗会議員会派)
門徒宗会議員有志
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