どうして生じた?領解文問題 vol.9
松月博宣ノート
検証⓲最高議決機関「常務委員会」
宗報4月号に「常務委員会の主な審議要旨」が掲載されてますが、石上氏の著書で「やはり」と危惧した箇所が総長答弁に使われていました。それは
あの石上智康氏の著書(生きて死ぬ力)を読んで、当該文章の所で「きっとこの文章はアリバイ作り(私は関与していませんよ)のために「増補版」にわざわざ書き込んでいるな」との印象を持ちましたが予想は当たっていました。実に用心深く用意周到に計画されていることに舌を巻きます。
「宗報2023年4月号72頁~76頁」
常務委員会の主な審議内容
※宗報では分からない質問者名を明記しています
はっきり申して、よくもまぁこうも御託を述べられるなとの印象。
この発言「正信偈の意味が分からないから唱和しても意味がないという人はいないだろう。意味が不明であるから唱和することがおかしいという態度はいかがなものか。」に至っては論理のすり替えがされているのか、本当にそう考えておられるのか不明ですが、正信偈と新領解文を同列にしてしまう錯誤があると思います。
※掲載時にお名前の間違いがあり修正しました。失礼いたしました。
素朴な疑問に対して正面から答えず、木で鼻を括るような答弁。
機縁とするのは受け取った側の話。この内田氏の発言は総長擁護の上から目線と感じます。
何を意図した質問か理解ができません。
総局には責任は無いとし勧学寮にその責任はあると主張。しかし宗意安心の裁断権は勧学寮にはありません。それは門主にあるのです。そして門主の宗務行為の責任は総局が取ると宗法に謳われています。ので責任逃れの答弁と言わざるを得ません。これでは門主の責任が問われてしまうような答弁になっています。
採決の結果は
賛成 14票
反対 1票(下川)
常務委員会とは宗派の宗務の執行に必要な重要事項の最高議決機関です。せめて「唱和推進という基本方針の部分保留」を期待していたのですが、法要直前という配慮がはたらき原案通り可決承認されたのです。結果的には総長のアリバイ工作を機関承認した形になり、宗報にて告知となりました。
検証⓳ご門主が石上総長の著書を引用した?
常務委員会の委員構成を前項で揚げましたが、15人の内
(ア)総長総局で4人
(イ)議長・副議長は宗会で議決した事項ですから反対は出来ない立場の2人
(ウ)有識者の3人は総長推薦
これに宗会から選出された6人で構成されているのです。
(ア・イ・ウ)合計で9人は、いわば執行部側というもので、あとの6人の宗会から選出された議員さんも、先の宗会で承認議決した立場上、常務委員会に提出された審議内容に真っ向から反対は出来にくいものではあります。従い常務委員会は総局の提案を形式的に追認する機関と言ってもいいものです。これは「宗本区分」された時から始まった本願寺派の議決システムです。
ですから3月24日の常務委員会を乗り切れば石上智康氏の目論見は完全に完成させることができるのですから、発布の経緯について多弁を労し熱弁を振るわれたのも頷けます。
それはともかく、あの石上氏の著書の内容は個人的な仏教感ですから沙汰をいたしません。しかし問題は著書の内容や表記がご消息と類似というか酷似してるという点です。もし石上氏が言う「ご消息の内容には全く関与していない」が本当なら、ご門主は石上氏の著書の内容と言葉をご本人の承諾なしに「孫引き」でご消息を書かれたことになります。
これはご門主と言えど倫理に反するどころか民事裁判で訴えられると著作権侵害を犯したことになり、罰則を受けかねないことにもなるのです。それも私どもに対して発布される「ご消息」でなされたことになるのです。
同じ内容で2021年にご親教でもお話になっていますが、既にこの時点からということにもなります。ですから石上氏はご門主を民事訴訟に訴えることは可能なのです。石上氏はおそらく「もし私の著作の一分でもご引用くださったとするなら至極光栄。感謝こそすれ訴えるなど恐縮至極」と言われるに違いありません。なぜなら事実はそうではありませんから。
先の321回定期宗会の第1審査会(勧学寮費に掛かる予算案審査の時)で「総長の著書の内容や言葉と酷似している、これは総長がご門主の名を借りて書いたものではないのか?」という議員からの質問に対し、総務の1人が
この発言はご門主を守るといいながら、これほど侮辱している言説は無いと思うのですが、、、、。総長が書いたものでは無いと総長を守るためにと、答弁した方はお気づきになっていないでしょうが、この発言はご門主を侮辱するなにものでもなく懲罰ものの発言なのです。審査会は議事録は取らないのですが、この発言を本会議で取り上げ、その発言の責任を追求しようとしたようですが、議長の「この問題はいづれ話し合う」との取りなしで経常予算案は採択されたのです。
総局一丸となって「ご消息はご門主が書かれたものだというストーリー作り」に躍起になっている有様がよくわかる場面ではありますが、そのことでご門主をますます傷付けることになっている事には気付いていないのです。
宗会に「唱和推進を慎重に」と請願書を出した意味は、唱和推進を進めていけば行くほど、こういう事態(門主批判)が予想され、それはご法義に傷をつけてしまうことになると危惧したからに他なりません。もっと言うならば「唱和」せよと、半強制的に各場面で私たちに押し付けて来ることに「内心への干渉」という大きな問題があることに目を向けなければなりません。
検証⑳石上総長とご門主
「唱和」せよの大号令が令和の迷乱に拍車をかけているのですが、これは石上氏の「自作自演」もしくは「総合プロデューサー」としての立ち位置として行わられていると見るのが妥当でしょう。
ご親教の「念仏者の生き方」で真実信心をいただくと人間はだんだんと変わっていく。また、そうでなければならない趣旨で。また「私たちのちかい」で具体的な生活規範を示すこと。そして「浄土真宗のみ教え」で先の2つをまとめ、現代人に伝わる“新たな浄土真宗”に改変。この「ご親教3部作」を拠り所としたこの度の「ご消息」で浄土真宗本願寺派の正式な教義解釈と仕立て上げた。これをもって現在の宗門を取り巻く状況の危機から脱出をはかる。この遠大な構想が完成したことを宣言する場が「親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」であった。
と見立てています。あまりにも穿ち過ぎと思われるかも知れませんが「当たらずとも遠からず」だと思います。
これらとご門主との関係は?
門主ご自身が発案されたものでは?
と思われる向きも多く有ります。確かに自らの法話「ご親教」で語られ、自らが発布した「ご消息」でこれをお示しになられている形になっていますから、そう思われるのは当然なことです。ですから「ご親教3部作」には当代ご門主の意思が入っていると言えます。ならば何故このような意思をお持ちになるようになられたのか?
ひとつには宗門を統理するものとして、現在の状況への「焦り」と未来への「危機感」があると思います。私たちが想像出来ないほどの重責を担っておられるのですから、そのご心労は大変なものだと拝察しております。
当代ご門主が新門時代、東京・築地本願寺に副住職として滞在されていたことはご承知の通りです。その間、首都圏の人々の宗教状況を肌身に感じられたことも想像に難くありません。「東京都市圏は宗教の不毛地帯」ということが喧伝されます。それはあまりにもステレオタイプな捉え方で、人間の多様性を無視した決めつけに他なりません。
現在、東京都市圏には日本の総人口の約3割3000万人が住んでいるのです。(東京都1400万人、千葉県627万人、神奈川県919万人、埼玉県736万人)これだけの方がいるのですから浄土真宗の教えに触れている方を探す方が難しいのは自明です。
布教使として首都圏のお寺や築地本願寺にお招きに預かりお取次をする機会が結構あるのですが、熱心なお同行に会うことしばしばです。そのほとんどの方は地方からの流入組と、近親者とのお別れがご縁となってお寺とのご縁も開かれお聴聞されるようになられた方です。都市圏内には地方からの流入者が多く、その中には潜在的真宗ご門徒は確実に存在します。その潜在的真宗ご門徒を再発掘することに注力することが先決と思うのですが、その発想はあまりないように個人的には感じています。
話を戻します。
当代ご門主は東京都市圏の現実に触れられたことで「焦り」「無力感」それに伴う「危機感」を味あわれたのでしょう。そのような思いをしている最中、東京都内生まれで千葉県君津市の寺院住職且つまた東京教区南選挙区選出の宗会議員であり、叔父に当たる石上氏が種々アドバイスなりご相談にのられる中で同じ「焦りと危機感」を共有されていくのは至極当然の成り行きだと思います。
その上で石上氏が総長という立場になった時から、その強烈な個性も加味され「こうでなければならない」という「自身の思いの丈をご門主に語らせた」と見るのは間違ってはないと思います。
検証㉑浄土真宗が塗り替えられている
いま浄土真宗の塗り替えが行われています。
宗門で起こっていることは「唱和」の推進だけではありません。聞法会館ロビーには「ご親教3部作」と「新しい「領解文」」を拡大したものが壁一面に掲示され、「本願寺新報」には常に一面に掲載。 ブディストマガジン「大乗」誌にも、仏婦連盟機関誌「めぐみ」にも、仏壮連盟学習誌「朋友」にも、門徒推進員だよりにも‥‥‥などの冊子全てに掲載。そして宗門校の団体、龍谷総合学園で使う中学校用宗教教本「みのり」並びに高校用宗教教本「見真」にも早速掲載されるなど、全ての出版物に新しい「領解文」が掲載されています。
それだけではありません。
各教化団体の活動方針にも「ご消息『新しい「領解文」についての消息」の心を体し」の文言が入れてありますし、仏婦綱領(2018年2月6日改定)には「仏の願いにかなう生き方をめざします」とご親教3部作の1つ「念仏者の生き方」の一節が挿入されています。
少年連盟発行の子ども用「せいてん」に「救いのよろこび」を掲載していたのですが、いつの間にか削除されて、ご親教「私たちのちかい」全文が掲載される事態。また、本願寺が発行する勤行聖典に「新しい「領解文」」が掲載されるようです。(現在は在庫分に新しい「領解文」を印刷したものを差し込んで販売されています。在庫が無くなり次第新しい「領解文」掲載予定)
さらに、本願寺から全寺院に対して「新時代の浄土真宗」(PHP出版発行)が郵送され、この度は組長便を使い、掲示用「新しい「領解文」」のA1とB1サイズのものが配られています。慶讃法要参詣者全員に、ご消息・新しい「領解文」全文と勧学寮が苦肉の策として書いた解説文が冊子にまとめられ配られています。
そして宗務所や各教区の職員朝礼では「唱和」を強要、本山での研修会等において「唱和」、各教区の諸行事において「唱和」をプログラムに入れるよう通達がされるなど怒涛の如く私たちに「新しい「領解文」」を唱和させる動きがあります。
皆が納得できるものならば、強制するという問題は別にしても「まぁ仕方ないなぁ」で済ませることができますが、今まで私たちが領解していたものとは全く違う到底納得できないものを、きちんと説明もせずに「手続きによってご門主が発布されたものだから」と、なし崩し的に押し付けられることは健全な宗教団体とは到底言えません。これは私たちに思考停止を迫るもので、浄土真宗の教えに一番そぐわない様相を呈しています。
ですから今しなければならない事は
ことだと考えています。
取り返しのつかない事態を石上氏は引き起こしてしまいました。これを改めていくには相当な時間と努力と経費が掛かることでしょう。しかしそれを惜しんでいては将来に禍根を残すことは明らかなことです。ご法義を守ることを確認した上で、各人ができることから始めてみたいと思っています。
検証㉒石上総長のエピソード1
石上総長の教化方針の考え方を伺えるエピソードをひとつ。
本願寺派の寺院分布を西日本と東日本を比較すると西日本が相対的に多くあるようです。しかし人口分布は反対に東日本にが多く西日本は減少傾向にあります。本願寺派は人口が多い東京都市圏に教化を注力すべきことが喫緊の課題のひとつである、と諸政策が起案され実施されています。この度の「ご親教3部作」や「ご消息新しい領解文」は、それを意識したものであると言えます。これを言い換えれば「今まで本願寺派を支えてきたものはそれはそれとして、これからは新しい方々(未信の方)に焦点を当てるべき」という方針ということです。
私は首都圏教化を否定するものではありませんが、先にも書いたように、それと同時に地方でも首都圏でも「潜在的ご門徒の再発掘」をすることの方が急がれるとは思っています。ここで石上氏の教化姿勢の一端を伺うことのできるエピソードを紹介しておきます。
それは私が直接、石上氏から聞いた言葉です。
専如ご門主伝灯奉告法要第5期の期間のうち2017年3月12日?14日の記念布教に特命布教使として招聘された時のこと。法要前にご法話そして法要厳修。そして「伝灯のつどい」(大谷家お揃いで参詣者の前にお出ましになり、親しくご門徒方と接するというプログラム)の会場準備のために一旦別所に控えるのです。控えたのは御影堂廊下の放送ブースの裏です。総長石上氏と当時執行長であった今は亡き本多氏、それに記念布教使の私の3人。
その時、総長にスクールナーランダ実施現況の報告をしました。スクールナーランダとは「子ども・若者ご縁づくり推進室」が企画実施したものなのですが、地域コミュニティや家族形態の変化、人口減少、など様々な要因で現代の若い世代と仏教との距離は遠ざかっている現況です。
一方で、「宗教に関心がある」若者は約5割というアンケート結果があり、その割合は減っているのではなく、2000年代に入って微増しています「宗教は心のよりどころになるか」との質問も約6割が肯定しており、仏教に対する興味・関心が決して低いわけではありません。
とは言え、お寺でお坊さんの話を聞く、というのは若い人にとっては敷居の高い。そのような若者たちへどうしたらアプローチできるかを議論し、「今の時代に合う仏教の伝え方」を検討し、仏教をはじめ芸術や自然科学など、多様な分野の講師を招き横断的に人類が積み重ねてきた智慧を、講義を聞くことでクロスさせ若者の心の中でケミストリー(化学反応)を起こし学んでもらうことで、多様な価値観が共存し、未来を予測しづらい複雑な世界の中で、自分の生きる“軸”は仏教にありますよ、ということを伝える「新しいカタチの伝道法」を創り出したものです。
第1回を2017年2月3日~4日
第2回を同年3月4日~5日
京都と富山で実施するための稟議書を前年の12月に石上総長に出したのですが、なかなか決裁してもらえませんでした。ネットで募集をかけるためには年末には決裁を受けなければ情報公開も出来ない。私たちが焦っている中、12月27日の宗務所ご用納めの日に部長さんが決裁を貰いに行ったのですがその時
『こんな企画、誰が責任取るのか?失敗しても私は知らないからね』と言いながら決裁印を押してくれたと報告が部長よりありました。そして年明け早々に情報公開し募集をかけた所、1週間で参加者が満たされるという反響でした。各メディアもこれを取り上げ話題になったものです。
そんな「決裁の経緯」があった上での実施でしたので、ご法要時を借りて、このような結果でしたよとの報告を「子ども・若者ご縁づくり推進室」推進会議委員長として致したのです。その時、石上氏は
耳を疑ったのですが、「まぁいいか、責任は取らないが手柄は自分かい。この人っていつもや」と内心思ったのですが、「そうですよね」と聞き流そうとしていた所に続けて
石上総長の口から聞き捨てのならない言葉が発せられたものですから、本多執行長に「今の総長の言葉、聞きましたよね、覚えておいてください。」と確認し、それから一悶着、、、、本多さんの取りなしでその場は一旦引き下がったことがあります。
どうでしょうか?この言葉に石上氏の本心があり宗務執行のベースがあると思うのは私だけではないと思うのです。地方と今まで本願寺を支えてきてくださった方々を『ここにいるような方は、もういいんだよ』と切り捨てていく姿勢。「ご縁のない方に伝えなきゃ」には同意は出来るのですが。
私は「この総長は私とは異質で違う人だ」という、その時のスクールナーランダのテーマ「分け隔て」を思わずしてしまう自分に出合う出来事でした。
以下のリンクはスクールナーランダの紹介動画です。
検証㉓石上総長のエピソード2
もう一つエピソードを。
それは2017年5月31日に「伝灯奉告法要」がご満座になり「伝灯奉告法要御満座の消息」が発布されました。その後同年7月19日に「実践運動中央委員会」が開催されました。私は教区選出委員ではなく「子ども・若者ご縁づくり推進室」推進会議委員長の「当て職」として出席しておりました。
その年の「宗務の基本方針」はご親教「念仏者の生き方」をもって、そのお心を体現するというものでした。いろいろな意見具申が委員方から百出していましたが、私からは疑問に思っていた事を以下のように質問いたしました。
すると法制担当部長さんは欠席しておられたためか明確なお答えがなく、委員会の進行役の座長・亀井義昭氏(当時実践運動委員・現在北海道教区選出の宗会議員)に、隣に座っていた総長が耳打ちをされ、すぐに座長は「それでは暫時休憩とします」と宣言。
しばらくして再開、すぐに石上総長がマイクを握り
と私に聞かれたので
「理屈はわかりますが、納得できません」
と一言答えたら笑いが起こったことがありました。(総長は苦笑いでした)
その委員会が終わり廊下で総長とすれ違いましたので「あのご親教は総長さんが書かれたものではないのですか?」と素朴な質問を投げかけましたら、「そんな僭越な!『ご親教をお願いします』とご門主に申し上げたのみ」と返事をされましたので、「そうなんですか?あまりにもその後の動きが用意周到に感じましたので」と言い返したことがありました。
その後の総局巡回や宗務の基本方針を説明する時必ず、ご消息にご親教「念仏者の生き方」に述べたように、とある事からご親教ではあるがご消息に準ずるものとして基本方針の理念としたと説明されることになったのです。
その理屈でやり過ごせたことに味をしめた総長は、「ご親教3部作」と「ご消息」の関係性を自信を持って使いこなしていると感じるのです。あの時の質問が「ご親教の扱い方」の理屈の付け方のきっかけになったのではないかと今にして思うのが、私のただの邪推だったらいいのですが。
つづく