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どうして生じた?領解文問題 vol.9

松月博宣ノート

検証⓲最高議決機関「常務委員会」

宗報4月号に「常務委員会の主な審議要旨」が掲載されてますが、石上氏の著書で「やはり」と危惧した箇所が総長答弁に使われていました。それは

浄土真宗本願寺派(西本願寺)や龍谷大学と武蔵野大学の見解を代表する書物ではありません。全く私のもの、個人の仕事です

あの石上智康氏の著書(生きて死ぬ力)を読んで、当該文章の所で「きっとこの文章はアリバイ作り(私は関与していませんよ)のために「増補版」にわざわざ書き込んでいるな」との印象を持ちましたが予想は当たっていました。実に用心深く用意周到に計画されていることに舌を巻きます。

「宗報2023年4月号72頁~76頁」
常務委員会の主な審議内容
※宗報では分からない質問者名を明記しています

意見(下川委員・福岡)
第321回定期宗会では、明年度の宗務の基本方針に関し、新しい「領解文」を唱和することについて、布教現場から戸惑いの声があるため、強制的にこれを進めないよう強く要望した。複数議員から、新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)に総長の著書との類似点が見受けられること、教学上の疑問点があることが指摘されていた。しかしながら、このたびの具体策は、その唱和を強制的に勧めているような内容があり、今のままではご法義が間違って伝わることが懸念され、ご門主様への批判がおよぶのではないかと危篤する。申達した総長の責任がきわめて重大である。慶讃法要での唱和は取り下げて、内容を再検討いただきたい。

答弁(総長)
宗務の推進が強制的であるという指摘はあたらず、大変残念である。丁寧な手順を踏み、相談しながら宗務に取り組んできた。新しい「領解文」(浄土真宗のみ教え)についての消息のご発布については、第一に、約20年前からの議論を経て、昨年8月に「現代版「領解文」制定方法検討委員会」において、制定方法の議論をいただき、その結果、委員会の答申を受け、ご門主様にご消息として発布賜ったものである。第二に、宗意安心と教義に関する宗門の最高機関である勧学寮の同意がなければ、ご消息の発布はなかった。また、ご消息との関連性について指摘されている著書『生きて死ぬ力』には、その「おわり」に「浄土真宗本願寺派(西本願寺)や龍谷大学と武蔵野大学の見解を代表する書物ではありません。全く私のもの、個人の仕事です」と述べているように、私人として出版したものであることを、まずもって理解賜りたい。総局は、第315回定期集会において、ご親教の申達責任に関する通告質問に対し、「ご親教の内容については、宗法で定められる通り、法灯を伝承して、宗務を統一し、この宗門の中心におられるご門主様のご教化に関することであり、当然ながら、総局が介入すべきことでもないと考えている」と回答している。このたび、新しい「領解文」についての消息を発布賜った経緯は、「現代版「領解文」制定方法検討委員会」から、ご門主様にご消息をもって制定いただくのが最も相応しい制定方法であるとの答申を受け、ご門主様よりご消息を発布賜ることについて総局会議で確認のうえ、内事部を通じてご制定をご門主様にお願いした。その後、内事部よりご消息の文案が担当部に回移されてきたものであり、その間、総局はご消息の内容について一切関与していない。ご消息の文案が内事部より回移されてきたため、宗報第11条の規定に基づき、その文案について、あらかじめ勧学寮に同意を得、ご消息発布について申達し、ご認証を得たのであり、ご消息の内容について勧学寮の同意を重く受けとめている。このご消息の中でご門主様は「伝道教団を標榜する私たちにとって、真実信心を正しく、わかりやすく伝えることが大切であることは申すまでもありませんが、そのためには時代状況や人々の意識に応じた伝道方法を工夫し、伝わるものにしていかなければなりません。このような願いをこめ、令和3年・2021年の立教開宗記念法要において、親鸞聖人の生き方に学び、次の世代の方々にご法義がわかりやすく伝わるよう、その肝要を「浄土真宗のみ教え」として示し、ともに唱和していただきたい旨を申し述べました」と御示しになられている。また、本年2月召集の第321回定期集会のご教辞(44頁)において、ご門主様は「このたびの、新しい「領解文」が、我執我欲に執われのない完全に清らかな行いはできないけれども、それでも仏法を依りどころとして生きていくことで、智慧と慈悲、自利と利他という仏さまのお徳を慕い、少しでもそのお心にかなう生き方を目指し、精一杯努力させていただく念仏者の生き方の指針となりますことを願っております」と、御自らのお考えをお述べになられたことはご承知の通りである。ご門主様のお心を深く受けとめ、定期集会で議決いただいた宗務の基本方針に基づき、このたびの具体策(拝読・唱和等を含む)を提案している。

はっきり申して、よくもまぁこうも御託を述べられるなとの印象。

意見
新しい「領解文」の唱和に対する批判的な意見には、それぞれが主体的に受けとめて、それを生かして、どのように行動していこうかという発想ではなく、これまで通りの一つの解釈しか認めないという態度が感じられる。これは、ある意味権力偏重ではないか。例えば、正信偈を唱和と言われて否定する人はいない。正信偈の意味がわからなければ唱和しても意味がないという人はいないだろう。唱和する、繰り返していく中で、その意味が確認できるということもある。意味が不明であるから唱和することがおかしいという態度はいかがなものか。

答弁(総長)
親鸞聖人750回大遠忌宗門長期振興計画の「総括書」(56頁の総長執務方針演説参照)には、「布教伝道のポイントの一つは、「簡潔さ」と「繰り返し」であるといえる。教えの内容が簡潔に示され、しかも口に出して繰り返し味わう場面が設定されることが重要となる」と示してあり、これを受けて進めていきたい。

この発言「正信偈の意味が分からないから唱和しても意味がないという人はいないだろう。意味が不明であるから唱和することがおかしいという態度はいかがなものか。」に至っては論理のすり替えがされているのか、本当にそう考えておられるのか不明ですが、正信偈と新領解文を同列にしてしまう錯誤があると思います。

※掲載時にお名前の間違いがあり修正しました。失礼いたしました。

意見(沖井委員・福島)
新しい「領解文」が示されて間もなく、慶讃法要で唱和することとなった。坊守、寺族には十分に伝わっておらず、なかなか門信徒との一体感が感じられない。寺族、門信徒、教化団体が十分に受けとめたうえで、心を一つにして慶讃法要で唱和できればよかった。

答弁(総長)
現代版「領解文」の制定は、約20年前から議論されてきたことであり、定期宗会における総長執務方針演説(56頁)において、制定の経緯、内容、願いを縷々と述べている。ご消息の発布から慶讃法要での唱和までの期間が短く、受けとめが十分ではないという指摘については、提案している具体策に示した通り、今後の全教区・沖縄特区における学習会の開催や、解説本等を用いた周知・普及策を丁寧に積み重ねていきたい。

素朴な疑問に対して正面から答えず、木で鼻を括るような答弁。

要望(内田・和歌山)
SNSでは、新しい「領解文」に関する疑問視が投稿されているが、これは翻せば、宗門にとって大きなチャンスとなるのではないか。それらの疑問視に対して、わかりやすく、丁寧に、一生懸命説明することで、門信徒や、ご縁のかたった方々へもみ教えが広がっていく絶好の機会になるのではないか。ぜひ丁寧に説明することに注力していただきたい。

答弁(総長)
具体策に掲げる取り組みに留まらず、さまざまな普及策を検討し、丁寧に取り組んでいきたい。

機縁とするのは受け取った側の話。この内田氏の発言は総長擁護の上から目線と感じます。

質問(質問者特定できず)
SNSでは、憶測や推測が事実であるかのような批判が投稿されている。例えば、総局が起草したご消息文案に対して勧学寮が同意したのではないかという批判であり、そうした批判に対する真偽をはっきりと示すべきである。あらためて宗法に規定する申達とはどういうものであるのか。

説明(特定出来ず)
申達は、ご消息の発布という行為について伺いあげる、いわゆる稟議書類であり、ご消息の内容について総局が関与するものではない。

何を意図した質問か理解ができません。

質問(不明)
勧学寮の同意の過程で、勧学寮から教学上の見解等はあったのか。

説明(総長)
総局には勧学寮の同意がなされたという事実のみが通知されたほか、本年2月召集の第321回定期宗会の予算審査会における質疑に対して勧学寮部長が勧学寮員全員の同意があったと説明したこと以外は、総局は存知していない。

総局には責任は無いとし勧学寮にその責任はあると主張。しかし宗意安心の裁断権は勧学寮にはありません。それは門主にあるのです。そして門主の宗務行為の責任は総局が取ると宗法に謳われています。ので責任逃れの答弁と言わざるを得ません。これでは門主の責任が問われてしまうような答弁になっています。

採決の結果は
 賛成 14票
 反対 1票(下川)

常務委員会とは宗派の宗務の執行に必要な重要事項の最高議決機関です。せめて「唱和推進という基本方針の部分保留」を期待していたのですが、法要直前という配慮がはたらき原案通り可決承認されたのです。結果的には総長のアリバイ工作を機関承認した形になり、宗報にて告知となりました。

石上智康(総長=会長)
池田行信(総務)
武野公昭(総務)
日谷照應(総務)
園城義孝(宗会議長)
内田 孝(同副議長)
亀井義昭(宗会議員)
公文名眞(宗会議員)
鹿多証道(宗会議員)
滋野浄真(宗会議員)
下川弘暎(宗会議員)
茶屋征夫(宗会議員)
沖井智子(有識者)
樫畑直尚(有識者)
早島 理(有識者)

検証⓳ご門主が石上総長の著書を引用した?

常務委員会の委員構成を前項で揚げましたが、15人の内
(ア)総長総局で4人
(イ)議長・副議長は宗会で議決した事項ですから反対は出来ない立場の2人
(ウ)有識者の3人は総長推薦
これに宗会から選出された6人で構成されているのです。

(ア・イ・ウ)合計で9人は、いわば執行部側というもので、あとの6人の宗会から選出された議員さんも、先の宗会で承認議決した立場上、常務委員会に提出された審議内容に真っ向から反対は出来にくいものではあります。従い常務委員会は総局の提案を形式的に追認する機関と言ってもいいものです。これは「宗本区分」された時から始まった本願寺派の議決システムです。

ですから3月24日の常務委員会を乗り切れば石上智康氏の目論見は完全に完成させることができるのですから、発布の経緯について多弁を労し熱弁を振るわれたのも頷けます。

それはともかく、あの石上氏の著書の内容は個人的な仏教感ですから沙汰をいたしません。しかし問題は著書の内容や表記がご消息と類似というか酷似してるという点です。もし石上氏が言う「ご消息の内容には全く関与していない」が本当なら、ご門主は石上氏の著書の内容と言葉をご本人の承諾なしに「孫引き」でご消息を書かれたことになります。

これはご門主と言えど倫理に反するどころか民事裁判で訴えられると著作権侵害を犯したことになり、罰則を受けかねないことにもなるのです。それも私どもに対して発布される「ご消息」でなされたことになるのです。

同じ内容で2021年にご親教でもお話になっていますが、既にこの時点からということにもなります。ですから石上氏はご門主を民事訴訟に訴えることは可能なのです。石上氏はおそらく「もし私の著作の一分でもご引用くださったとするなら至極光栄。感謝こそすれ訴えるなど恐縮至極」と言われるに違いありません。なぜなら事実はそうではありませんから。

先の321回定期宗会の第1審査会(勧学寮費に掛かる予算案審査の時)で「総長の著書の内容や言葉と酷似している、これは総長がご門主の名を借りて書いたものではないのか?」という議員からの質問に対し、総務の1人が

ご門主は立派な方です。人のいいなりになって動くような方ではありません。もう立派な大人ですよ。小学生じゃないんです。それでご門主と総長とある程度考え方が似通うのは当たり前です。だからご指名に当たったんですよ。ご門主を侮辱するなんて、この場で言ったらいかんですよ。

この発言はご門主を守るといいながら、これほど侮辱している言説は無いと思うのですが、、、、。総長が書いたものでは無いと総長を守るためにと、答弁した方はお気づきになっていないでしょうが、この発言はご門主を侮辱するなにものでもなく懲罰ものの発言なのです。審査会は議事録は取らないのですが、この発言を本会議で取り上げ、その発言の責任を追求しようとしたようですが、議長の「この問題はいづれ話し合う」との取りなしで経常予算案は採択されたのです。

総局一丸となって「ご消息はご門主が書かれたものだというストーリー作り」に躍起になっている有様がよくわかる場面ではありますが、そのことでご門主をますます傷付けることになっている事には気付いていないのです。

宗会に「唱和推進を慎重に」と請願書を出した意味は、唱和推進を進めていけば行くほど、こういう事態(門主批判)が予想され、それはご法義に傷をつけてしまうことになると危惧したからに他なりません。もっと言うならば「唱和」せよと、半強制的に各場面で私たちに押し付けて来ることに「内心への干渉」という大きな問題があることに目を向けなければなりません。

検証⑳石上総長とご門主

「唱和」せよの大号令が令和の迷乱に拍車をかけているのですが、これは石上氏の「自作自演」もしくは「総合プロデューサー」としての立ち位置として行わられていると見るのが妥当でしょう。

ご親教の「念仏者の生き方」で真実信心をいただくと人間はだんだんと変わっていく。また、そうでなければならない趣旨で。また「私たちのちかい」で具体的な生活規範を示すこと。そして「浄土真宗のみ教え」で先の2つをまとめ、現代人に伝わる“新たな浄土真宗”に改変。この「ご親教3部作」を拠り所としたこの度の「ご消息」で浄土真宗本願寺派の正式な教義解釈と仕立て上げた。これをもって現在の宗門を取り巻く状況の危機から脱出をはかる。この遠大な構想が完成したことを宣言する場が「親鸞聖人ご誕生850年・立教開宗800年慶讃法要」であった。

と見立てています。あまりにも穿ち過ぎと思われるかも知れませんが「当たらずとも遠からず」だと思います。

これらとご門主との関係は?
門主ご自身が発案されたものでは?
と思われる向きも多く有ります。確かに自らの法話「ご親教」で語られ、自らが発布した「ご消息」でこれをお示しになられている形になっていますから、そう思われるのは当然なことです。ですから「ご親教3部作」には当代ご門主の意思が入っていると言えます。ならば何故このような意思をお持ちになるようになられたのか?

ひとつには宗門を統理するものとして、現在の状況への「焦り」と未来への「危機感」があると思います。私たちが想像出来ないほどの重責を担っておられるのですから、そのご心労は大変なものだと拝察しております。

当代ご門主が新門時代、東京・築地本願寺に副住職として滞在されていたことはご承知の通りです。その間、首都圏の人々の宗教状況を肌身に感じられたことも想像に難くありません。「東京都市圏は宗教の不毛地帯」ということが喧伝されます。それはあまりにもステレオタイプな捉え方で、人間の多様性を無視した決めつけに他なりません。

現在、東京都市圏には日本の総人口の約3割3000万人が住んでいるのです。(東京都1400万人、千葉県627万人、神奈川県919万人、埼玉県736万人)これだけの方がいるのですから浄土真宗の教えに触れている方を探す方が難しいのは自明です。

布教使として首都圏のお寺や築地本願寺にお招きに預かりお取次をする機会が結構あるのですが、熱心なお同行に会うことしばしばです。そのほとんどの方は地方からの流入組と、近親者とのお別れがご縁となってお寺とのご縁も開かれお聴聞されるようになられた方です。都市圏内には地方からの流入者が多く、その中には潜在的真宗ご門徒は確実に存在します。その潜在的真宗ご門徒を再発掘することに注力することが先決と思うのですが、その発想はあまりないように個人的には感じています。

話を戻します。
当代ご門主は東京都市圏の現実に触れられたことで「焦り」「無力感」それに伴う「危機感」を味あわれたのでしょう。そのような思いをしている最中、東京都内生まれで千葉県君津市の寺院住職且つまた東京教区南選挙区選出の宗会議員であり、叔父に当たる石上氏が種々アドバイスなりご相談にのられる中で同じ「焦りと危機感」を共有されていくのは至極当然の成り行きだと思います。

その上で石上氏が総長という立場になった時から、その強烈な個性も加味され「こうでなければならない」という「自身の思いの丈をご門主に語らせた」と見るのは間違ってはないと思います。

検証㉑浄土真宗が塗り替えられている

いま浄土真宗の塗り替えが行われています。
宗門で起こっていることは「唱和」の推進だけではありません。聞法会館ロビーには「ご親教3部作」と「新しい「領解文」」を拡大したものが壁一面に掲示され、「本願寺新報」には常に一面に掲載。 ブディストマガジン「大乗」誌にも、仏婦連盟機関誌「めぐみ」にも、仏壮連盟学習誌「朋友」にも、門徒推進員だよりにも‥‥‥などの冊子全てに掲載。そして宗門校の団体、龍谷総合学園で使う中学校用宗教教本「みのり」並びに高校用宗教教本「見真」にも早速掲載されるなど、全ての出版物に新しい「領解文」が掲載されています。

それだけではありません。
各教化団体の活動方針にも「ご消息『新しい「領解文」についての消息」の心を体し」の文言が入れてありますし、仏婦綱領(2018年2月6日改定)には「仏の願いにかなう生き方をめざします」とご親教3部作の1つ「念仏者の生き方」の一節が挿入されています。

少年連盟発行の子ども用「せいてん」に「救いのよろこび」を掲載していたのですが、いつの間にか削除されて、ご親教「私たちのちかい」全文が掲載される事態。また、本願寺が発行する勤行聖典に「新しい「領解文」」が掲載されるようです。(現在は在庫分に新しい「領解文」を印刷したものを差し込んで販売されています。在庫が無くなり次第新しい「領解文」掲載予定)

さらに、本願寺から全寺院に対して「新時代の浄土真宗」(PHP出版発行)が郵送され、この度は組長便を使い、掲示用「新しい「領解文」」のA1とB1サイズのものが配られています。慶讃法要参詣者全員に、ご消息・新しい「領解文」全文と勧学寮が苦肉の策として書いた解説文が冊子にまとめられ配られています。

そして宗務所や各教区の職員朝礼では「唱和」を強要、本山での研修会等において「唱和」、各教区の諸行事において「唱和」をプログラムに入れるよう通達がされるなど怒涛の如く私たちに「新しい「領解文」」を唱和させる動きがあります。

皆が納得できるものならば、強制するという問題は別にしても「まぁ仕方ないなぁ」で済ませることができますが、今まで私たちが領解していたものとは全く違う到底納得できないものを、きちんと説明もせずに「手続きによってご門主が発布されたものだから」と、なし崩し的に押し付けられることは健全な宗教団体とは到底言えません。これは私たちに思考停止を迫るもので、浄土真宗の教えに一番そぐわない様相を呈しています。

ですから今しなければならない事は

①新しい「領解文」の拝読唱和を推進する「2023年度・宗務の基本方針の部分的一時保留。
②各出版物や本願寺と各教化団体のホームページ等への「新しい領解文」掲載を一旦中止。
③「新しい領解文」を得度式で使うことや御正忌報恩講改悔批判に用いる事をしない。
④宗会で可能ならば「これを依用することを控える」という決議をしてもらえるよう宗会議員諸氏に訴えていく。
⑤この度の混乱をご縁として、今一度、私たち一人一人の「領解」をあらためて問い直す「信仰運動」としていく。

ことだと考えています。

取り返しのつかない事態を石上氏は引き起こしてしまいました。これを改めていくには相当な時間と努力と経費が掛かることでしょう。しかしそれを惜しんでいては将来に禍根を残すことは明らかなことです。ご法義を守ることを確認した上で、各人ができることから始めてみたいと思っています。

検証㉒石上総長のエピソード1

石上総長の教化方針の考え方を伺えるエピソードをひとつ。
本願寺派の寺院分布を西日本と東日本を比較すると西日本が相対的に多くあるようです。しかし人口分布は反対に東日本にが多く西日本は減少傾向にあります。本願寺派は人口が多い東京都市圏に教化を注力すべきことが喫緊の課題のひとつである、と諸政策が起案され実施されています。この度の「ご親教3部作」や「ご消息新しい領解文」は、それを意識したものであると言えます。これを言い換えれば「今まで本願寺派を支えてきたものはそれはそれとして、これからは新しい方々(未信の方)に焦点を当てるべき」という方針ということです。

私は首都圏教化を否定するものではありませんが、先にも書いたように、それと同時に地方でも首都圏でも「潜在的ご門徒の再発掘」をすることの方が急がれるとは思っています。ここで石上氏の教化姿勢の一端を伺うことのできるエピソードを紹介しておきます。

それは私が直接、石上氏から聞いた言葉です。
専如ご門主伝灯奉告法要第5期の期間のうち2017年3月12日?14日の記念布教に特命布教使として招聘された時のこと。法要前にご法話そして法要厳修。そして「伝灯のつどい」(大谷家お揃いで参詣者の前にお出ましになり、親しくご門徒方と接するというプログラム)の会場準備のために一旦別所に控えるのです。控えたのは御影堂廊下の放送ブースの裏です。総長石上氏と当時執行長であった今は亡き本多氏、それに記念布教使の私の3人。

その時、総長にスクールナーランダ実施現況の報告をしました。スクールナーランダとは「子ども・若者ご縁づくり推進室」が企画実施したものなのですが、地域コミュニティや家族形態の変化、人口減少、など様々な要因で現代の若い世代と仏教との距離は遠ざかっている現況です。

一方で、「宗教に関心がある」若者は約5割というアンケート結果があり、その割合は減っているのではなく、2000年代に入って微増しています「宗教は心のよりどころになるか」との質問も約6割が肯定しており、仏教に対する興味・関心が決して低いわけではありません。

とは言え、お寺でお坊さんの話を聞く、というのは若い人にとっては敷居の高い。そのような若者たちへどうしたらアプローチできるかを議論し、「今の時代に合う仏教の伝え方」を検討し、仏教をはじめ芸術や自然科学など、多様な分野の講師を招き横断的に人類が積み重ねてきた智慧を、講義を聞くことでクロスさせ若者の心の中でケミストリー(化学反応)を起こし学んでもらうことで、多様な価値観が共存し、未来を予測しづらい複雑な世界の中で、自分の生きる“軸”は仏教にありますよ、ということを伝える「新しいカタチの伝道法」を創り出したものです。

第1回を2017年2月3日~4日
第2回を同年3月4日~5日
京都と富山で実施するための稟議書を前年の12月に石上総長に出したのですが、なかなか決裁してもらえませんでした。ネットで募集をかけるためには年末には決裁を受けなければ情報公開も出来ない。私たちが焦っている中、12月27日の宗務所ご用納めの日に部長さんが決裁を貰いに行ったのですがその時

『こんな企画、誰が責任取るのか?失敗しても私は知らないからね』と言いながら決裁印を押してくれたと報告が部長よりありました。そして年明け早々に情報公開し募集をかけた所、1週間で参加者が満たされるという反響でした。各メディアもこれを取り上げ話題になったものです。

そんな「決裁の経緯」があった上での実施でしたので、ご法要時を借りて、このような結果でしたよとの報告を「子ども・若者ご縁づくり推進室」推進会議委員長として致したのです。その時、石上氏は

だろう?これからはああいう形でないと伝わらないんだよ

耳を疑ったのですが、「まぁいいか、責任は取らないが手柄は自分かい。この人っていつもや」と内心思ったのですが、「そうですよね」と聞き流そうとしていた所に続けて

あのね、ここにいるような方は、もういいんだよ。これからはご縁のない方に伝えていかなきゃならんのだよ。

石上総長の口から聞き捨てのならない言葉が発せられたものですから、本多執行長に「今の総長の言葉、聞きましたよね、覚えておいてください。」と確認し、それから一悶着、、、、本多さんの取りなしでその場は一旦引き下がったことがあります。

どうでしょうか?この言葉に石上氏の本心があり宗務執行のベースがあると思うのは私だけではないと思うのです。地方と今まで本願寺を支えてきてくださった方々を『ここにいるような方は、もういいんだよ』と切り捨てていく姿勢。「ご縁のない方に伝えなきゃ」には同意は出来るのですが。

私は「この総長は私とは異質で違う人だ」という、その時のスクールナーランダのテーマ「分け隔て」を思わずしてしまう自分に出合う出来事でした。

以下のリンクはスクールナーランダの紹介動画です。

検証㉓石上総長のエピソード2

もう一つエピソードを。
それは2017年5月31日に「伝灯奉告法要」がご満座になり「伝灯奉告法要御満座の消息」が発布されました。その後同年7月19日に「実践運動中央委員会」が開催されました。私は教区選出委員ではなく「子ども・若者ご縁づくり推進室」推進会議委員長の「当て職」として出席しておりました。

その年の「宗務の基本方針」はご親教「念仏者の生き方」をもって、そのお心を体現するというものでした。いろいろな意見具申が委員方から百出していましたが、私からは疑問に思っていた事を以下のように質問いたしました。

宗務の基本方針にご親教「念仏者の生き方」が謳われていますが、ご親教ってご門主の法話ですよね。ご親教は御正忌でもされるし春の法要でもなさいます。なのに何故伝灯奉告法要初日のご親教を「宗務の基本方針」とされるのでしょうか?その法規的根拠はどこにあるのですか?前門さまがご就任された時「教書」が出され、その後の宗務は「教書」を中心になされたのは知っています。その時「教書」の位置付けに当時の総局は苦心されたように記憶しておりますが、ご親教についてはどのように位置付けされてるのか不明です。

すると法制担当部長さんは欠席しておられたためか明確なお答えがなく、委員会の進行役の座長・亀井義昭氏(当時実践運動委員・現在北海道教区選出の宗会議員)に、隣に座っていた総長が耳打ちをされ、すぐに座長は「それでは暫時休憩とします」と宣言。

しばらくして再開、すぐに石上総長がマイクを握り

先ほどの質問は宗務の機微に触れるものであった。ただいま局議した結果「ご親教」ではあるが、ご満座のご消息に
『(前略)このように教示された生き方が念仏者にふさわしい歩みであり、親鸞聖人のお心にかなったものであるといただきたいと思います。このことは、ご法要初日に「念仏者の生き方」として詳しく述べさせていただきました。』と、ご消息の中に「念仏者の生き方」について自ら述べられる箇所があることを持って、ご親教「念仏者の生き方」をご消息に準ずる扱いとして宗務運営の礎とすると考える。これでよろしいか?

と私に聞かれたので
「理屈はわかりますが、納得できません」
と一言答えたら笑いが起こったことがありました。(総長は苦笑いでした)

その委員会が終わり廊下で総長とすれ違いましたので「あのご親教は総長さんが書かれたものではないのですか?」と素朴な質問を投げかけましたら、「そんな僭越な!『ご親教をお願いします』とご門主に申し上げたのみ」と返事をされましたので、「そうなんですか?あまりにもその後の動きが用意周到に感じましたので」と言い返したことがありました。

その後の総局巡回や宗務の基本方針を説明する時必ず、ご消息にご親教「念仏者の生き方」に述べたように、とある事からご親教ではあるがご消息に準ずるものとして基本方針の理念としたと説明されることになったのです。

その理屈でやり過ごせたことに味をしめた総長は、「ご親教3部作」と「ご消息」の関係性を自信を持って使いこなしていると感じるのです。あの時の質問が「ご親教の扱い方」の理屈の付け方のきっかけになったのではないかと今にして思うのが、私のただの邪推だったらいいのですが。

つづく

松月 博宣
浄土真宗本願寺派僧侶
龍谷大学文学部仏教学科卒業。本願寺派布教使。
福岡県海徳寺前住職。
https://www.kaitokuji.info/

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